浄土真宗の生き方
2018-05-29
昨日は大海組のれんそう会(連研同窓会)の総会が鶴崎の福正寺さんであり、ご法話聴聞のご縁をいただきました。
「浄土真宗の生き方」という講題でした。
浄土真宗にご縁のある方はこういう生き方をしましょうと、事細かに実例を挙げていうことではありません。
阿弥陀さまのお救いは私たちに生き方を一切問いません。
問う以前に、それぞれ生き方が違うということを見抜かれた上でのお救いなのです。
同じ屋根の下で暮らしている家族でも仲の良い夫婦でも親子でも兄弟でも、その生き方、生活ぶりはそれぞれ違います。
その違いを認め合うなかにお互い日暮しできたらいいのですが、これが中々難しい。
私たちはどこまでも自分を中心に生きています。
私の思い通りになったら、それはそれでいいわけですが、すべての人が自分の思い通りになるということではありません。
自分の思い通りにならないと、その思いが言葉になり行動になって、周りの人を傷つけることにもなります。
そんな私たちをこの阿弥陀さまはすべて見て取って、すべての人が救われる法をつくってくださいました。
阿弥陀さまの言うことを聞いたものだけを救うというのではなく
それぞれの生き方が違うなかで、互いに背中合わせになったり仲良くなったりする私たちを全て残らずそのまま救うという
南無阿弥陀仏のお救いです。
浄土真宗の生き方とはこの南無阿弥陀仏のお救いに遇わせていただくという生き方です。
阿弥陀さまのご本願のお心に我がいのちのあり方を聞きどう生きていくのかたずねていくことです。
昨日のお話です。すべてのいのち尊しと仰いで生きるということです。
このいのち人間に生まれて今こここの私を生きていることを、互いに尊び感謝して喜んでいける生き方です。
このいのちお父さんがいてお母さんがいたというお話です。
お父さんお母さんに「生んでくれてありがとう」と言いましょう。
子どもたちに「生まれてくれてありがとう」と言いましょうと。
そうした大きないのちのつながりのなかに私のいのちがあるんだよ、今を生きているんだよと聞かせていただきます。。
私たちはどんな人も生老病死の人生を送って命終えていきますが
人間に生まれてよかったと言える人生を生きてほしいと阿弥陀さまは願ってらっしゃるのです。
南無阿弥陀仏のお救いの法に遇うために仏法を聞くために人間に生まれて来たといただきます。
仏法を聞くご縁に遇わなかったら、聞かずじまいに終わる人生では空しいですね。
南無阿弥陀仏のお救いを聞かせていただくなかに今日の一日があります。
明日があるかどうかはわかりませんが、この命終えていく時も南無阿弥陀仏のおはたらき一つで
そのまんま阿弥陀さまのお浄土に生まれて仏さまにならせていただくのです。
このいのち、ずっとずっと遥か昔から南無阿弥陀仏のおはたらきのなかにあってこの人の世に生まれてきました。
そして人の命終えていきますが、南無阿弥陀仏のおはたらきでずっとずっとこれからも仏さまとなって生きていくのです。
それは私一人のことではなく、今日お参りの皆さんすべてのお方が
南無阿弥陀仏のいのちのつながりのなかにずっとずっとつながって生きていくということです。
そこに本当に共々に安心できる世界があるんだよと、それを救いといただきます。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.5.29)
仏さまのお家に住まいさせていただいて
2018-05-28
ご法事のご縁にお参りさせていただいてお仏壇を拝見したときに、えっと思うことがあります。
お仏飯をお供えしていないお仏壇がたまにあります。そうしたお家は毎月の月参りをしていないところが多いのです。
ご法事は毎年ではなく何年に一度のご縁ですから、何年ぶりかのお参りのお家もあります。
その間お仏壇をお掃除したりお飾りしたりとお家の人の手が入っていることは確かですが、
お仏壇の本来のお荘厳ができていない、忘れられて、自分流のお飾りになってしまっているということです。
日々のお給仕と申しますが、お仏壇のお飾りの基本はお仏飯です。
お灯明もお花もお香も、あげるといって私の手が入りますが、お仏飯をお供えすることは日々のお給仕の基本です。
今は朝はパン食というところも増え朝ご飯を炊くお家が少なくなりました。
以前は毎朝仏さまにお仏飯をお供えするためにご飯を炊いていたということですが、今は難しいことかなと思います。
だからこそご飯を炊いたときには、朝でも夕方でも炊き立てのご飯をまず仏さまにお供えして
お礼を申して下げていただけばいいでしょう。
ご法事やお命日、お彼岸お盆などの仏さまの日には心して
ご飯を炊いてお仏飯をお供えすることを忘れないようにしましょう。
お念仏の先人は、私たちは仏さまのお家に住まいさせていただいているのであり
お仏飯に養われて日暮ししているといわれます。
養われているとは仏さまの恵みをいただいているということです。
お仏飯だけではなくすべてのものが仏さまの恵みなのです。
だから隣からお菓子をもらった時など、まず仏さまにお供えしてからいただいていましたね。
隣からもらったのですが、仏さまからのいただきものなのです。
蓮如さま(本願寺第八代宗主)はお堂に落ちていた一枚の紙切れを拾いあげ押し頂いて懐にしまったといわれます。
紙切れ一枚も仏法領のもの、仏さまから受領したいただきものだと見られたのです。
もの皆すべてを仏さまのものともったいないもったいないといただかれて日暮しされたのです。
お念仏の日暮しです。仏さまを中心とした日暮しのなかに今日の一日があるのです。
一日の初めまず仏さまにお仏飯をお供えしおさがり恵みをいただくことから始めましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.5.28)
色んなお寺にお参りできる楽しみ
2018-05-27
昨日はこの円光寺で大海組仏教壮年会の年に一度の総会がありました。
大分市と由布市の一部の浄土真宗本願寺派の17か寺のお寺で大海組が構成されています。
大海組には色んな組織団体があり、その一つが仏教壮年会ですが
年間の行事を組内のお寺が順番に引き受けて、今年は円光寺が当番ということです。
ご門徒さんにもお手伝いいただいて、迎えるお寺は準備などで大変ですが
参加する皆さんにとっては色んなお寺にお参りできるということです。
お寺お寺によって本堂などの建物の風情、雰囲気が違います。
良い悪いではなくて、お寺のようすがそれぞれ違ってお参りする方には楽しみだと思います。
ただこの本堂のお内陣のようすはどのお寺も同じです。
まん真ん中にご本尊の阿弥陀さま、左右に親鸞さま蓮如さまのご絵像がご安置されています。
お内陣のお荘厳お飾りは変わりません、同じなのです。
このお内陣のお荘厳は阿弥陀さまのお浄土を表します。
皆さんのお家のお仏壇もそうです。同じお浄土を表しています。
同じということが大事なのです。
皆さんの生活ぶりはそれぞれ違います。
それぞれの生き方があって、私たちは命終えて一つ処に生まれて往くことができるというご法義なのです。
互いに背中合わせになるような生き方をしている者同士でも仲良しの間柄でも
この人ともっとずっと一緒にいたいと思う人も会いたくない人も
南無阿弥陀仏のおはたらき一つで一つ処のお浄土に生まれさせ再会させてくださるというのです。
そのお浄土を、このお内陣のお荘厳というかたちで私たちに表してくださっています。
色んなお寺があり風情はそれぞれ違いますが
昨日は円光寺の阿弥陀さまの御尊前一つ処にお念仏のお同行が集い
同じ南無阿弥陀仏のご法義に遇わせていただきました。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.5.27)
仏法は臨終を引き寄せて聞きなさい
2018-05-26
今日は土曜日です。日々の生活のなかで曜日の感覚がふっとなくなる時がありますが
この土曜日、毎週Iさんがお朝事にお参りでした。
今はご往生されてそのお姿を見ることはできませんが
土曜日が来ると今日もIさんがご一緒にお勤めされているように思います。
日々の生活、私たちの日常です。
お念仏の先人は「仏法は臨終を引き寄せて聞きなさい」といわれます。
臨終というのは臨命終時ということで、命終わる時に臨んでという意味で
まだ命は終わっていない、生きているということです。
ご門徒さんが亡くなってご家族から連絡がありお参りに行きます。
枕経といわれますが、正式には臨終勤行といって、すでに亡くなっているんですが
まだ生きてあるということで最後の最期ご本尊の阿弥陀さまにお礼を申させていただくお勤めです。
実際に亡くなったお方はお勤めできませんので、住職が代わってお勤めをさせていただきます。
臨終を引き寄せて仏法を聞くとは、今日の御文章さまのなかにも何度も何度も出てきましたが
私たちのご法義は阿弥陀さまのご本願のお心、信心をいただくことを要と聞かせていただきます。
その信心は臨終のときにいただいてお浄土に往生するのではなくて、平生今いただく信心なのです。
今が臨終といただきます。
阿弥陀さまのご本願のお救いは臨終のときに決まるのではなくて
南無阿弥陀仏の法はもう今すでにいつでもどこでも私のところに届いてくださってあると聞かせていただくのです。
平生業成(へいぜいごうじょう)です。平生今私たちはご本願のお救いに遇って
阿弥陀さまのお浄土に生まれて仏さまになることに定まると聞かせていただきます。
今聞く、平生この日常に臨終を引き寄せて阿弥陀さまのご本願のお心おはたらきを聞かせていただきます。
平生業成のお救いを親鸞聖人は「臨終待つことなし、来迎たのむことなし」という御文で示されています。
臨終待つことなし、今が臨終、南無阿弥陀仏のおはたらきの真っただ中です。
仏法は臨終を引き寄せて聞け、今聞け急げ急げとお勧めなのです。
その臨終こそ今朝のこのご縁お朝事のお勤めでもあります。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.5.26)
「人生は苦なり」
2018-05-25
お釈迦さまは「人生は苦なり」と説かれます。
何かマイナスイメージなことを最初から聞くと、仏教を聞くのが嫌になりそうですが
「人生は苦なり」という真実から仏さまの教えが始まるのです。
人生とは私の日々の生活です。
昨日の生活でもあり今日の生活でもありまた明日の生活でもあります。
苦というのは思い通りにならないということです。
人生の主役はこの私、人生は私の思い通りにならないというのです。
私の周りのものが思い通りにならない、私の言うことを聞かない、言う通りにしない、反発するということです。
こういうことってお互いに日常茶飯事にあることで
何度も何度も経験するなかで私たちは自分なりにうまく対処して生きています。
ところが歳を重ねるなかで一番といっていいほど思い通りにならないものがあったことに気づかされます。
私の一番思い通りにならないものがどこにあるのか。キョロキョロ周りを探すのではありません。
実はこの私自身が一番思い通りにならないものだと仏法は説かれるのです。
そういう意味で、仏法に遇うということは本当の自分にあうということ、自分自身に向き合うことなのです。
仏さまがおっしゃることです。
あなたはその身その心を煩悩にからみとられて生きていますよと。
何か私たちは自分のことは自分が一番よく知っていて
自分のことは自分の思うようにできると思い込んでいるところがありますね。
ところが実は私たちは煩悩にとらわれ縛られて自分のことでありながら自由自在に生きることができないと
仏法は説かれるのです。
そのことが周りのものが自分の思い通りにならないという見方になるということですし
そしてもう一つこの身このままが思い通りにならないのです。
この身ということは、生きるということです。
生きるということは、老いるということ、病むということ、そして命を終えていくということです。
いつまでも若くありたい、健康でいたい、長生きしたいと思っても、これはどんな人でも待ったなしの事実なのです。
このことに本当に向き合わなければならない時が必ず来ます。
若い時分は、若さや健康にまかせて自分自身のことと受け止め考えることがなかったのではありませんか。
それがこの身の事実として思い通りにならないことに気づかされるのです。
大きな不安を感じ苦悩します。
将来の不安です。一体これからどうなるのか。もっというとこの命終えて死んだらどうなるのかという不安にもなります。
明日のいのちもおぼつかないという苦悩のなかに、仏さまのご縁をいただきます。
仏法を聞いてくれよといわれます。私たちの仏法は南無阿弥陀仏、阿弥陀さまのご法義です。
ナンマンダブツとお念仏を申してくれよと阿弥陀さまはおはたらきです。
ナンマンダブツとお念仏を申したらそうした悩み不安がすべて解消するのでしょうか。
ナンマンダブツとお念仏申すなかに「私がいるよ。大丈夫だよ」と阿弥陀さまのおよび声を聞き
南無阿弥陀仏の大きな大きなお慈悲のなかに共々に生きることができるのです。
お念仏申すなかに私たちは思い通りにならないことに向き合っていくことができるのです。
誰しも苦悩の状況から逃げたいですよ。でも逃げても逃げても何の解決にもなりません。
この阿弥陀さまのご法義がすごいのは、私がどんなに逃げても逃げても逃げても、どこまでも私を追って追って追いかけて
最後は南無阿弥陀仏のお慈悲の中に摂め取って救うてくださるというおはたらきなのです。
どうぞナンマンダブツとお念仏申し南無阿弥陀仏のお心を聞くなかで、
日々の生活、今日の一日です。思い通りにならないことがたくさんたくさんありますが
ナンマンダブツとお念仏申して生きてまいりましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.5.25)