ご遺影で先人を偲ばせていただきます
2018-10-07
お葬式にご遺影をご安置します。
随分若い時のご遺影があって式場に入り会場を間違ったのかと思うほど別人のようなものもあります。
中陰の期間ご遺影はお遺骨とともに中陰壇にご安置しますが、その後ご遺影はどうされますか。
ちょっと前でしたら、お仏壇のある仏間の鴨居に懸けるお家が多くありましたが
最近はお家の造りも変わって仏間にかけないところが多くなりました。
いつも亡くなったご先祖から見られている睨まれているようで仏間に入るのが嫌だと聞いたこともあります。
ただご法事のご縁で仏間のご先祖のご遺影の有難さを思ったことがあります。
お勤めの後仏間でお斎をいただきながらふと親戚の方がご先祖のお写真を見て
お家の方に「段々じいちゃんに似てきたね」という話になりました。
やれ口元が似ているとか目が鼻がということです。
顔が似てきてえっと思うようなことではありません。
ご先祖との血縁つながりです。歳が近づくほどに似たところがでてくるんですね。
それは私が似たいと思って似たことではなくってそのまんまなんですね。
そうしたご縁つながりのなかにご法事のお勤めをさせていただくのです。
この前しっかりした顔立ちのお母さんのお写真を拝見して
「しっかりしていますね」と言ったら、そうですという話になって
実はこういう仕事をしていてという話にまで及んでその人となりを偲ばせていただいたことです。
ご法事で先に往かれた方をご遺影を通して偲ばせていただくことです。
ご法事のご縁の有難さです。
ご法事をお勤めさせていただくことで私だけの思い出ではなくご親族有縁の方々の思い出に広がっていくのです。
そしてその思い出はこの私自身が歩んできたいのちの歴史につながることでもあるのです。
ご先祖のご遺影をいつも仏間にかけておくことも意味のあることですし
ご法事のご縁に持ち出してご先祖を共々にたずねていくことも本当に大事なご縁だなと思います。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.10.7)
南無阿弥陀仏のお取り次ぎをいただきます
2018-10-06
昨日は坂ノ市の妙蓮寺様での大海組仏婦大会で一昨日は別府別院の鏡如忌で続けてお聴聞のご縁に遇いました。
それぞれ違う布教使の先生で、その話ぶりは異なりますが
浄土真宗のみ教えの要、南無阿弥陀仏のお心一つお取り次ぎしてくださることです。
浄土真宗のご本尊の阿弥陀さまの「すべてのものを分け隔てなく必ず救う」という本願念仏のお救いの法です。
信心いただけよお念仏申す身になってくれよとのご開山親鸞さまの思いを重ねて讃えられる尊いご縁です。
ただお聴聞する側の私たちに問題があります。
何かお寺でお説教を聞くことも町の講演会で著名な先生のお話を聞くことも同じように思ってらっしゃる方がいます。
お法話聴聞されて「今日はよかった」と言われる人がいらっしゃいます。
よかったということはよくなかったということもあるのでしょうか。
今日の先生の話は面白かったという人もいます。
ご法義の話は面白い話でしょうか。
今日のお朝事のご縁もそうですが、仏さまのご縁はお念仏に始まりお念仏で終わります。
南無阿弥陀仏のお取り次ぎをいただきます。
ナンマンダブツとお念仏申すなかにご縁をいただくのです。
南無阿弥陀仏のお心いっぱい聞かせていただいてナンマンダブツとお礼ができるのです。
「ありがとうございます」とお礼のお念仏を申させていただきます。
仏さまのご縁をいただいて、いよいよ阿弥陀さまがいつでもどこでもこの私のことを思い取って
ナンマンダブツナンマンダブツとお念仏の声となって私のところに来てくださり寄り添って
南無阿弥陀仏「必ず救うまかせよ」とはたらき続けてくださってあると聞かせていただきます。
そのこと一つ喜ばせていただくお念仏とまた有難くいただきます。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.10.6)
降る日も照る日も
2018-10-05
朝から凄い雨になりました。
台風でも来て大きな雨が降るといろんな被害が心配ですが、雨が降らないと私たちの日暮し生活に支障をきたします。
親鸞聖人が比叡の山を下りられ京都の六角堂に百日間参籠された95日目の明方に
六角堂の御本尊観音菩薩さまの夢告を受け法然聖人のもとに百日間通われたと
恵信尼文書という奥様の恵信尼さまが娘の覚信尼さまに宛てたお手紙に書かれてあります。
そのなかに降る日も照る日もとあります。雨の日も晴れの日もどんな日も毎日百日間通われたということです。
雨の日は余程の用事がない限り外に出ることはありません。
生死いづべき道を求めて雨の中もということです。
生死の迷いを離れる道をひたすら求めて法然聖人を訪ね
阿弥陀さまの本願念仏のお救いの法を聞かれたということなのです。
私たちは日々の生活にあって自分の当面の用事を先にします。
そういうなかにあって生死いづべき道とはこの私の命をかけるほどの一大事であるとのお示しだといただきます。
私たちもまた降る日も照る日も生死いづべき道を求めて、仏さまのご縁ご縁に遇わせていただきたいと思うことです。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.10.5)
断捨離宣言?
2018-10-04
昨日10月3日は私の誕生日で66歳になりました。
こういう人生の節目には一つ決心して何かしましょうと思い立つのですが
断捨離といいます、一つものごとを片付けていく始末していくということで
昨日今までためていた書類を引っ張り出して少し整理をやりかけたんですが
久しぶりに目にする物モノもの全てに思い出があって断捨離どころではなくなって整理もままならず
半分以上はまた元の袋に戻すようなことになりました。
断捨離というのはそのもの自体を思い切って捨てるということなんですね。
でも一回見だしたらそれこそ駄目ですね。
これは捨てられない取っておこう、これもこれもといった具合で本当に難しいですね。
何が難しくしているのか。私のはからいです。
究極の断捨離はこの私のはからいを一切捨てるということだと思います。
まさに仏道修行ということになりますが、自分の力で捨てよう捨てようとしてもどこまでも自分のはからいが残ります。
捨てきれないのです。
私のはからいに執着し苦悩する私を目当てにお念仏のご法義阿弥陀さまの本願他力がおはたらきです。
そのまままかせよ必ず救うの南無阿弥陀仏のお心おはたらきにただまかせるだけでいいんです。
そこに何の条件もありません。そのままのお救いなのです。
ただそのことを私がそのまま聞き入れません受け入れません。
私が私がとはからいが次から次と出てきます。
お聴聞しなさい信心いただけよと、信心一つお念仏一つでいいんだよと、何度も何度も聞かせていただきますが
まだまだ娑婆の縁が恋しいのが私たちのようであります。
とはいえこの命いつまでも長く続くということではありません。
断捨離といった思い切ったことは中々できないかもしれませんが、一つ一つこの人生の始末をつけながら
一歩一歩お浄土への道すがらを歩ませていただきたいと思います。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.10.4)
お通夜のご縁でご法話をさせていただきます
2018-10-02
お通夜のご縁でご法話をさせていただきます。
短いお取り次ぎですが、皆さんよく聞いてらっしゃるなということをいつも感じます。
お通夜にお参りする方は必ずしも浄土真宗の門徒ということではありません。
それこそ初めて仏さまのお話を聞くという方もたくさんいらっしゃるのではないでしょうか。
ただよく聞かれるというのは、先に往かれた大切なお方と最後に過ごすお通夜のご縁ということなのだと思います。
大切なお方が亡くなって今は棺の中に懐かしいお姿を見ることができますが、明日は火葬され白骨となるということです。
日常当たり前のように会って話をしていた方が生活のなかからいなくなるということです。
これほど悲しいことはない、本当にさびしい限りです。
お通夜のご縁で仏さまのお話を聞かせていただくのです。
どこかで皆さんも思い知っていることですが、私たちはどんな人も命終えていかねばなりません。
死ぬということです。死は避けて通れぬことですが、自分のことと思いたくない考えたくない私がいます。
お聴聞といいますが、お法話を我が事として聞くということは、これほど難しいことはありません。
ただこの難しいことができる場そのご縁がお通夜のご縁なのです。
どなたがこのお通夜のご縁この私をここに座らせてくれたのでしょうか。
先に往かれた大切なお方です。今はもうすでに仏さまとなって私を仏さまのご縁に遇わせてくださっているのです。
お通夜のご縁を仏さまのご縁として、仏さまのご縁にこれからも遇っていただきたいと思います。
お通夜のご縁はその人人一度きりのご縁です。
悲しみのご縁ですがそのまま仏さまのご縁に遇わせていただいて
いよいよナンマンダブツナンマンダブツとお念仏を申す生活をさせていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.10.2)