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お念仏を申す生活法話

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命終わっていのち愈々つながっていきます

2018-05-18
 今日はIさんのお葬式のご縁です。
昨日は歌手の西城秀樹さんがお亡くなりになったということです。私より3歳年下です。
最近私の年齢に近い方が亡くなられていかれますが、これは何も不思議なことではありません。
 
 私たちの命終は病気になって亡くなるとか事故に遭って亡くなるとかいう言い方をしますが
この世に生まれて来た以上はいつか必ず亡くなっていくというのが私たちの人の命の道理なのです。
そして会うた者は必ず別れていかなければなりません。
 
 そうした人と人との別れのご縁に私たちは仏さまのご法義に遇わせていただきます。
私たちは死んだらお終いではなくて、「まかせよ救う」の南無阿弥陀仏のおはたらき一つで
阿弥陀さまのお浄土に生まれて仏さまに成らせていただくと、聞かせていただきます。
 
 そのおはたらきは私一人だけではなく隣の人も隣の人も、家族ご縁の方々にもすべてに
この南無阿弥陀仏のおはたらきが及んでいるというご法義なのです。
 
 お通夜のお勤めをしてご法話をさせていただきます。
私に近い年齢の方のお通夜ではその人とのつながりのなかにいろんなエピソードのお話になります。
 
 Iさんとは20年ほど前に京都のご本山にご一緒にお参りしました。
ちょうど私が住職を継職した頃で同年輩の皆さんと5人でした。
 小さい頃からのご縁で思い出もたくさんあります。そういうなかにあって日々の生活はそれぞれであります。
ただお念仏のご法義につながった私たちは命終わっていよいよご縁つながりが深まっていくといいますか、
増々つながっていく、つながっていけるご法義なんだと有難く思います。
 
 たくさんの方々が先人となってお浄土に往ってらっしゃいます。
そのお浄土からのおはたらき、南無阿弥陀仏のおはたらきを今日もこうしていっぱいいただいて
お念仏申して生かされて生きてまいりましょう。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.5.18)

早朝のお葬式

2018-05-17
 昨日は稙田の葬儀社で朝9時にお葬式がありました。
9時という早朝のお葬式は初めてで、それも遠方ですから前の日から準備を整えて早め早めにと心がけました。
 
 今は家族葬という葬儀が多く、朝の9時でも家族以外にお参りの方はいらっしゃらないという前提です。
一般葬ではご会葬の皆さんの都合に合わせますから、この辺では大抵昼前後の開式時間になります。
家族だけということで早め早めに葬儀を済ませる傾向にあるようです。
 
 お葬儀はその人にとっては一生一度きりのことです。
見送る有縁の方々にとってもお父さんお母さんとのお別れは一度きりのことです。
 だからこそお葬式のお勤めを丁寧にさせていただくことが一番の肝要です。
別に9時のお葬式が丁寧ではないと言っているのではありません。
 
 ただ最近のお葬式はちょっと以前のお葬式とは趣が随分変わってきました。
何やらこれもしないあれもしないと省略することが多くなりました。
大勢の方のお参りがありあれもこれもしてということが大事なことではありません。
 
 それこそご遺族がいろんなことに気を遣って疲れ果ててしまうこともあったと思います。
最も身近な大切な方とのお別れを家族だけでゆっくりしたいというお気持ちはよくわかります。
 
 一番大事なことは大切な人とのお別れのご縁をそのまま仏さまのご縁として
有縁の皆さんと共々にこの私が遇わせていただくということです。
 
 仏事のことを平生日常から聞いておきましょう。
後になってああすればよかったと思ってもやり直しはかないません。
 
 平生からのお念仏相続です。
お念仏のみ教えを聞かせていただくなかに日々生活をさせていただきたいとあらためて思います。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.5.17)

お念仏がこぼれる

2018-05-16
 本音が出るといいます。
心に積もり積もっていたことが何かの拍子にふっと出ることがあります。
心打ち解けた雰囲気のなかでということですが、皆さんはどんな時にそうした本音がでますか。
 
 例えば銭湯とかでいつもの気の許すお友だちとの何気ない会話のなかでふっと本音が出ることってありませんか。
他の関係者に聞かれるとちょっとまずいことでも、結構大きな声で聞こえてきます。
 
 先日はうちのカミさんの話でした。
年をとっても何着も新しい服を買ってくる、いい歳して誰も見る人がいないのに、金を使ってまでしてと。
わしなんかいつも同じものを着ているのに、という愚痴まで出てきます。
 すると話し相手が相槌をうちます。そして今度はその人の家のことになり、話はどんどんエスカレートしていきます。
顔が見えない人のことであり、聞く方は面白い。そしてつい「ああそやな」とうなずく私です。
 同じようなことを思っている人が周囲に隣にいることに何かほっと安心します。
 
 本音がこぼれるという言い方をします。こぼれるんです。おさえてもこばれるんです。
南無阿弥陀仏のお念仏です。お念仏がこぼれるといいます。こぼれるお念仏です。
 
 こぼれるということについて、皆さんはどんなことを想像しますか。
コップに水を注ぎ続けるとこぼれますね。
コップの容器自体がもう決まっていますから、決まった以上に注ぎ込まれる水は自ずとこぼれます。
蓋をしない限りこぼれ出ます。
 
 お念仏もそうです。阿弥陀さまの南無阿弥陀仏のお名号のおはたらきです。
「まかせよ救う」のおはたらきがずっとずっと以前よりこの私の身にそそぎ込まれてあるのです。
諸仏諸菩薩もお念仏のお徳をほめたたえてお念仏をそそぎ込まれてあります。
 「おまかせします」と疑いの蓋が取られ阿弥陀さまのおはたらきにまかすところに
お念仏は満ち満ちてくださりそしてあふれるのです。お念仏がこぼれます。
 
 お念仏は私が申そうと力を入れて申したお念仏ではなくて本音のお念仏がふっと出てくださるのです。
阿弥陀さまの本音です。阿弥陀さまの真実まことがでてくださるのです。
 
 南無阿弥陀仏のご縁に遇うなかにナンマンダブツとお念仏申させていただきます。
隣の方も隣の方もお念仏を申すなかにお念仏申させていただくのです。
 私一人だけではなく隣の人も隣の人もみんな一緒にお念仏申させていただくなかに、大いなる安心です。
お念仏がこぼれます。阿弥陀さまのおはたらきに疑いの蓋をするのではなくそのまままかせてこぼれるままでいいのです。
 ご縁ご縁にお念仏を申して今日の一日も過ごさせていただきたいと思います。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.5.16)

仏さまのご縁をいただいていよいよいのちつながっていきます

2018-05-15
 過疎の地域のお寺さんのお話です。一件お葬式ができると一軒門徒が減ると言われます。
一人暮らしのおじいちゃんおばあちゃんが亡くなって、
若い方子どもさんがいないことはないけれども遠方で家庭をもっていてお寺とのご縁が切れてしまうということです。
 
 これは過疎の地域のことばかりではありません。
私たちのところでも一人暮らしの高齢世帯が増えて、これから同じような事態が多くなることが予想されます。
 
 昨日一人暮らしのご門徒さんがお亡くなりになりました。
子どもさんご親族もいらっしゃいますが、ご事情があってお家のお仏壇やお墓を誰が守るのか
これからのご相談になりますが、一軒ご門徒が減るということです。
 
 ただ私たちの南無阿弥陀仏のご法義はこの命終わるというご縁でつながるご縁といただけるのです。
縁が切れるのではなくいよいよつながるというのがお念仏のご法義なのです。
 仏さまのつながりです。
親子とか夫婦とか兄弟とか親族とか、そうした私たちの人間関係の縁を支えてくださるご縁とでもいいましょうか。
 仏さまのご縁でいったら今日お参りの皆さんともみんなつながっています。
そのご縁つながりの中心に阿弥陀如来という仏さまをいただくという教えです。
南無阿弥陀仏のご法義を聞かせていただく尊いご縁なのです。
 
 悲しみのご縁ですが、初めて仏さまのご縁に遇うという人もたくさんいるのではないでしょうか。
早い遅いではありません。今こそ仏さまのご縁をいただきましょう。
 どうか阿弥陀さまのお救いの法を聞いてくれよ、お念仏を申す身になってくれよという仏さまのお心をいっぱいいただいて今日はお通夜、明日はお葬式です。精いっぱいお勤めさせていただきたいと思います。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.5.15)

納骨する日って決まっていますか?

2018-05-14
 今朝は雨上がりということもあって、朝日がぱーっと光り輝いて気持ちいい朝を迎えました。
 
 昨日は四十九日満中陰のご縁がありました。いつもはお勤めの後に納骨をさせていただいています。
ちょうど雨が降っていました。お家の方から「雨が降っていますが、納骨しますか」と聞かれました。
何かその様子雰囲気がちょっと気になってお話を聞きましたら「今日納骨しないといけませんか」と言われました。
 
 いつ納骨するか、決まりはありません。
49日間の中陰の期間、お仏壇の横に法名(位牌)とご遺影そしてお遺骨をご安置して七日七日のお勤めをします。
そして49日を迎える満中陰のご縁に親戚有縁の皆さんも一緒にお勤めをして、その後納骨することが多くあります。
 
 ただこのたびのご縁は、急に大切な方がお亡くなりになったということです。
今まで当たり前のように一緒に暮らしていた家族が生活の場から急にいなくなったということです。
心の整理がつかないというか、大切な人の死を受け入れられないというか
人の命を終えてその懐かしいお姿に会うことはかないませんが、遺骨というかたちが残っているということで
もう少しお家にご安置して一緒に生活したいということなのでしょう。
 
 納骨すると仏間の様子が平生に戻ります。大きな節目のご縁として、平生の生活に戻るということですが
それがそのまま死を受け入れることになるかというと、難しい。
 ご遺族の方にとってはいろいろと思い返すこともあると思いますし、これでこうだと思いきることはできません。
 
 それではいつ納骨するかということで、私の方からお盆前にはしましょうと提案しました。
というのは、どこかで納骨しないとそれこそいつまでもということで
これまでにも10年ぐらいずっと床の間にお遺骨をご安置していたお家がありました。
 
 墓地や納骨堂といった納めるところに納めたらいいのです。
そしてお墓にお参りして先に往かれたお方に会いに行けばいいと思います。
 
 凡夫の情です。こうなんですよこうしなさいと言わてもそのまま受け入れるには、時間もかかります。
時間がかかってもどこかで決めなければなりません。
 
 南無阿弥陀仏のご法義は人と人との別れはあっても、仏さまとなってずっとこれからもつながっていくというご法義です。ナンマンダブツとお念仏を申すところに先に往かれた大切なお方が仏さまとなって
私といつも一緒に生きてくださってあると聞かせていただきます。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.5.14)
円光寺
〒870-0108
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TEL.097-527-6916
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