冬の夜空に明けの明星が輝いています
暖冬と言われます。昨日は特別に暖かくというより暑くて国東市で27度大分市でも25度の夏日になりました。
昨日の朝6時の鐘をつくのに東の空に下弦の三日月がうかび右側に大きな星が輝いて何だろうかと思いました。
そんな話を報恩講参りでしたら、その星は明けの明星といわれる金星だと教えてくださいました。
金星は地球に一番近い恒星で、この時期は明けの明星といい朝の明け方に東の空に出て
3月から9月にかけては宵の明星といって夕方宵の頃西の空に出るそうです。
今はものごとをネットで気軽に調べ容易に知識を得て理解納得できますが
昔の人は月や太陽、星など宇宙の壮大な営みをどのように見て生活していたのでしょうか。
今のような科学的な知識がなかった時代
太陽が隠れたり、月が欠けたりする様子に何か不吉なことが起こるのではと不安に思ったりしたことでしょう。
世の中の動きと合わせて吉凶を占うこともあったと思います。
風の向き雲の動き雨の降り具合など自然現象に敏感に対処し生活して振り回されることもあったでしょうし
大自然への畏敬の念は本当に大きなものがあったと思います。
今は自然のことも科学的にいろんなことが解明され当たり前のように分かっているつもりですが
ただ科学がどんなに進歩しては到底解明できない宇宙の不思議な謎はまだまだ多くあります。
一番といっていいほど何が根本的にわからないのか。
いのちの不思議です。このいのちどこから来てどこに往くのか。
「自分のことは自分が一番わかっている」という自分自身のことです。
縁があれば何をしでかすかわからないのがこの私だと仏さまは教えてくださいます。
親鸞聖人はこの私を阿弥陀さまに知らされて煩悩具足の凡夫とおっしゃっています。
阿弥陀さまの智慧の光に照らされて真っ暗闇のなかを彷徨うように生きているこの私を知らせていただくのです。
知らせていただくということはもう既に阿弥陀さまの大きな大きな光明のなかに
必ず救うまかせよの南無阿弥陀仏のおはたらきがこの私に届いてあるということなのです。
お念仏のご法義に遇わせていただき本願念仏の救いの法を聞かせていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.12.5)

年賀欠礼の喪中ハガキ
今年大切なご家族がお亡くなりになったお家で
お正月のお仏壇のお飾りはいつものようにしてもいいんですかという質問がありました。
お仏壇にお餅などお正月のお供えは控えるべきだと周りの人から言われたというのです。
お仏壇のことについては私の出番ですから、いつものお正月のお飾りのように
お餅をお供えするところはお餅をあげればいいし、あげるあげないはそのお家お家のことでいいんですよとこたえました。
12月に入って早々に年賀欠礼の喪中ハガキが届きます。
「喪中につき新年年賀のご挨拶はご遠慮させていただきます」と印刷刷りで喪中ハガキの文面様式は決まっています。
62円のハガキでいつも何かもったいない気がします。
お別れした大切なお方の人となり思い出エピソードなど言葉を添えると心して読ませていただけると思います。
新年のご挨拶を控えるということではなく新年のご挨拶でいいと思います。
浄土真宗的にいえば「大切な家族と別れて静かな新年を迎えますが
今はお浄土の仏さまとなっていつも私たちを見守ってくださっていると聞かせていただきお念仏申します
今年もよろしくお願いいたします」と書かれたらどうでしょうか。
今や喪中ハガキが世間一般の常識みたいになっていますが
喪中といって先に往かれた方のことを思い生活を慎むということが大切です。
お念仏申すなかに仏さまのみ教えを聞かせていただき
死んだら終いのいのちではなく南無阿弥陀仏の大きないのちのつながりのなかに
いよいよ共々に生かされて生きるお念仏の生活をさせていただきたいと思います。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.12.4)

M1にかける夢
12月に入りますと年末恒例の催し行事があります。
昨日はM1というテレビ番組があって観ました。
漫才のナンバー1を決める企画で今年も約4500組の漫才コンビが一番を目指して挑戦しました。
二人一組ということで九千人もの若者が夢を追ってこの一年間取り組んできたということです。
時間にして4分間です。そのなかで観客に笑いを伝えるということです。
決勝に出たどの組も共通して声がはっきりと大きかったことが印象的でした。
肝心要は内容です。何をテーマにどんな題材でということですが、皆と同じようなことをしていては一番にはなれません。発想力が求められます。発想の転換これまでにない思いもつかない新しい発想です。
4分間で聞く人観る人にインパクトのある漫才を披露することは大変至難の業です。
でもどの組もよく内容を練って面白くついつい引き込まれてしまいました。
昔ながらの漫才とは明らかに違います。
社会の基本的な知識は基より世の中の動きに敏感でなくては今を生きる人にうったえるものにはなりません。
現実社会の話題を常に取り込み柔軟な発想で台本作りをするんですね。本当によく勉強されているなと思います。
4分間の作品に仕上げるまでに何回も台本を校正し何度も何度も練習を重ねてこの夢舞台に立つんですね。
今までの人生を振り返れば何度も挫折を繰り返し他人には言えないようなギリギリの生活をするなかで
家族や周りの人たちにたくさん心配をかけて、そして一番になるのは一組二人だけなのです。
本当に厳しいことですが、一番めざして人生をかける意味がそこにあるのでしょう。
これは漫才の世界だけではなく私たちの人生でも同じようなことが言えると思います。
ただ一番をとることだけが人生の目的だったらその願いをかなえられるのは極々わずかな人に限られます。
阿弥陀さまの本願念仏のお救いはすべての生きとし生けるものを分け隔てなくそのまま救うといいます。
一番をとる人ということではありません。何度も何度も挑戦しても跳ね飛ばされる人も等しく救うていくのです。
阿弥陀さまの願いはすべてのいのちそれぞれに精いっぱいに生き抜いてほしいという願いです。
人間に生まれて私が私でよかったという人生を生きてほしいというのです。
南無阿弥陀仏お念仏申してごらんと呼びかけおはたらきです。
南無阿弥陀仏いつでも私がいるから大丈夫だよ、どんな状況にあっても私は決してあなたを見捨てることはないから
安心してあなたはあなたのいのちを精いっぱい輝かせて生きてほしいと
ナンマンダブツとお念仏申すところいつでもどこでも私のことを思い見守ってくださっています。
M1で夢がかなわずこれを機会に古里に帰る人新たな仕事に就く人、これからの人生それぞれですが
どのような人生も阿弥陀さまの大きな大きな光のなかにあることを聞いてほしいと思いますし
まずこの私が南無阿弥陀仏のみ教えを聞かせていただきこの人生を歩ませていただきたいと思うことです。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.12.3)

AI人工知能とお念仏
昨日門徒報恩講にお参りしたお家でAI人工知能のロボットの話になりました。
そのお家では実際にロボットを各部屋に4台置いて生活しているとのことです。
遠く離れた所からでもスマホで「○×○×(とロボットの名前を呼んで)」とロボットに指令すると
「ラジオをつけて」といったらラジオが聞こえてくるし「今日の天気は」ときいたら情報がすぐ返ってくるという仕組みで カメラも設置していてペットの犬が留守中何か悪さをするとロボットを通して犬を叱ることもできるといいます。
自動運転の掃除機もスマホで動かせるといった具合です。
仏間には置いていませんが、隣の部屋に行って実際に操作するところを見せていただきました。
ロボットに声かけしたら何も文句を言わずにその通りに応えてくれます。
「こりゃあいいですよ」と終始満足気にお話されます。
よく操作ができるものですねと尋ねたら「私はこういうことが好きなんです」と言われます。
経費も随分かかるだろうし私はまだスマホまでも行きませんから、こういう生活もあるんだなと感心したり
すぐ身近なところでの現実にちょっとカルチャーショックを受けました。
そんなことが午前中にあって夕方ある門徒さんが相談事があってお寺にやってきました。
事前に電話で大体のお話は聞いており「お寺に来てください」と言ったら「電話では悪いんですか」と言われましたので
「仏さまのことですからお寺でいろいろとお話をお聞きましょう相談しましょう」ということで来ていただいたのです。
人と人が直接会って話すことの大切さを思います。
電話で用件が済むことと相談事とは違います。事務的な対応でしたら電話で十分です。
相談するとは自分の思いを一方的にぶつけることではありません。
ひとつの言葉を話すにもその人の表情があります。
言葉だけだはなくその表情話しぶりを見てその人の気持ちを受けとめていくことがお互い大事で
お互いのことを思い合うなかでより良い方向に相談していくということです。
科学技術が進歩してどんなに生活が豊かで便利になっても私たち人間の苦悩がなくなるということではありません。
オギャーとこの世に生まれて私たちの生死の苦悩が始まるのです。
人間に生まれ老いて病んで死んでいくといういのちの営みは昔も今も変わりません。
生活環境はそれぞれの時代で違っても生死の迷いのなかを私たちは生きてそして死んでいく
そのことを何度も何度も繰り返して私が今ここに生きていると仏さまは教えてくださいます。
AI人工知能で生活環境はより改善されても人間の苦悩はより深く多岐に広がりその解決はAIでは到底できません。
この人間界を生きている私がいます。いろんなことが思い通りにならなくて苦しみ悩み迷う私がいます。
そうした人と人が織りなす社会で思い悩み解決できないことがたくさんあります。
南無阿弥陀仏のお念仏のみ教えを聞かせていただきましょう。
人と人とがお互いに聞かせていただくなかに「ああそうやね」と共に生きていく道が開かれていきます。
自分一人だったらいいようなものですが、この社会の営みはそうはいきません。
二人三人になって思い悩むことがたくさん増えるということですが
そこに共に生きる喜びがあることを南無阿弥陀仏お念仏のみ教えに聞かせていただきます。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.12.2)

一体何をしてきたやろうか?
12月に入りました。師走です。何か慌ただしさを感じる時節ですが
昨日お参りして12月に入る感じがしないという話になりました。
昨日は日中暖かったですね。小春日和というそうです。
暖かいのはいいことですが、こんなに暖かいと何か変に思うこともあります。
私が小学生の頃12月1日は寒いなあという思いが強く残っています。
その頃は昔の家で隙間風が至る所から入ってきて、暖房器具も掘りごたつに火鉢ぐらいで充実していません。
その寒い中を朝早く僧衣姿の父が編み笠をもって外に飛び出すように家を出ていった思い出です。
12月1日から7日まで鶴崎地区の歳末たすけあい運動の托鉢があったのです。
宗派を超えて鶴崎地区のお寺のお坊さんが各七地区を毎日順番に行列を組んで托鉢して回るのです。
父が戸をあけて外に出ると外から風がビューっと吹き込んで12月は寒いという感じでしたが
この頃は朝はちょっと冷えるものの日中はまだまだ暖かいなかにあります。
12月に入って今年もあと一か月で終わろうとしています。
この時期になるとこの一年を振り返ります。今年一体何をしてきたやろうかと思います。
正月明けて年頭に今年こそはと思い立って、すぐ一年が経ぎ今年は何をしたやろうかと反省します。
この一日もそうですね。朝は今日は何をしようと始まって夕方になって今日は何をしたやろうかということです。
特別なことがない限りいつもの繰り返しのように一日が過ぎて行きます。
ただ生きているということは確かなことです。
人それぞれ生活ぶりは違いますがこのいのちを生きています。
一日、一週間、一月そして一年生きてきたということです。
そして一年歳をとります。歳をとるのは大変です。
思い通りにならないことがこの身に増えてまいります。
ナンマンダブツとお念仏を申して歳をとらせていただきましょう。
生死の迷いの私をそのまま救うと南無阿弥陀仏のおはたらき一つで
阿弥陀さまのお浄土への道を歩ませていただきましょう。
今日の一日もお念仏申すなかに生かされて生きてまいりましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.12.1)
