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お念仏を申す生活法話

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セクハラ罪という罪はありませんが・・・

2018-05-08
 国の中枢にある官僚トップのセクハラ発言問題について
上司の大臣が「セクハラ罪という罪はない」と発言したことが波紋を広げています。
 これまでにもセクハラ発言を受けたとされる方は名乗りでてほしい
このままだと発言した者の人権はどうなるのかなどといった発言が物議を醸していました。
 
 確かに法治国家である日本の国の法律にわいせつ罪はあってもセクハラ罪はありません。
ただ問題はセクハラ罪はなくてもセクハラで苦しんでいる人がいるという事実です。
 
 今回一人の女性記者が名乗りでました。氏名等は公表されていませんが、関係者には特定される人です。
これからの彼女の人生を大きく左右しかねない、大変勇気のいった行動だと思います。
 官僚と女性記者という関係で、官僚に取材して情報を得るために二人で会った時の発言が問題になっています。 
 
 私たちの社会は人と人とが織りなす社会です。
人と人が出会い関係していくなかで、いつも仲の良い友だちばかりではなく仕事上嫌な人とも会っていかねばなりません。
 
 今回のことで以前は嫌なことを言われたりされたりしたことが
日常茶飯事のようにあったという話が次から次と出てきています。
うまくその場から逃れることを覚えたりとか、周りから我慢しなさいと泣き寝入りしたという話です。
 
 私たちの一番小さな社会は家族です。
家族のなかでも言われたくない、言われたら嫌だと思うことってありませんか。
 特に一番身近な人だからこそ言われたくない、
ましてや大きな組織のなかで力のある人から言われたら言い返すこともできません。
 
 セクハラを受けた人はずっとそのことを忘れられずに苦しみ悩み続けます。
一方セクハラをした人はその事実さえも受けとめることなくまた自覚することなくセクハラを繰り返すのです。
 
 今の時代、やっとというかセクハラを受けた人たちの声が公に上がり始めました。
 人と人との関係です。誰しも嫌な思いをして生きたくありません。
嫌な人を遠ざけようとする行為は逆に嫌な人だと避けられることにもなりかねません。
 自分はセクハラをしたことはありませんと言って、
これまでの人生のなかで自分の言動で嫌な思いをさせたことがないかと問われるとどうでしょうか。
 
 誰しも嫌な思いをしたことはあると言われるでしょう。そのことをいつまでも忘れずにいます。
しかし嫌な思いをさせたという事実はどこかで忘れ去っているのではないでしょうか。
 
 人と人とが織りなす社会です。今日もいろんな人と会っていきます。同じ人でも初めての出会いです。
その時どきの自分の都合で相手に嫌な思いをさせることもあると思います。
そのことに気づいたら「ごめんなさい」と謝りましょう。
嫌な思いをさせられたら相手にそのことを言ってあげましょう。
そこからまた人と人との関係が深くつながってくるのではないでしょうか。
 
 法律で裁くことではありません。道徳で教えてそれで十分ということでもありません。
法律や道徳を知っているからといって私たちは自分の立場立場で勝手に都合よく法律や道徳を解釈し
自らを護ることを最優先して反省することに至りません。
 
 仏さまのみ教えに聞かせていただきましょう。仏法という鏡にわが身を置きましょう。
仏さまは我が身を我が心の有様をそのまま見せてくださいます。
そしてその上で救ってくださるのです。どのような私であっても決して見捨てることはありません。
 
 そのことに甘えることではありません。「ああそうだったね」と気づかせていただき、自ら我が身を処するのです。
私にできる精いっぱいのことをさせていただきましょう。
 
 南無阿弥陀仏とお念仏申すなかに、人と人とが向き合いつながって
いよいよ大きないのちのつながりのなかに共々に生かされて生きていけると聞かせていただきます。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.5.8)

ゴールデンウィークが終わりいつもの生活です

2018-05-07
 ゴールデンウィークの大型連休が終わりました。
テレビのニュースで新幹線で遠く古里から帰宅する人、海外から帰国した人へのインタービューの様子を観ました。
 にこやかに楽しかった出来事を話していましたが、
「明日から仕事ですね、学校ですね」と言われ、きりっとした顔になって「頑張ります」と皆さんこたえていました。
そうですね。楽しい思い出に浸ってばかりではいられません。ここはスイッチを切り替えて頑張っていつもの生活です。
 
 私たちの生活はやはり頑張って生きるということなのでしょうか。
頑張るというと何か力が入って空回りになることもあり、頑張りすぎるとしんどいことにもなりますが、
ここは「よいしょ」「どっこいしょ」という気持ちで次のステージにあがるということでしょうか。
 
 いつも毎日が楽しいことばかりだと、それに慣れてしまって感動も感謝もなくなってしまうのかもしれません。
何か楽しみを目標にして頑張れるということもあると思います。
 
 いつもの生活にも楽しみはたくさんあります。苦しみ悩みもたくさんあります。
いつもの生活は帰る家があるという生活です。
帰る家があって今日も職場に学校にと行くところがあるということです。
 
 「いってきます」「いってらっしゃい」と家を出て、「ただいま」「おかえり」と家に帰ります。
家には家族がいます。職場に学校に行くと、友だち仲間がいます。
 みんなそれぞれ生活ぶりは違いますが、頑張って生きています。
自分一人が頑張って生きているのではありません。みんな頑張って生きているのです。
みんなが生きている、互いに生かされて生きている私です。
 
 浄土真宗のみ教えに私たちのいのちの帰依処を聞かせていただきます。
生きる依り処であり死して帰る処です。
 南無阿弥陀仏のお念仏のご法義に生かされて阿弥陀さまのお浄土に帰らせていただきます。
 
 私たちは南無阿弥陀仏の大きな大きないのちのつながりのなかに生かされてあります。
私一人ではありません。学校の先生も友だちも、会社の上司も同僚もみんなそれぞれ頑張って
みんな互いに支え合って生かされて生きているのです。
 
 いつもの生活はいのちがいっぱい輝いています。
みんないのち輝かせ合って生かされて生きている、いつもの生活です。
自分一人で頑張るのではなく、頑張る思いを少し楽に軽くして
私にできる精いっぱいのことをさせていただきましょう。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.5.7)

心が形となりすがたとなって表れる

2018-05-06
 心が形となって表れる、形から心を知らせていただきます。
心といってこの目には見えません、わかりません。
人の心、いや自分の心さえもわかりません。
ただその心が形となって表れるとき、その心もちを知らされます。
 
 お念仏の心、私たちが申す称名念仏の心を聞かせていただきます。
浄土真宗、阿弥陀さまの本願念仏のお救いのご法義は、ナンマンダブツとお念仏申したから救われる、
お念仏を申すことが救いの条件というご法義ではありません。
 
 このお念仏は私が申す、私の口から出るお念仏ですが、元々は南無阿弥陀仏、阿弥陀さまのお心です。
阿弥陀さまのお心から発せられるおはたらきなのです。
そのお心を聞かせていただきます。「まかせよ必ず救う」の南無阿弥陀仏のお心おはたらきです。
 
 迷いのなかにありながら迷いを迷いと気づかず朝から晩まで私が私がと自分を中心に
欲の心怒りの心愚痴の心という煩悩を燃やし罪悪深重の救われ難い凡夫の身を生きる
この私をこそ救わずにはおかないとすっとお立ちになった阿弥陀さまが
その大きなお心から南無阿弥陀仏の名号となって私のところに至り届きはたらいてくださるおすがたが
私の口から南無阿弥陀仏と出てくださるお念仏の声と聞かせていただきます。
 
 ナンマンダブツナンマンダブツとお念仏申しましょうと言います。
何かそういうと、お念仏申すところに力が入りお念仏が救いの条件になるように思われますが、
ナンマンダブツとお念仏申すとそのまんま南無阿弥陀仏のお心が聞こえてまいります。
 
 今朝はここに7人のお同行がご一緒にお参りです。
ナンマンダブツとお念仏申す私の声ですが、7人7様の声となって聞こえてきます。
わが身に聞こえるその声は阿弥陀さまの声であり諸仏諸菩薩、親鸞聖人、蓮如上人の声であり、
そして皆さん私たちのご先祖有縁の仏さま方の声であるといただきます。
 
 称名念仏と申します。どうぞナンマンダブツ、声に出してお念仏を申させていただきましょう。
お念仏のなかに今日の一日も日暮しさせていただきましょう。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.5.6)

アメリカ大リーグマリナーズのイチロー選手

2018-05-05
 大リーグマリナーズのイチロー選手が今シーズンの試合に出場しないという会見がありました。
現役引退かということですが、来シーズン以降も選手を続けるという契約でもあるといいます。
前代未聞のことですが、球団側の思いとイチロー選手の希望が合致して
「これほどハッピーなことはない」と球団のこれ以上ないリスペクト、尊敬のはからいに
イチロー選手は感極まるほどに喜んでいました。
 
 イチロー選手はこの3月マリナーズへの移籍が決まった時の会見で
「50歳になっても野球選手を続けたい」と語っていました。
 昨日の会見では「私は野球の研究者だ」とも言っていました。
研究とは試み究めるということで、仏教でいう求道、修行者のような感じさえしました。
 
 よくイチロー選手は孤高の野武士にたとえられます。
会見に同席した球団の会長が「イチローはダライ・ラマのような存在だ」と言っていました。
 ダライ・ラマはチベット仏教の最高位の高僧です。
ロッカールームでイチローの周りにチームメイトが自然と集まり話を聞くといった光景がうかびます。
 
 今年は球団会長補佐として試合には出場しませんが、チームに帯同してアドバイスするほか
野球の練習も今まで通りに積んで来シーズン以降に備えるといいます。
 ただ44歳ということで、今後選手として出場できるかどうかですが、
そこのところを聞かれ「わかりません」と答えていました。
実際どうなるかは想像できませんが、「そういう自分を見てみたい」と言うのもイチローです。
 
 本当にすごいですね。まさに道を究めるということです。
これまでもイチローだからこそ究めてきたことですから楽しみです。
 
 誰もができることではありませんが、ある意味私たちの今日一日も道を究めるということではないでしょうか。
ただ新たな道を私が切り開くということではありません。
阿弥陀さまがこの私のために開いてくださった南無阿弥陀仏のお念仏の道です。
 お念仏申して今日一日もこの道を歩ませていただきます。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.5.5)

念仏者の生き方

2018-05-04
 最近「念仏者の生き方」というテーマでの研修会が多くなりました。
ご門主さまが伝灯奉告法要にあたって「念仏者の生き方」というお手紙をだされたことによります。
 
 先日届いた『仏教こども新聞』に三人のレンガ職人のお話がありました。
同じようにレンガを積む仕事をする三人ですが、仕事ぶりがそれぞれ違います。
一人は、レンガを積むことは誰にでもできるくだらない仕事だと仕方なく嫌そうに仕事をします。
一人は、言われたように自分なりに一生懸命仕事をします。
もう一人は、楽しそうに仕事をします。
 
 皆さんだったらどの職人でしょうか。
嫌そうにしますか?一生懸命しますか?楽しんでしますか?
 どの職人が念仏者かといっているわけではありません。
私のことでいえば、嫌そうにすることもあるし、一生懸命することもあるし、楽しんですることもあります。
 
 できたら楽しんでしたいと思います。
同じ仕事をするについても、その仕事に意味をもたせることで仕事ぶりが違ってくるということです。
 
 ただ言われた仕事を言われたままに淡々とする、頑張ってするということですが、
その仕事に誇りをもち夢をもって、周りの人から認められ喜んでもらえたらいいなと思います。 
 
 同じ仕事をするについても三者三様です。私たちの生き方にもつながります。
それぞれ生き方は違いますが、お念仏のなかに生きる人を念仏者といただきます。
 
 お念仏申して生きるということは、阿弥陀さまの大きな大きな南無阿弥陀仏のお心を聞かせていただき
「まかせよ救う」のおはたらきにまかせて生きるということです。
 
 浄土真宗の教章に「自他ともに心豊かに生きる」という文言があります。
念仏者の生き方のヒントがあるように思います。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.5.4)
円光寺
〒870-0108
大分県大分市三佐3丁目15番18号
TEL.097-527-6916
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