お念仏のはかりに乗って
2018-10-25
この前の日曜日にあった女子の駅伝大会で
あるチームの2区の選手が中継所前200mのところで倒れ両手で這いつくばり両膝は血まなこになって
次の走者にタスキを渡したことが映像と共に翌日のテレビや新聞報道に大きく取り上げられ反響を呼んでいます。
皆さんはどのように思いましたか。
すぐそばにいた大会関係者も沿道の方も声をからして応援していました。
「あと100mだ、あと50m、30m頑張れ頑張れ、もう少しだ頑張れ」と。
その映像だけを観ると、すごいなすばらしいなよく頑張ったなということですが
ちょっと冷静に考えてみると選手のことを思って走ることを止めさせることもできたわけです。
チームのためにたすきをつなごうという強い思いが選手の必死の行動になったのですが
選手のこれからの競技人生を考えると棄権させることも大きな選択肢だったと思います。
ただチームのために自分を犠牲にまでして尽くす姿が美しい尊いという思いが皆さんどこかにあるんでしょうね
周りの人は頑張れと応援こそすれ誰も止める人はいませんでした。そして感動したと称賛の声になりました。
選手は競技後の診察で骨折していることが判明、治療に3、4カ月かかるということです。
大事な選手を預かっている監督だったら止めさせたと思いますが
続けさせるか止めさせるか、二者択一の判断は本当に難しいことです。
親鸞聖人の生き方は非僧非俗といわれます。僧に非ず俗に非ずです。
お坊さんでもない、かといって世間一般の人でもないというのでしょうか
ただめざすところはお念仏の道であり、非僧非俗と生死出づべき道を求めて生き抜かれました。
この非ということの意味です。非ずと否定するのです。
私たちの物事の判断は二者択一といってどちらか一方を選択いたします。
非の論理は二者あってどちらでもないという判断です。
滅私奉公といわれます。戦時中私を滅し公である国に尽くし報じることが美徳であるとされました。
非の論理でいいますと、非私非公、私に非ず公に非ずということです。
いい加減なバランス感覚です。仏教では中道といいます。
お念仏のみ教え南無阿弥陀仏のおはたらきは私たちにバランス感覚を呼び覚ます目覚めさせてくださる教えだと思います。
称名念仏の称ははかりと読み、お念仏はハカリだといわれます。
お念仏のハカリに乗るんです。お念仏がいい加減なバランスをとってくださるのです。
どちらか選択する前にお念仏に聞きましょうということです。
南無阿弥陀仏の大きなお心に聞くなかに私たちの日々の生活を調えさせていただけるということではないでしょうか。
日頃から南無阿弥陀仏、阿弥陀さまのお心を聞いておきましょう。
ナンマンダブナンマンダブとお念仏を申すそのままにお念仏を聞いてまいりましょう。
阿弥陀さまのお心を聞かせていただくなかに
迷いの衆生の私たちにこの道を往けと阿弥陀さまが確かに確かに知らせてくださる教えであるといただきます。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.10.25)

私たちはお念仏のお仲間兄弟です
2018-10-24
昨日は別府の別院で大分教区の僧侶研修会がありました。
テーマは人権差別についてということで、お寺の研修として皆さんはえっと思われることかもしれません。
いつもお勤めの最後に『浄土真宗の教章』を皆さんで唱和しますが
そのなかで「私たちの宗門は同朋教団」という文言がでてきます。
同朋とは仲間、兄弟ということです。親鸞聖人は御同朋御同行と言われて御の文字をつけられます。
皆さん私たちは阿弥陀如来の本願念仏のみ教えにつながったお仲間兄弟ですよというのです。
阿弥陀さまの本願念仏のお救いは誰しも分け隔てしない平等のお救いといわれます。
男女を問いません。善悪を問いません。老いも若きもお金持ちも貧しき人も問いません。健康な人も病人も問いません。
みんな等しく救われていくなかにこの私が救われていくと親鸞さまはいただかれたのです。
ただ教団という人と人とが織りなす一つの社会、組織のあり方のなかで
人が生きる人権を損なうような差別事象を引き起こしてきた教団の歴史があります。
親鸞さまのお心に返っていきましょうということで同朋運動といいますが
僧侶だけでなくご門徒の皆さんも一緒に学んでいきましょうと研修を重ねてまいりました。
昨日は30人ほどが参加でした。
ご講師は36歳で昨日の参加者のなかで一番若かったです。
初めて先生に会って皆さんはどんなことを思ったでしょうか。
私は若いなと思いました。こうした研修会ではいつもその道のベテランで年輩の方が講師をされるのが常でした。
講義の後の話し合いで同じような感想をもたれたという参加者が
そこにもうすでに偏見というものの見方があると反省され発言されました。
私たちは人それぞれ違うものの見方をもって生きています。
人を見るときも自分のものの見方、私の固定観念やその時どきの私の都合で見ています。
そうしたものの見方が私たちの人と人との関係において邪魔をすることがたくさんあります。
お互いに南無阿弥陀仏のみ教え阿弥陀さまのお心に返っていきましょうということなのです。
私たちはお念仏の輩お仲間であります。
お念仏申すなかでお互いを思いやり、一人でも多くの方隣の方にもお念仏のお心を勧めてまいりましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.10.24)

総代世話人会をしました
2018-10-23
昨日は年に二度開催する総代世話人会というお寺の会合をもちました。
この時期は御正忌報恩講についてのお話ですが、今回はご門徒皆さんにもすでにお知らせしています
円光寺長期振興計画の具体的な取り組みについて協議をする大事な会議でした。
改めて思うことですが、このお寺というのはご門徒皆さんのお寺です。
ただご門徒さんもたくさんいらっしゃいますから、皆さん全員に集まってもらって協議をすることも難しいということで
各班の総代さんというお世話人さんに、配りものであったりお金の集金など大変なお役目をしていただいているというのが
このお寺のあり方なのです。
私が18代目の住職ということですが、皆さんは18代目のご門徒、総代世話人ということにもなるわけです。
このお寺が長く長く続いてきた、そしてこのお寺がこれからも長く長く続いていくということ
それは私たちの御本尊このまん真ん中にご安置の阿弥陀さまを中心としたお念仏のつながりということであります。
お寺とご門徒の長い歴史のつながりのなかで近年は三佐地区から家を移られる方が増えてきて
ご門徒とのつながりお寺との関係が本当に薄くなってきています。
そうした現状のなかで総代さん世話人さんのお力添えをいよいよいただいて
これからの円光寺のあり方を考えお念仏のご法義を護りお寺を護っていくことを改めて思ったことです。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.10.23)

何年も会っていない人から携帯に電話がありました
2018-10-22
私は日頃あまり携帯電話を使いません。
いつも携帯することもなく使わないことであまり携帯に電話がかかってくることもありません。
着歴をみると遠方の方で私の学生時代の後輩からでした。
何か急なことがあったのかなと思って折り返し電話をしました。
そしたら「久しぶりですね」というんです。それこそもう何年も会っていません。本当に久しぶりです。
「『ようこそ』いつもありがとうございます」と言われました。
お寺の新聞『ようこそ』を毎号送っています。それでこう言われました。
その方は会社の何代目かの社長さんですが「お寺さんも会社経営と同じように大変ですね」と。
今円光寺では長期振興計画ということでこれからのお寺の護持運営についてご門徒皆さんと話し合いをもっています。
『ようこそ』にもそのことを書きましたから、このことだなと思いました。
他に特別な用事はなかったようです。
平日はいろいろ忙しいが、今日は日曜日で時間がありお礼の意味もあって電話しましたということでした。
お寺にとっては日曜日はご法事があったり一番忙しい曜日なんですが
「そうですか、ありがとうございます。又時間があったら一生に食事でもしてお話をしましょう」と電話を切りました。
有難いことだなと思います。何年も会っていない人から声がかかるということです。
その声は学生時代と変わりません。いや変わっていると思いますが、学生時代そのまんまの会話のやりとりです。
そういう方々が私のことを思うてくださる、心配してくださっているということです。
私たちの阿弥陀さまのお救いを思います。
いつもあなたのことを思うているよ、いつもあなたのことを心配しているよというお救いです。
救いといって私が苦しい状況にある時
例えばお金に困っているとき阿弥陀さまにお願いすれば阿弥陀さまがお金を工面してくれるといった救いではありません。
いつも私はあなたのことを思うているよ、私がいつも心配しているよという思いやりの声かけです。
南無阿弥陀仏のおはたらき一つで生きる力をいただけるというのが阿弥陀さまのお救いと味わわせていただきます。
ナンマンダブツナンマンダブツとお念仏申すところに
この目には見えないけれどもこの私のことを思うてくださる仏さま思うてくださる人が
たくさんたくさんいらっしゃるということをまた思って
今日の一日お念仏を申すなかに生かされて生きてまいりましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.10.22)

有ること難いこのいのち生かされて生きてまいりましょう
2018-10-21
仏さまとは目覚めた方といいます。
皆さん今日も朝起きて今目覚めていますが、この目ではありません。
この目はどこまでも自分を中心に見る目で、人それぞれものの見方は違います。
仏さまは真実に目覚めた方をいうのです。
真実とはありのままそのまま一つの見方です。
目覚めるというのは驚くびっくりするといいます。
真実に目覚めてびっくりするのです。驚きです、感動です。
逆に私たちのものの見方は何もかもが当たり前当たり前とものごとを見て生活していませんか。
朝目が覚めたのも当たり前、食事をするのも当たり前、今ここにいるのも当たり前と
でも真実はどれ一つとっても当たり前ではなく有難い、有ること難しというこのいのちなのです。
そのことに気づく、びっくりする、驚くのが目覚めるということなのです。
仏教といって何か不思議の世界の教えではありません。
この身ありのままをそのまま受け止めていくものの見方こそ仏さまのものの見方、仏教なのです。
仏教にこのいのちのあり方を聞かせていただきます。
生老病死のいのちに私たちは迷い苦悩して生きていると教えてくださいます。
その上で苦悩の私をそのまんま引き受け救うてくださる仏さまが
このまん真ん中にお立ちの阿弥陀さま南無阿弥陀仏の仏さまなのです。
ナンマンダブツとお念仏申してくれよといいます。
ナンマンダブツとお念仏申すところにいつも私がいるからあなたを決して見捨てることがないから大丈夫だからと
「まかせよ救う」の南無阿弥陀仏のおはたらきとなって私と共に生きてくださるのです。
そのことにどうか目覚めてくれよと厭きることなく何度も何度も南無阿弥陀仏とおはたらきです。
有ること難いこのいのちをいただいて今日も一日生かされて生きてまいりましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.10.21)
