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お念仏を申す生活法話

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日々どういうお勤めをしていますか?

2018-06-18
 ある法話会で出席された方が「皆さんの家ではどういうお勤めをしていますか」と尋ねられました。
皆さんとはご門徒さんもいれば宗派の違う方も出席でしたが、お家で日々お勤めをする内容です。
 その方はお正信偈をお勤めし御文章をいただいて最後に蓮如上人がお示しになった領解文を拝読しますと言われました。
聞かれた皆さんはえっという思いだったと思います。一瞬黙り込んでしまってすぐ返事が返ってきませんでした。
 
 浄土真宗の門徒は日々お正信偈のお勤めをしましょうと勧められたのは蓮如上人です。
それから今に至るまで五百有余年が経ち、私たちの生活ぶりは当時と比べものにならないほど全く変わりました。
 家族そろって食卓を囲む生活が当たり前だった頃は朝夕の食事前に家族が御仏前に座りお勤めをしていたと聞きます。
 
 ところが今は同じ屋根の下で暮らす家族といっても、それぞれ生活ぶりは違います。
食事の時間もそれぞれかもしれません。
それぞれの思いで自分の部屋で用事をしたりして、同じ部屋に集まって家族団らんということが難しくなりました。
 
 そうした生活のなかでの日々のお勤めです。
時間を決めて家族そろってお勤めすることは殆どできていないのではないでしょうか。
それこそできても一人か夫婦二人でお勤めするようなことだと思います。
そして一人でお勤めするのも朝の時間は本当に貴重な時間です。
 このお朝事でいうと30分のお勤めですが、お寺への道中の時間など入れたら1時間以上のことになります。
まだゆっくり布団の中で休んでいたい方もいるでしょう。朝する用事もたくさんあります。
 
 そのなかを皆さんはこうして毎朝お寺にお参りされています。
傍から見ると時間がもったいないと思う人もいるでしょうが
皆さんにとってお朝事のお勤めはそうした思いを超えているのではないでしょうか。
 
 お家のお仏壇にお参りすることも難しくなりましたが、お勤めしないまでも仏さまのお給仕をさせていただきましょう。
ご飯を炊いてまず一番にお仏壇の阿弥陀さま、親鸞さま、蓮如さまにお供えしましょう。
せっかくのご縁です。お仏飯をお供えして御仏前に座りましょう。お灯明をあげてお線香をたきましょう。
手を合わせてナンマンダブツの一声でもお念仏申して仏さまにお礼をしましょう。
 
 そんなに時間はかかりません。皆さんの時間に合わせてさせていただいたらいいと思います。
時間があったらお勤めをしましょう。お正信偈が長かったら讃仏偈や重誓偈の偈文のお勤めをしましょう。
 
 毎日これをしないといけないと力が入ると長続きしません。
最初は思いを強くもたないとスタートできませんが、始めたらとにかく御仏前に身をおくことを心がけましょう。
 仏さまのご縁に遇わせていただき続けていくなかで仏さまのお育てをいただくのです。
仏さまのお育てをいただいてこのお朝事参りが続いているのではないでしょうか。
 
 私が頑張って続けていると私のところに力が入るとしんどくなって長続きしません。
そして毎日といっても用事があります。そういう時は用事を先にしてください。
用事を先に済ませてこのお朝事この時間に身をおいてください。
 毎朝身をおかせていただく私の居場所このご縁をいただいていることを有難く思います。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.6.18)

お互いの違いを認め合って生きてまいりましょう

2018-06-17
 昨日自尊心のお話をしましたが、今朝の新聞の一面に自尊心と見出しにあってはっとしました。
玖珠町の久留島武彦童話記念館の館長さんについて書かれた記事です。
金成研さんという韓国の釜山出身の方で、日本の大学に留学し久留島武彦さんの研究をした縁で
去年オープンした記念館の初代館長に就任したということです。
 
 「町への誇りが自尊心に」とありました。
生まれ育った町への誇りが人生を歩む上でまた大人になって外に出たときのアイデンティティーになると書いていました。
 
 自尊心ということでお釈迦さまのお誕生のお話を思います。
お釈迦さまは生まれてすぐすっと立ち上がり七歩歩まれ右手を天に左手は地を指して
「天上天下唯我独尊」と言葉を発せられたといわれます。
 天の上にも下にもとはあらゆる世界のなかでということで、我独り尊しというのは、この私のいのちの尊さです。
人の世に<天下一品のいのち>を恵まれて生まれてきた、そのことが尊いことなんだよといわれるのです。
 
 これはお釈迦さまだけのことではなくて、私もあなたも皆さんお一人お一人が「天上天下唯我独尊」の
かけがえのないいのちを恵まれいただいてこの世に生まれ、今ここに生きているということです。
 
 皆さん、人に生まれたことに誇りをもって生きていますか。
何も頼みもしないのに何で生んだのかと親を悲しませ、お前のような子を生まなければよかったと言い返す・・・
我が物顔にいのちをもてあそぶ事件が後を絶ちません。本当に心痛みます。
 
 前述の新聞記事に、この記念館はたとえ一人でも来館すればスタッフが案内しますとありました。
何か当たり前のようですが、効率と成果が優先される今の世の中では中々難しいことです。
 
 久留島先生の精神ですとありました。
信じ合い、助け合い、違いを認め合うことだといいます。
 
 お釈迦さまのお心仏教の精神です。
お互いに認め合うといって難しいことです。
夫婦であっても親子であっても兄弟であっても無二の親友という者同士であっても
私たちはどこまでも自分を中心に生きています。
 
 だからこそナンマンダブツ、お念仏を申してくれよというんですね。
お念仏を申すところ「私がいるよ、大丈夫だよ」と私一人を目当てに呼んでくださる仏さまの声を聞いて
私だけでなく隣の人も隣の人もみんな共々に仏さまの大きな大きなお慈悲のなかにあると聞かせていただくなかに
お互いを認め合って私にできる精いっぱいのことをさせていただきましょう。
 
 いのちに差別はありません。みんな等しく生まれて来たいのちです。そして仏さまに成らせていただくいのちです。
どんな人もお互いに仏さまのみ教えを聞かせていただくなかに、どうぞ今日の一日も生かされて生きてまいりましょう。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.6.17)

許されて生きる

2018-06-16
 今の日本社会は若者にとって寛容でなく生きにくいというお話を聞きました。
 
 先日新幹線で殺傷事件がありました。犯人は22歳の若者です。
極悪非道な人間業とは思えない事件を起こした者とは見えない、あどけなさの残るどこにでもいるような若者です。
小さい頃からの人生の軌跡が報道されていますが、彼にとってこの社会はどんなものだったのでしょうか。
 
 この社会に生きる価値の基準が極端なまでに極限化し、「お金をどれだけ稼げるか」など二つ三つの基準で
人間の能力が判断されていると前述の話は続きます。
 本来人間には多様な能力があるのに、この基準に当てはまらないとその人は能力がゼロとみなされ
結果自尊感情にかけた若者が増えているといわれるのです。
 
 随分前から今は多様化の社会時代だといわれています。
ここに5人いますが、夫婦であっても親子でも兄弟でも、ものの見方は違いますし生活ぶりは人それぞれです。
 
 お互いに違いを認め合うなかにこの社会を共に生きることができたらいいのでしょうが
どこかで私たちは生きる基準を設定し、私のものさしで人ひとを見ているところがあります、見られているのです。
その基準に合った生き方が思うようにできたらいいのでしょうが、その基準に漏れる人も出てきます。
 
 他の人を見て言うことならばそのまま受け入れることはできても
この私のことと見られるとこれほど窮屈なことはありません。
 
 何をしても自分の思い通りに行かないと苦しみ悩み、迷う私がここにいます。
この私一人を救うために阿弥陀さまはすっとお立ちの仏さまになってくださいました。
 
 生きる価値基準に道徳があります。
人として生きる道を説くものです。人のために社会のために善いことをしなさいと教えます。
 
 善いことをしたら救うという宗教もあります。わかりやすいですね。うんと頷けます。
それで救いの条件を示されて、その通りにできたらいいのでしょうが、これが難しい。
 
 阿弥陀さまのお救いは善いことをしたら救うとはいいません。
世間でいう善いこと一つができない、世間の価値基準で能力ゼロと見捨てられるような私です。
この私をこそ必ず救うと南無阿弥陀仏のおはたらきの仏さまになってくださったのです。
 
 道徳では迷惑をかけるなと教えます。
仏法に聞かせていただくと、迷惑をかけるなとはいいません。迷惑をかけているということに気づいてくれよというのです。
 私たちが生きるということ自体が迷惑をかけて生きているということなのです。
どんなお金持ちもどんな優秀な学者さんもスポーツマンもどんな人でも
生きているということがそのまま迷惑をかけているというのです。
 私たちは迷惑をかけて許されて生きているのです。
 
 今の若者は自尊心を失って生きる自信がなくなっているという指摘です。
縁あってこの人の世に生まれ、恵まれたこのいのちです。
人間に生まれて今を生きているということ自体が尊いことなのです。
 
 自尊心がなくなると自暴自棄になって自らを傷つけ
他を尊ぶ心がなくなって「誰でもいいから」と他の人を傷つけることにもなります。
 
 私たちが生きているこの社会は自分一人で生きているのではありません。多くの人たちと共に生きています。
大きないのちのつながりの中で生かされて生きているのです。
それはお互いに迷惑をかけているということであり、それは支え合って許されて生きているということなのです。
 
 自らのいのちを尊ぶように他のいのちを尊んでまいりましょう。
色んなことが次から次とこの身に起こり思い通りに生きていけない人生ですが
南無阿弥陀仏とお念仏申すなかに阿弥陀さまのおよび声を聞かせていただき
阿弥陀さまの大きなお慈悲のおはたらきのなかに
人間に生まれてよかった、あなたに会えてよかったと共々に生かされて生きてまいりましょう。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.6.16)

子や孫の世代に伝えていくもの

2018-06-15
 昨日は大海組の総代研修会がありました。大海組発行の「葬儀のしおり」の普及と徹底というテーマでした。
話し合い法座をもちました。私たちの班は6人の総代さんで70代から80代前半の方々でした。
 
 日頃子どもや孫とどういう会話をしていますかと話を聞きました。
核家族で同居より別居のお家が多く、遠く離れて遠方にいたりすぐ近くにいる方もさまざまですが
中々子どもや孫に接する機会がなく、孫が中学高校生にもなると話をするのも難しいということでした。
 
 そうした日々のつながりのなかで葬儀のしおりだけでなくお念仏のご法義をどう子や孫に伝えていくかです。
ご講師の先生からは後ろ姿が大事だというお話がありました。
子や孫はじいちゃんばあちゃんの後ろ姿を見ていないようでちゃんと見ているということです。
 
 昨日出席されていた総代さんも、今はお寺のお世話を率先してしてくださっていますが
子どもの頃若い時分はどうだったでしょうか。
仏教のことにどれだけ関心があったでしょうか。お寺との関係はどうでしたでしょうか。
 
 お寺参りの年頃です。親の後ろ姿を見るなかで自分がそういう年頃になっていくのです。
ただいい年頃になっても仏さまのご縁をいただくということは本当に難しいことです。
 
 話し合いの中でもう一つ、6人のうちの2人の方が娘さんはいるが他家に嫁いでいるということで
自分が亡くなった後のことを心配されていました。
 
 お葬式は浄土真宗でしてくれると思うけれども、嫁いだ先のお家の宗教もあって
後に残ったお仏壇やお墓をどうするのか、だれが見ていくのかということです。
 こうした問題はこれからたくさん寄せられてくるといます。
 
 一つこういうことで決めてということではありません。
その人その人そのお家お家でお話をさせていただくことが益々大事になってきます。
 
 私たちの中心、南無阿弥陀仏の仏さまのみ教えに聞かせていただくことです。
これといって私の思い通りになるということは難しいです。
 「まかせよ救う」の南無阿弥陀仏の大きなおはたらきにおまかせするなかに
私はこの命終えていきますが、子や孫の次の世代にお念仏のみ教えが確かに伝わっていくように
私にできる精いっぱいのことをさせていただきたいと思いました。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.6.15)

お念仏の鏡を見ましょう

2018-06-14
 「経教はこれを喩ふるに鏡のごとし」と中国の善導さまがおっしゃっています。
経教とは仏法、仏さまのみ教えのことで鏡のようなものであるとお示しです。
 
 皆さん今日鏡を見ましたか。
私のことでいいますと、朝起きて洗面をするのに鏡を見ます。
外に出かけるときは特に気をつけて鏡を見ます。
髪の毛が乱れてないか何か顔についていないかなど、鏡に映った私の姿を見てチェックします。
 
 仏法を聞くというのもちょうど鏡を見るようなものだといわれるのです。
仏法を聞くといって、教えの内容を理解し覚えるということでは本当に仏法を聞いたことにはなりません。
仏法を聞けば聞くほど私のありのままの姿が見えてくるといいます。
 
 仏法という鏡に映し出される私の姿とはどんな姿なのでしょう。
親鸞聖人は煩悩具足の凡夫と阿弥陀さまから見抜かれ知らされたといわれます。
朝から晩まで自分中心の心から離れられず、煩悩に振り回されて生きている愚かな私の姿です。
 
 阿弥陀さまは愚かな私を知らせてそのまま救うとおはたらきなのです。
仏法の鏡に映し出された私の姿を見るということは、そこに既に仏法の鏡があるということです。
鏡があるからこそ鏡によってありのままの私の姿を見せてもらえるのです。
 
 では仏法の鏡を見る、仏さまのみ教えを聞くといって
お寺にお参りしないと仏法聴聞のご縁がないとみ教えに遇えないのかといったら
いつでもどこでもお念仏の鏡を見ることができるのです。
 
 電車のなかで女性が鏡を取り出してお化粧している姿を時どき見かけます。
携帯用の鏡をいつももっているんですね。
 
 私たちにもいつも携帯用の鏡が備わってあります。南無阿弥陀仏のお念仏の鏡です。
ナンマンダブツとお念仏を申すそのままにナンマンダブツが聞こえてきます。
南無阿弥陀仏のお心をそのまま聞かせていただきます。
 ありのままの私の姿をそのまま見せてくださり、愚かな凡夫と知らせてくれてそのまま救うてくださるおはたらきです。
 
 今日の御文章さま『機法一体の章』のお心です。
機というのは私のこと、法は仏法です。
 阿弥陀さまの南無阿弥陀仏のおはたらきに遇って救われようのない私が救われていくのです。
阿弥陀さまがこの私を目当てにいつでもどこでもご一緒なのだといただきます。
 
 お念仏を申して仏法の鏡に映し出される私の姿を見させていただきながら、お浄土への人生を歩ませていただきましょう。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.6.14)
円光寺
〒870-0108
大分県大分市三佐3丁目15番18号
TEL.097-527-6916
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