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お念仏を申す生活法話

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水曜学校が始まります

2018-04-12
 昨日は子ども会水曜学校の始業式をしました。7人のお友だちが集まってくれました。
去年の6年生二人が卒業して、今年は一年生が一人入学しました。
 7人のうちご門徒の関係者は一人です。
 
 子どもっていいなと思うのは、大人になると色んなはからいがでてきて、
お寺は門徒でないとお参りできないところと思われて、
どうぞ皆さんどなたでもお参りしてくださいとお誘いしても、中々難しいことかなと思ったりします。
 
 ただ子どもたちは門徒だからとか門徒でないからとかいうことは一切ありません。
友だちが行くから一緒に行くという思い一つです。
 
 お同行という言い方をします。
皆さんも気分的にあまり行きたくないところに一人で行くことは気が進まないものでしょう。
誰かと連れだって「いっしょにいこうえ~」と一緒に行けるところがやっぱり楽しいですね。
 そういうお寺になっていきたいと常々申していることです。
 
 この一年子どもたちが水曜学校に通ってどのように成長してくれるかなと思います。
水曜学校は毎週あります。一週間の同じ曜日同じ時間にみんないっしょに来てほしいと思いますが、
中々通い続けることは難しいようです。
 
 水曜日は学校がお昼までということで水曜学校を始めました。40年ほど前のことです。
その頃は子どもたちの周りの環境ものんびりゆったりしていました。
 
 間もなく水曜日にスポーツ少年団や習い事の塾があったり、育成クラブができたりして
水曜日の午後は子どもたちはかえって忙しくなり、一緒に行こうえという友だちがいなくなったのです。
 
 そういう現実のなかに水曜学校です。
お父さんお母さんの親の理解ということが一番ですね。
水曜学校に行っておいで、お寺に行っておいでと声をかけてもらえるといいなと思います。
 
 塾に行きなさい、こうしなさいああしなさい、こっちの方が子どものためになるというのも、
親だからこその思いです。わからないことはありません。
 
 そうした人人の思いはからいのなかにあって、今日もこうしてお朝事のお勤めができました。
南無阿弥陀仏の仏さまのご縁です。
 阿弥陀さまのご本願のおはからいおはたらきをいただき、皆さんそれぞれのお家から思いを一つにして
ご縁をいただけるということの有難さ尊さをまた思います。
 
  ご一緒に、お念仏申しましょう。 (2018.4.12)

もう降参です、阿弥陀さま

2018-04-11
 私たちは言葉で人に思いを伝えます。
その手段に、手紙や電話があり、今はメールなどのSNSがあります。
 
 言葉を伝えるというより、私の思い、気持ちを伝えるということです。
事務的に文書でものごとを伝えることも含めて、そこは人と人、顔と顔を合わせて言葉を交わすことの大切さを思います。
その時どきの周りの状況、顔の表情や言葉遣いの有様に文言以上のものが伝わり、
その人人の真意がお互いに確認されることにもなります。
 
 今国会が公文書をめぐる問題で連日紛糾しています。
文書に残す。文書がない。文書が出てきた。一方「面会したことがない」「記憶にない」などの言葉が行き交います。
 傍からみれば、どちらかが嘘をついているということですが、
その人人の立場、都合で私たちは生きているんだなということを見事に見せてくれています。
 
 本当のことでも言いたくないこともあるでしょう。ごまかすこともあるかもしれません。
ところがあまりにもそんなことが続くと、またこんなことを言ってる、こんなことを言ってると、
相手にされないようになります。こうなると本当につらい、悲しいですね。
 こんなはずじゃなかったと思い返しても、どうにもならない状況に落ち込むことにもなってしまいます。
 
 私たちの阿弥陀さまです。私たちの阿弥陀さまはずっといつも私たちのことを見てくださっている仏さまです。
私が背中を向けて逃げようともどこまでも追っかけてくる仏さまです。
 親鸞聖人は阿弥陀さまのお心もちを「逃ぐるものを追わえ取るなり」といただいています。
いつも私の前に居ると、私と共に生きてくださってあるというのです。
 
 もう逃げても逃げても逃げようがないというか、もう観念するしかありません。
もう観念します、降参しますと、阿弥陀さまのおはたらきにまかせるのです。
 
 「まかせよ救う」と南無阿弥陀仏のことばの仏さまとなってずっとずっと喚び続けてくださっている阿弥陀さまですが、
私が私がと、まかせられない私がいます。
 そんな私を見捨てることなく、背中を向けようとも逃げようとも、
あきらめず追っかけ追っかけ追っかけて、私のところに来てくださいます。
 そしてついには私の口をこじ開けてお念仏が出てくださいます。
「おまかせします阿弥陀さま」と降参するのが私たちのお念仏です。
ナンマンダブツとお念仏を申して頭が下がります。
 
 人と人という関係では相手によってその時の状況によって頭を下げる私がいます。
私は一体どう思われているのかと、不安に思い苦悩することもしばしばです。
 そういう私を見抜かれてそのまま救うと私のところに来てくださりいつもご一緒くださる南無阿弥陀仏のおはたらきに
そのまままかせて安心して生きて往ける、阿弥陀さまのお救いを頼もしく聞かせていただきます。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.4.11)

手を合わせお礼ができるところ

2018-04-10
 墓じまいということが最近テレビの特集などで話題になっています。
遠方に先祖代々のお墓があって高齢になり中々お参りできないとか、子どもがいなくて今後お墓を守る人がいないとか、
それぞれの家庭の事情でお墓を始末するという方が増えているといいます。
 
 墓じまいをしてお遺骨はというと、永代供養墓とか合同墓、合葬墓に移すといいます。
お墓が無くなるということは、これまでご先祖を偲び手を合わせてきたところが無くなるということです。
 
 昨日ご法事がありました。同じ年に亡くなられたご両親のご法事で子どもさん三人がお勤めされました。
三人ともそれぞれの家庭があり家族をもってらっしゃるということです。
 
 ご一緒にお勤めをして次のようなお話をさせていただきました。
 
 今こうしてお仏壇の前に座ることができたということです。ご一緒にお勤めができました。
日頃なかなか合わない手が合いました。ナンマンダブツとお念仏を申して仏さまにお礼ができました。
 どのこと一つとっても私がということではありません。仏さまがこういう私にしてくださったということです。
その仏さまの大本はご本尊の阿弥陀さまですが、今日のご縁でいいますとお父さんお母さんの仏さまです。
仏さまとなっていつでもどこでも皆さんのところに還って来て共々に生きてくださってある仏さまです。
 
 死んだらお終いじゃないという仏さまの教えです。
人の命は終えますが、南無阿弥陀仏のおはたらき一つで阿弥陀さまのお浄土に生まれて仏さまに成らせていただきます。
 
 だから子どもにとってはいつまでもどこまでもお父さんお母さんの仏さまなのです。
南無阿弥陀仏の大きな大きないのちのつながりのなかに私たちは生かされてあるということです。
 
 ここで大事なことはお仏壇です。お仏壇という手を合わせるところがあるということです。
仏さまがこの私たちのために用意をしてくださったところといただきます。
 お浄土を重ねて思います。お浄土には先に往かれた方々がいってらっしゃいます。
お仏壇に阿弥陀さまに手を合わせることがそのまんまお浄土のお父さんお母さんに手を合わしていることなのです。
 
 私たちの日々の生活をちょっと振り返ってみても本当に忙しい毎日です。
私のことで精いっぱいです。生きることで精いっぱいです。
 そういうなかにあってもいつでもどこでも一刻も私を忘れることなく仏さまがご一緒してくださっています。
お父さんお母さんを思う時、お念仏を申しましょう。
 ナンマンダブツナンマンダブツとお念仏を申すところに、この目には見えないけれども仏さまがいらっしゃいます。
何か自分一人で頑張って生きてるようだけれども、仏さまが大きな支えとなって私と共に生きてくださってあるのです。
 
 これからもお念仏申して日々生かされて生きてまいりましょう、とお取り次ぎさせていただきました。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.4.10)

ご門徒皆さんの思いを寄せて

2018-04-09
 昨日は花まつりの会をしました。
お寺の周辺を白象パレードをし、花御堂のお釈迦さまのご尊像に甘茶を灌いで、お釈迦さまのお誕生をお祝いしました。
そして今回初めてコンサートをしました。
 
 コンサートを思い立ったのは一か月ほど前のことですが、スムーズに準備もでき
たくさんの方にも集まっていただいて、本当に素敵なコンサートになりました。
 
 演奏してくださる方がいてのコンサートですが、ご門徒さんに相談してすぐ紹介してくれました。
フルートとクラシックギターの「カプチーノ」のお二人です。
 舞台設置もご門徒さんがさっさとつくってくれました。
どのくらい人が集まるのか心配でしたが、チラシを作って新聞に折込み、ご門徒さんが声かけをしてくれました。
 本堂の空間的にちょうどいい人数で、鉄筋の本堂は音響もよく春風がさわやかに吹き抜けるようで
気持ち良く演奏ができたのではないかなと思います。
 
 日頃からご門徒さんと思いがつながっているように力強く感じます。
住職の私がああしなさいこうしなさいということではありません。
 ご門徒皆さんが思いをもってそれぞれの場所でそれぞれのお役目を次から次へと進んでやってくださいます。
本当に有難いことです。
 
 おかげで昨日は私もクラシックの世界にゆっくり浸ってコンサートを楽しむことができました。
 
 このお寺のご門徒さんの力って本当にすごいなと改めて思います。
お念仏のおはたらきです。人から人へと確かに確かに伝えられ伝わっていきます。
 
 昨日初めてお寺にお参りされた子どもさんが多かったです。
子どもさんがお参りするとお父さんお母さん家族の方も一緒にお参りされます。
 コンサートを聴きにみえたという方もいらっしゃいます。
思いはそれぞれ様々ですが、お寺にお参りすることでお寺に親しんでほしいと思います。
 お寺に親しむなかで仏法聴聞です。仏さまのみ教えを聞いていただきたいと思います。
 
 これからもいろんな行事がありますが、お寺の行事は花まつりにしてもコンサートにしてもすべて仏事です。
仏さまの行事です。仏さまのお心をいただいて、どうぞ私にできる精いっぱいのことをさせていただきましょう。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.4.9)

若葉のいのち輝く朝です

2018-04-08
 今朝はちょっと冷えました。
梵鐘をついて境内の桜を見たら、ほんの少し花がついてますが、若葉がいっぱいです。
朝の光のなかに若葉が青々と輝いていいですね。
 
 「花びらは散っても花は散らない」です。
桜というと私たちは花びらばかりを見ていますが、花のいのちは次から次へとつながっていくんですね。
若い葉にもいのちがあるということです。
 
 今日は花まつりの会をします。
境内にプランターのお花を皆さんのお気持ちをいっぱい寄せていただきました。本当に有難いことです。
 
 今日はいろんな催しをしますが、小学新一年生を祝う会をします。
小学校に入学する新一年生です。私たちもそんな時がありました。
 
 親に手をひかれて初めて小学校に登校します。
これから六年間の学校生活が始まります。人生の大きな第一歩です。
 門出を見送る親は喜びいっぱい不安いっぱいということでしょう。
子どもにとっては初めてのことばかりで、見るもの聞くものすべてが新鮮なことばかりでしょう。
 まさにこの若葉かなと思います。
 
 若葉も日に日に色濃くなって大きく成長していきます。
私のいのちの有様を重ねて思います。
 大きないのちのつながりのなかに生かされて生きている私のいのちです。
すべてのいのちがつながって私たちの日々の日暮しがあるということを教えてくださるのが仏教です。
 
 死んだら終いのいのちではない、いよいよいのち輝かせて生きていける世界があるよと聞かせていただきます。
私たちのいのちの古里、阿弥陀さまのお浄土に生まれ往くいのちを今ここに生きているよと教えてくださいます。
 
 この仏教を開いてくださったお釈迦さまのお誕生日のお祝いです。
どうぞ皆さんの周りの方にも声かけをして今日のご縁にご一緒にお参りしてください。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.4.8)
円光寺
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大分県大分市三佐3丁目15番18号
TEL.097-527-6916
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