インドの天親菩薩さまと中国の曇鸞大師さま
毎朝拝読していますお正信偈さまのなかに、お釈迦さまが説かれた阿弥陀さまの本願念仏のみ教えを伝えてくださった
インド、中国、日本の七人の高僧方(七高僧さま)のご事績が名前とともにでてきます。
そのなかで同じ名前が二か所出てきます。インドの第二祖天親菩薩(てんじんぼさつ)さまです。
「天親菩薩造論説」と「天親菩薩論註解」と記されてあります。
ここは拝読するときよく間違いやすいところで、天親菩薩まで同じですから先に飛んだり前に戻ったりということで
気を付けなさいとよく言われました。
天親菩薩造論説というのは、天親菩薩は『浄土論』というお書物を書かれました。
その浄土論を中国の第三祖曇鸞大師(どんらんだいし)さまが註釈されたお書物が『浄土論註』で天親菩薩論註解とあります。
親鸞聖人の親の字は天親菩薩の親の字を鸞は曇鸞大師の鸞をいただいたものです。
それほどに親鸞聖人は天親、曇鸞という二人の高僧の教えを大切にされたということです。
天親菩薩の『浄土論』の最初に「世尊我一心帰命尽十方無碍光如来願生安楽国」とあります。
世尊我一心と、一つ心と書いて二つはない疑いない心といって信心のことをいいます。
私がおこす心ではなくまさに阿弥陀さまの真実信心まことの心を一心というのです。
そのお心をいただくことが肝要だというのです。
お正信偈さまには一心のご利益を三つ述べられています。
まず信心いただくと現生正定聚といって今この私が仏に成ることが定まる決まるというのです。
仏に成ったのではありません。仏に成ることがもうすでに決まったということです。
次に往生即成仏の益とあります。
命終わって阿弥陀さまのお浄土に往生して即に成仏、仏に成らせていただくといいます。
そして仏に成ったらそれで終わりかというと、その後の仏のおはたらきが大事だいうのです。
それが還相回向です。
往相回向でお浄土に生まれてすぐさま仏に成ってこの迷いの世に還って来て人々を救うというのです。
現生正定聚も往生即成仏も還相回向もすべて阿弥陀さまの南無阿弥陀仏お名号のおはたらきといただきます。
南無阿弥陀仏とこの口から今日もお念仏が出てくださいました。
このお念仏のおはたらき一つに一心いただくというのです。
そのことを天親菩薩、曇鸞大師のご功績と親鸞聖人はいただかれ
今日もこうしてお正信偈さまを拝読するなかに味わわせていただきます。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.11.14)

ご法話『願われたいのち』
今日はご法話を紹介させていただきます。
今から約20年くらい前の話なのですが、とあるお寺の住職さん。坊守さんに幼稚園に通う二人の息子さんがいました。
その長男の息子さんは、お寺の近くの商店街のお祭りに親戚の方に連れていってもらったそうです。
帰りに住職さんが迎えに行くと、その息子さんは後ろに何かを隠しもっていました。
それは、金魚すくいでとった二匹の金魚でした。
住職さんは「お寺では金魚は飼わないから返しなさい」と言いましたが
息子さんは「僕が金魚の世話をするから飼わせて」と何度も言いました。
住職さんは今の気持ちなだけで、世話などたいしてしないことはわかっていましたが
金魚の世話をいきちんとするという条件で買うことを住職さんは許したそうです。
お寺に帰る途中、水槽や餌を買って、何度も自分で世話をするようにと約束をさせました。
飼い始めて3日ぐらいは世話をしていましたが、案の定息子さんは世話をしなくなり餌やりや水の入れ替え等は
住職さんの日課となってしまいました。
数週間が過ぎたある日、1匹の金魚が死んでしまいました。
住職さんは幼稚園から帰ってきた息子さんに「残念で悲しいお知らせがあるんよ。金魚が1匹死んだんだ」と報告しました。
住職さんは息子さんが「どうして?」とか「もっと世話をちゃんとすればよかった。ごめんね」と言うと思っていたら
息子さんは「1匹だけ死んだの?じゃあいいや、まだあと1匹いるから」と答えました。
住職さんは何も言葉がでなかったそうです。
その話を聞いていた坊守さんは息子さんの手を引っ張って本堂に連れていきました。
坊守さんは息子さんに「あなた今まだ一匹いるからいいやって言ったわね。
お母さんには二人子どもがいるからあなたが死んでも別に何とも思わないから」と言ったそうです。
続けて坊守さんは「あなたの言ったことはそういうことよ。
お母さんは子どもが二人いるから一人死んでもいいやと思わないよ。
金魚だって死んだ金魚とまだ生きている金魚は代わることのできないのちなの。
そしてあなたのいのちも弟のいのちもどちらも代わることのできない大切ないのちなの。
二人ともお母さんの大切な宝物なの」と言ったそうです。
息子さんは大泣きしながら「ごめんなさい」と言ったそうです。
しばらくして住職さんは「金魚はどうする?」と息子さんに尋ねると
「金魚のお葬式をしたい」と言われ、息子さんと住職さんは阿弥陀さまの前でお参りをし
2匹目の金魚が死んだ時も同じことをしたそうです。
ちなみに息子さんはこのエピソードがきっかけとなり成長してこの法話に書かれた人になったそうです。
私の幼い頃のように他のいのちを自分の都合で見て一つのいのちぐらいいいじゃないかと
いのちをいのちとも思わないまさに残酷な私は他のいのち自分のいのちも
生きるとか何か死んで行くとは何かという意味も知らずにこのまま迷い続けるしかありません。
いのちの平等であることは言われると分かりますが常日頃からそのような心が持てず
自分勝手な思いから他のいのちを選別してしまうのは愚かな私のいのちの見方なのです。
そんな愚かな私こそ阿弥陀さまはどのいのちもかけがえのない大切な我が子よと見てくださっています。
誰も代わりはいない一人一人を分け隔てなく親子のように愛し
もう二度と迷い続ける命にはさせないと願ってくださっています。
迷い続けその迷いのなかに自分でも気づくことができない自ら悟りを開くこともできない私に
阿弥陀さまが一子地といわれる悟りの境地を得させようとすべて必要なご準備をしてくださり
迷い続ける人々を必ず救うと願いを起こされたのです。
私たちのいのちは阿弥陀さまから一子地と願われたいのちであります。
一人一人が親子のように思い願ってくださり必ず救おうと一人一人に届いてくださっているのが阿弥陀さまなのです。
私たちのこの命は阿弥陀さまに願われたいのちです。
阿弥陀さまのおはたらきによりお浄土へと参らせていただく一子地という悟りの境地を得させていただいている
阿弥陀さまのお救いをご一緒に喜ばせていただきましょう。
」
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.11.8)

浄土真宗は大乗の至極なり
「浄土真宗は大乗の至極なり」という親鸞聖人のお言葉があります。
浄土真宗といって宗派の名前ではなく「浄土を真実の宗とする教え」というまさに教えそのものを表したものです。
仏教はインドから中国そして日本に入ってまいります。
こうして伝播した仏教を北伝の仏教といい大乗仏教といわれます。
大乗とは大きな乗り物という意味です。
大乗に対して小乗といいますが、上座部仏教といわれインドからスリランカを経て
タイ、ビルマ、カンボジアというインドシナ半島に伝わった南伝の仏教があります。
大乗仏教はすべてのものが救われていく仏さまの教えを大きな乗り物に譬えていいます。
阿弥陀さまの本願念仏の教え南無阿弥陀仏のお救いです。
いつでもどこでもだれでもが救われていく教えです。
仏教というと出家して山に籠り修行を積んで悟りを開くという仏道を思いうかべます。
厳しい戒律を守って難しい行を修める仏道です。
ただ私たち一般民衆が容易に修めることができる仏道ではありません。
家庭をもち仕事をし日々生活している私たちが救われていく仏道は大乗の教え浄土真宗の仏教なんだよと
親鸞聖人が「浄土真宗は大乗の至極なり」といわれたのです。
至極とはこれ以上ない極みということです。
親鸞聖人が私たちに届けてくださったお念仏のみ教えを聞かせていただきましょう。
お念仏を申す生活をさせていただきましょう。
お念仏を申すなかにいつでもどこでこの私をこそ必ず救うとおはたらきの
南無阿弥陀仏のお救いを聞かせていただき今日の一日も日暮しさせていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.11.13)

今年の恵方は?
2018-11-13
今日は立春です。暦の上では春になります。
さっき鐘つきをしていましたら、小雪が舞っていました。寒いです。
今の時期が一年で一番寒いんじゃないでしょうか。
寒いですが、暦の上では春です。春が待ち遠しいですね。
昨日は節分でしたが、今は豆まきより恵方巻きということのようです。
昨日気をつけて新聞の広告チラシを見ましたら、6店ほどのお店屋さんの恵方巻きの広告チラシが入っていました。
どのチラシにも今年の恵方は南南東と書いていました。
恵方巻きの由来まで書いた親切なチラシによりますと、
恵方とはその年の福徳を司る神さまがいらっしゃるところで、今年は南南東だそうです。
節分に恵方を向いて太巻きを一本切らずに一気に食べると、縁起がいい、願い事がかなうといわれます。
今年はということは、去年の方位とは違います。来年はまた違います。その年によって変わるということです。
さて皆さん、南南東といわれて、方角をすぐ指させますか。難しいですね。
阿弥陀さまのお浄土をおもいます。
お浄土は西方にありとお経さんに説かれています。
西方といわれてもすぐ方角がわからないかもしれませんが、太陽の沈むところです。
陽の沈むところを西方浄土と決めてくださったのです。
太陽は毎日東から昇り西に沈みます。
太陽をいのちそのものをみて、東の方からいのちが生まれ起き西の方にかくれていくと、
その陽の沈む西の彼方に、私たちが人の命を終えて生まれ往くお浄土があると教えていただきます。
お浄土には先に往かれたご先祖有縁の仏さまがいらっしゃる。そしてその浄土に私もまた生まれさせていただくと、
先人は、陽が沈む西方に向かって手を合わせお念仏を申したといわれます。
ナンマンダブツ、お念仏を申すなかにお浄土をおもい、今日も一日日暮しさせていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.2.4)

小さな終わりに「ありがとう」
2018-11-13
終活について、最近テレビでよく放送されています。
人生の終わりに臨んで、私が死んだ後のことを考えます。
私たちは日頃からこうしたいああしたいと思いをいっぱい膨らませて生きています。
ただいつまでも元気で長生きできるということではありません。
そのことも知ってはいますが、自分のこととして考えるとなると、まだまだ先の話と先送りしてきました。
ただこの齢になって、死んだらどうなるのかと死んでから後のことを考えることが多くなります。
仏教では後生の一大事といいます。
私たちは生と死を別々に分けて見ます。
いかに生きるかということは考えても、死について考えることは中々ありません。否考えようとしません。
死んでから先の話で、生きてる今は考えられないというのでしょうか。
死について考えると、暗くなる、怖いということでしょうか。
仏教では生死一如(しょうじいちにょ)といって、生きることは死ぬことだと教えます。
そして生死の問題は、私に突き付けられた大きな人生の宿題だといわれます。
大変しんどい宿題で、できたら後回しにして、今を楽しく生きようと思います。
ところが身近に家族が友人が死を迎えるということが起こってきます。
愛する人との別離です。会ったものは必ず別れなければなりません。
どんな人の人生も始めがあれば必ず終わりがあります。
そしてこの生死の問題は私たちの力ではどうしようもない、私の思い通りにはならないことを身をもって知らされます。
私たちは、生で始まり死で終わると、生と死、始まりと終わりを分けて考えますが、
生死一如の教えでは、生と死、始まりと終わりは、一つのものでつながっていると説きます。
死でもって生は終わるのではなく、死は生の始まりであるといいます。
今日は1月31日で、1月の終わりです。今は朝の時間で、今日の始まりです。
明日から2月の始まりです。今日の夜、一日が終わります。
こうして小さな終わりと小さな始まりを繰り返して、私たちの人生があります。
日々小さな終わりと小さな始まりを繰り返し生活するなかで、命終える時を迎えます。
どうこの命を終えていくのかは、どう今日一日を終えていくのかということに重なります。
日々の生活のなかで小さな終わりにしっかり向き合っていくことが大事です。
今日の日の終わりに、あなたは自分自身に、家族に大切な人にどう向き合いますか。
ある人は「ありがとう」と周囲に感謝して命終えていきたいと言われます。
いいですね。でも臨終のことはわかりません。意識がなくなってしまっているかもしれません。
痛みにもがき苦しんで亡くなっていくかもしれません。わかりません。
だからこそ平生です。今です。一日の終わりに「ありがとう」の一言、南無阿弥陀仏の一声です。
「ありがとう」とお念仏申して一日を終える。そして「ありがとう」とお念仏申して一日を始める。
小さな終わりと小さな始まりを繰り返しながら、「ありがとう」とお念仏申して人生を終える。
そしてお念仏申してお浄土参りさせていただき、仏の無量のいのちに生まれて
南無阿弥陀仏のおはたらきを始めさせていただくのです。
人それぞれに人生いろいろ、色んなことがありますが、
今日の一日もナンマンダブツとお念仏申すなかに「ありがとう」と生き抜かせていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.1.31)
