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お念仏を申す生活法話

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衣笠祥雄さん

2018-04-25
 朝が本当に明るくなりました。
昨日は久しぶりに大きな雨になり、雨を待っていた人にはいい雨になりました。
 気持ちのいい朝です。光あふれるなかに皆さんとお朝事のご縁をいただけることを本当に有難く思います。
 
 プロ野球元広島カープの衣笠祥雄選手が一昨日お亡くなりになりました。
昨日はテレビのトップニュースで往年の活躍ぶりや人となりが紹介されていました。
 
 衣笠さんの愛称は鉄人です。
広島に捕手で入団した時の背番号が28番で、鉄人28号に重ねていわれますが、
その鉄人ぶりは2215試合連続出場の日本プロ野球記録が物語っています。
17年ほど毎試合出場することですが、強靭な身体と一流の技量をもった第一線の選手であり続けるということの証です。
 
 多くの逸話のなかで、連続試合出場の最大の危機が語られていました。
衣笠選手は常に投手に向っていく打法で死球が多かったのですが、
巨人戦でエースの一人西本投手から死球を受けて全治二週間の骨折をします。
連続試合出場が危ぶまれましたが、何と次の日の試合にピンチヒッターで出場したのです。
 
 骨折してバットを振ることさえできないのではと「記録のためだけに試合に出るのか」という心ないヤジがとぶなかで
巨人のもう一人のエース江川投手に真正面から立ち向い、三球ともフルスイングの空振りで三振にたおれます。
 試合後のコメントです。「一球目はフアンのため、二球目は自分のため、最後の一球は西本君のため」と。いいですね。
西本投手は死球をぶつけられ骨折を負わせられた張本人、それこそ憎き敵ですよ。
死球ギリギリの内角攻めの投法で活躍する西本投手の今後を思い量っての衣笠さん一流のコメントです。
 
 この衣笠さん、何度も何度も死球を受けても、相手の投手をにらみ返すこともなく何事もなかったかのように、
ある時は殺気立つ味方ベンチをなだめるように一塁ベースに向ったといいます。
 あの世界の王さんが「野球は敵味方の闘いだが、衣笠さんには敵味方を超えた不思議なものを感じた」と述懐しています。
 
 衣笠さんは野球の名門京都の平安高校の出身です。今は龍谷大平安といいます。
私たちのご本山西本願寺の宗門校で、西本願寺のすぐ近くにあります。
 この平安高校野球部は試合前ベンチ前に監督はじめベンチの全員が整列してグランドに向って合掌します。
試合が終わってまた同じように合掌します。
 衣笠さんは学校で仏教を学ぶことがあったと思います。仏さまのお心、合掌の心です。
すべてのいのちを尊ぶ心、相手を思いやる心です。
 
 野球は一人ではできません。チームワークが大切です。相手チームがいないと試合になりません。
私は一人では生きてはいけません。私たちがつくる社会のなかで、互いに支え合い助け合って生かされて生きています。
自分さえよかったらいいではありません。周囲の人を思いやって生きていくことが大切なのです。
 
 ただどこまでも私が私がと自分を中心に生きる私ですから、周囲の人とぶつかることもでてきます。
そして迷うことにもなります。周囲のことを思い量って自分の思いを仕舞い込むこともあります。
 衣笠さんは「迷ったら帰るところがあるから個性を輝かせて生きることができた」と言われます。
個性を生かすとは、私たち一人一人が自分らしく生きるということです。
 衣笠さんは野球選手として基本に帰ることが大事だといいます。
キャッチボールであったり素振りであったりということです。
 
 私たちが帰るところです。私たちの中心です。ご本尊の阿弥陀如来さま、南無阿弥陀仏の仏さまです。
阿弥陀さまのお浄土に帰らせていただきます。
 南無阿弥陀仏とお念仏申すということです。
「私がいるよ大丈夫だよ、我にまかせよ必ず救う」の南無阿弥陀仏のおよび声に、
「はい。おまかせします阿弥陀さま」と帰らせていただくなかに
私は私でよかったと、自分らしくいのち輝かせて生きることができるとまたあらためて思わせていただきます。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.4.25)

ものの見方いろいろ

2018-04-24
 昨日NHKの「クローズアップ現代+」で小学校での道徳の教科化が取り上げられていました。
 
 道徳の時間は今までもありましたが、今年から道徳が正式な教科になって
国語算数理科社会と同じように子どもたちが評価されることになったといいます。
 私たちの頃は通知表で5段階の評価でしたが、今の教科の評価は大分違っています。
ただこの道徳の評価はその人の価値観ものの見方考え方を評価するということで、
ちょっと間違うと一つのものの見方考え方に落とし込む危険性がずっと指摘されてきました。
 
 今は価値観が多様化する社会で、一つのものごとを見るにもいろんな見方があるということです。
ただ自分中心のそれぞれバラバラのものの見方では社会全体がぎくしゃくしたものになってしまうこともあり、
社会全体で共有できるものの見方価値観をお互いに確認していくということで、
昨日の番組では学校現場での二つのテーマについての授業が公開されました。
 
 テーマにはそれぞれねらいがあって、先生もこういう方向で授業を進めたいと思い、
大方の生徒が先生の意図する意見を発表するなかで、一人の生徒が異なる意見を発表したのです。
 その時の他の子どもたちの「えっそんなこと考えてるの」「それは違うんじゃないの」というような反応に
その子が涙を流すんです。
 そこは先生がその子に寄り添ってフォローしましたが、その子の意見も聞けばなるほどと分かるんですね。
 
 いろんな見方があるということです。
そのテーマの意図するところを皆で確認することも大事ですが、
もう一つ大事なことは少数意見を大切にしていくということです。
 自分の意見とは違う、こんな意見もある、ものの見方もあるということを知ること、学ぶことです。
そうした意見に耳を傾け尊重していく姿勢が本当に大事になってきます。
 多数意見に飲み込まれて、自分の意見が言えないようになると、異論を拝する空気にもなってしまいます。
 
 そういう観点からも仏法という仏さまのものの見方考え方を子どもたちにぜひ聞いてほしいと思います。
学校では教えてくれないのでしょうか。
 お寺で皆さんのお家のお仏壇の前で仏さまのお話をさせていただきたいものです。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.4.24)

いつも寄り添い護ってくださる南無阿弥陀仏の親さまです

2018-04-23
 昨日今日と現世利益和讃15首を拝読しました。
御和讃の多くが「南無阿弥陀仏をとなうれば」で始まりました。
お念仏を申せばということで、お念仏申す者の御利益を親鸞聖人がほめたたえています。
 
 御利益をいわない宗教はないというか、神社仏閣にお参りしますと御札や御守りの類を目にします。
無病息災、家内安全、交通安全、安産祈願、合格祈願等など、大願成就の文字が踊ります。
 誰しも願うことで、自分の願い通りに全て事が成就すればそれに越したことはありません。
ただ私たちのこれまでの人生をちょっと振り返ってみても、自分の思い通りにできたことってどれほどあるでしょうか。
思い通りにいかなくて、苦しみ悩みそして迷いが生じます。
 
 そんな私を見てとって必ず救うとおはたらきの仏さまになってくださったのが南無阿弥陀仏の仏さまです。
南無阿弥陀仏とお念仏申すところに「私がいるよ、大丈夫だよ」といつも寄り添い護ってくださる仏さまです。
 
 お念仏の先人は南無阿弥陀仏の仏さまを親さまとよんで慕ってきました。
 
 私たちにも親がいます。お父さんお母さんがいて私が生まれました。私のいのちの大恩人です。
だから親には文句なしに感謝するばかりなのですが、感謝どころか文句ばかりです。
挙句の果てには「頼まないのに何で産んでくれたのか」と悪態をさらす始末です。
 
 親は嘆き悲しみますが、どんなに子どもに邪険にされてもそれでも親は子どもに寄り添います。
何故って、それは「親だから」です。
 
 親だから条件なしに子どもをそのまま護るのです。
親のいうことを聞いたら、善いことをしたらと条件を出して護るのではありません。
 いつも子どもと一緒の親心です。
いつも子どもに寄り添って一緒に泣いて笑ってある時は叱ってくれます。
 
 先人が慕うお念仏の親さまは、阿弥陀如来さま、無量寿無量光の限りないいのちと光の仏さまです。
いつでもどこでもどんな人も分け隔てなく、南無阿弥陀仏「必ず救う、まかせよ」のおはたらき一つで護ってくださいます。
 私たちはお念仏のなかに救い取られ安心して、苦悩の人生を生きていけるのです。
 
 私だけではありません。阿弥陀さまは親も家族も隣の人もみんなの親さまです。
真実変わらないいのちの帰依処をいただいて私たちは共々に生きていけるのです。
 そこに安心というお救い、現世利益があるといただきます。
 
 どこまでもいつまでもあなたがどんなことをしようともあなたを護っていくよ、護っていくからね、大丈夫だからねと、
そのこと一つ南無阿弥陀仏と聞かせていただいて、これからも日々歩ませていただきたいと思います。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.4.23)

一人じゃなかった、みんないのちつながっているんだと教えてくださいます

2018-04-22
 今は土曜日曜日にご法事をお勤めするところが多くなりました。
平日は仕事の方も多くいて、一人でも多くの方にお参りしてほしいという願いからです。
 
 ご法事で先に往かれた故人を偲びます。
故人を思うご縁の深い皆さんが施主のお家に、阿弥陀さまのお仏壇の前に集まります。
そしてお勤めをさせていただきます。
 ご一緒にお参りしてお礼ができるところがあってよかったですねということです。
仏さまのご縁をいただきます。
 
 先に往かれた大切なお方は阿弥陀さまのお浄土に生まれ仏さまに成って
私たちを護り救うおはたらきをしてくださってあると聞かせていただきます。
 
 ご縁というのはつながりです。いのちのつながりです。
ご法事のご縁に、先に往かれたご先祖の方々のいのちがあって、
私のいのち、私たちのいのちがあることを確かめさせていただけるということです。
 
 ご先祖からずっとつながってきたいのちを今私がここに生きているということです。
そしてすぐそばに同じご法事にお参りされたご縁の深い方々がご一緒です。
親子であったり夫婦であったり兄弟、親戚の方々です。
 
 ご法事のご縁に私のいのちのあり方を思います。
日頃は何か自分一人で頑張って生きているような生活ぶりですが、
いろんな方々に支えられ助けられ生かされていることを有難く頼もしく思い安心できます。
 
 ご法事は仏さまのみ教えにいのちのあり方をたずねていくご縁です。
お念仏のなかにみんないのちつながって生きているんだと聞かせていただきます。
 私もいずれこの命終えますが、お念仏のなかにお浄土に生まれて
仏さまのいのちとなって南無阿弥陀仏のおはたらきをさせていただきます。
 
 南無阿弥陀仏の大きないのちのつながりのなかに
一人じゃなかった、みんないのちつながって生かされて
仏さまのいのちとならせていただくこの命を今日も精いっぱい生きてまいりましょう。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.4.22)

簡単なご法事

2018-04-21
 ご法事の申し込みがあります。
予め電話で日程調整をして、その後申込書をお寺に届けていただきます。
 
 昨日お電話でご法事の問い合わせがありました。
今はご法事も「お経だけあげてください」という言い方をされるところが多くなりました。
「家族だけでお勤めします」というところも増えてきています。
 
 昨日は「もう簡単でいいですから」と言われました。どういうことかなと一瞬思いました。
ご法事のお勤めに簡単も簡単でないということもありません。
 どんな方のご法事もお勤めはみんな同じです。
 
 お葬式のお勤めもそうです。
何百人という参列者がいる大規模なお葬式も家族だけの小規模なお葬式もお勤めの中身は同じなんです。
 逆に言いますと、こういう場合はこのお経、こういう時はこのお経ということではないんです。
 
 布施といいます。
御布施というとお坊さんへのお包みと思う方が多いと思いますが、
布施とは仏道修行の一つで、お坊さんがお勤めをすることも布施なのです。
法施といいます。法を施す。仏法です。仏さまの法はその人人を選びません。みんな同じなんです。
阿弥陀さまのお救いはすべてのものを分け隔てなく必ず救うという法ですから、法を施すお勤めは同じなのです。
 
 それに対し皆さんが行う布施は財施といいます。
お金や物品を施すことですが、その中身はその人人によって違います。
私にできる精いっぱいのことをさせていただきましょうといいます。
御布施をたくさんお包みしたいけれども、余裕がなくてできない方もいらっしゃいます。
それぞれの生活ぶりは違いますから、皆さんができる精いっぱいのことをさせていただくことが大事なんです。
その時はできなくても、またできるときにしていただいたらいいんです。
 
 仏さまの大きなお心を聞かせていただきましょう。
南無阿弥陀仏の大きなお心おはたらきのなかにどんな人も平等に救われていくという教えです。
 
 ご法事やお葬式という仏事に簡単なものも簡単でないものもありません。
私たちの生活すべてが仏事、仏さまのご縁といただいて、私にできる精いっぱいのことをさせていただきましょう。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.4.21)
円光寺
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