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お念仏を申す生活法話

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連続研修会のお話

2018-07-13
 昨日は月に一度の大海組の法中会といってお寺の住職新院の会合がありました。
ご本山教区組の連絡事項が主なことですが、昨日は連研という連続研修会のことで話になりました。
 連研は組内のお寺のご門徒さんが一年ちょっとかけてほぼ毎月一回お寺を順番に会場にご縁をいただくご法座の会です。
連続というのは一人の人が連続して13回のご縁をいただくということで
お勤めをされてる方には時間的に難しいところですが、この連研が始まってかれこれ50年になります。
 
 それもこの大分の地から始まったと言われます。
最初から連続研修会をしましょうと皆さんに呼びかけたものではありません。
 日々の生活のなかで住職さんとご門徒さんのいつもの話のなかで
ふっとご門徒の方から仏事について質問が出たということです。想像します。
 
 「お念仏は有難いお念仏は有難いというが、何がそんなに有難いのか。一体お念仏とは何なのか」と聞かれます。
「それはお念仏のお救いに遇うた有難さ喜びなんだよ」と答えます。
すると「お念仏のお救いってどういうことかえ。救われるってどうなることかえ」と重ねて聞きます。
 問いがあって答えていくというか、僧侶門徒が共々にお念仏のみ教えに遇うていくご縁が
連研の始まりだったと伺っています。
 
 今もそうですが、お寺のご法座は仏法お聴聞のご縁です。
何かあなた聞く人私話す人と、僧侶がお念仏のご法義をお話お取次ぎし門徒は聞くというすみ分けがあるようですが
その役割はそれぞれ違っても僧侶も門徒も同じお念仏お聴聞の人なのです。
 
 私たちのご法義の中心は阿弥陀さまのご本願南無阿弥陀仏のお救いの法です。
南無阿弥陀仏のお心を聞くのはご門徒さんだけではなくてお坊さんもまた聞く人なのです。
 皆さんもそうだし私もまたそうなのです。
私たちは日々の生活のなかでのいろんな苦悩を抱えて生きています。お互い生身を生きているのです。
その生身の人間同士が仏さまのご縁に連なって南無阿弥陀仏「必ず救うまかせよ」のご法義に遇うていくというのが
私たちのご法座なのです。
 
 この連研は話し合い法座といって私たち僧侶もご門徒皆さんと一緒に話し合いの場に座ります。
いろんな質問がでます。皆さんが一番知りたいこと日頃思っていることです。本当に有難いご縁です。
 その問いを皆さん一緒に受けとめて南無阿弥陀仏のお心を聞かせていただきましょうということです。
 
 50年前に始まった連研で僧侶も門徒も人が変わっていきます。
50年経って周囲の状況や若いお坊さんたちの感覚も違ってきます。ご門徒さんもまたそうです。
 そういうなかにあって連続研修会のあり方もその都度見直し修正しながら
僧侶門徒共々に阿弥陀さまのご法義に遇っていきましょう、お浄土への道をご一緒させていただきましょうと
あらためて思ったことです。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.7.13)

微笑み返し

2018-07-12
 タイで洞窟に閉じ込められていた13人の子どもたちが全員無事救出されたというニュースが世界中に発信されています。
本当によかったということですが、救出活動は大変困難を極めたといいます。
 あまり想像したくないですけれども、洞窟のなかに閉じ込められるというのは真っ暗ななかです。
それも水が押し寄せてくるという恐怖が迫ります。
 奥へ奥へと逃げ込んだということですが、洞窟の入り口から5Kmといいます。
世界中からプロのダイバーが大勢集まって救出活動を行ったということですが
子どもたちがいるところまで時間にして2時間かかるといいます。
2時間暗い狭い中をひたすら歩いて泳いで潜ってを繰り返す体力気力の要る業です。
救出活動にあたる方はヘルメットにライトをつけてということですが
濁った水の中を何か所も潜って行くということで酸素ボンベなどの機材も必要です。
それも一番狭いところで30㎝40㎝といいます。とてもとても想像できることではありません。
 
 このニュースのなかで皆さんもアッと思った方がいると思いますが
最初に子どもたちを発見した時の映像で、子どもたちがカメラに向かって合掌していました。
 タイは仏教国で、多くの方が出家してお坊さんになります。
微笑の国といいます。微笑とは仏さまのお慈悲のお心です。
合掌したあの姿に皆さん心打たれるところがあったのではないかと思います。
 
 とはいえ閉じ込められた状況を自力で脱出することはできません。
今日の御和讃「如来の作願をたづぬれば 苦悩の有情を捨てずして 回向を首としたまいて 大悲心をば成就せり」に重ねて
味わわせていただきます。
 私の力では到底かなわない。そういう私を見たときに阿弥陀さまは大悲心を起こされご本願を作られたというのです。
大きな悲しみ慈しみのお心です。このお心おはたらきを南無阿弥陀仏と私のところに回向届けてくださってあるといいます。   
 まさにこの世は仏さまからいうと真っ暗な暗闇の世界、迷いの世界です。
その暗闇迷いの世界から私たちを一人残らず救わずにはおかないという如来の作願なのです。そのことを思います。
 
 もう一つ、関係者の方がこうコメントをしています。
この13人の子どもたちは大変な経験をした、この経験をこれからの人生に生かしてほしいと。
世界中からダイバーの方がみんなを助けに来てくれた多くの支援をいただいたという思いをもって
これからの人生で今度は世界中の方に恩返しをしてほしいと。
 
 仏さまの微笑の国です。微笑返しです。
大きな形での社会貢献でなくても、仏さまの大悲心をいただくなかに日々の生活のなかで微笑返しの営みができるのも
私たちのお念仏の生活だとまた味わわせていただきます。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.7.12)

トイレを借りに来れるお寺

2018-07-10
 地域の子どもたちが安心してトイレを借りることができる、それが地域の書店の役割である
という新聞のコラムを読みました。書店とは本屋さん、毎日同じ場所に同じ人がいることが大事だといいます。
 
 ちょっと前ですが、玄関のチャイムが鳴って小学生の女の子が「トイレを貸してください」と来ました。
その前もその時は坊守さんが対応しましたが、トイレを貸してくださいと来ました。
 
 書店とお寺です。お寺はいつもそこに誰が居るということではありません。
お寺にはお寺の人というより、阿弥陀さま仏さまがいらっしゃいます。
 いつでもどこでも私のことを思うてくださる、護ってくださる、そして救うてくださる仏さま
その仏さまに会いに来れるところがお寺というところなのです。
 
 先週オウム真理教の事件で死刑判決を受けた教祖の麻原彰晃はじめ7名の有力幹部の死刑が執行されました。
オウム真理教の事件は当時社会に大きな衝撃を与えました。
 今でもまだその真相が解明されていないままですが
なぜあの若い人たちがそれも超エリートといわれる高学歴の人が入信し
マインドコントロールされ教祖の意のままに残忍な犯行を繰り返したのかということです。
 
 公判のなかで信者の一人が
「なぜオウム真理教という宗教に入信したのか。あなたの近くにもお寺があり
家には仏壇もあって手を合わせることもあったのではないか」という裁判官の質問に対して
「お寺はあったが、お寺は単なる風景にすぎなかった」とこたえたといいます。
 
 風景です。風景というのはすがたかたちのことで、そこには人が生きていないのです。
お寺は単なるすがたかたちに過ぎない、人もいない、教えもないということです。
 
 今朝もこうして朝の6時半同じ時間にお寺の本堂同じ場所で皆さんとご一緒に朝のお勤めができました。
毎朝6時半に円光寺にお参りすると、阿弥陀さまが迎えてくれる、そしてお同行皆さん一緒に
お勤めができる、手が合わさるお念仏申せるお礼ができるということです。
 
 阿弥陀さまがつくってくださった尊いご縁です。
どうぞ皆さんの隣の方にもお朝事にお参りしましょうお寺にお参りしましょうと声かけをして
お念仏のご縁を広げていただきたいと思います。
 
 円光寺が単なる風景ではなくお念仏のお仲間が生き生きと行きかうお寺になっていきたいと思います。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.7.10)

顔はその人の人生を物語る

2018-07-09
 今日は本当にさわやかな朝になりました。
ここちよい風がスーッとわたり青空がさわやかです。
 このたびの豪雨で被害に遭われた方も同じ青空の下で同じようにさわやかな風が吹いているところもあると思いますが
生活が一変し、大切な方を亡くされ家屋が土砂に埋まり水に浸かって途方に暮れている方々に心からお見舞い申し上げます。
 
 昨日は大海組内のお寺の前住さまが往生されてお参りさせていただきました。
悲報を聞いてすぐさま駆けつけ「ご愁傷さまです」「残念です」とお悔やみ申し上げます。
 悲しみに寄り添う、悲しみを同じくするということです。
「生前中は大変お世話になりました。ありがとうございました」とお礼を申し上げます。
 
 お参りしてご尊顔を拝見させていただきます。
92歳の老院さんですが、色つやが良く肌の張りもあってそれこそ眠ってらっしゃるようなお顔でした。
 
 顔はその人の人生を物語るといわれます。それぞれ顔は違います。人それぞれの人生です。
「いいお顔ですね」とつい声に出ました。お顔に善いとか悪いとかあるのではありません。
 その人のお顔その人の人生その人の生活営みそのお人柄はそれぞれ違います。
先に往かれたお方はこの命終えてその姿お顔を見ることはできなくなりますが
南無阿弥陀仏のおはたらき一つで阿弥陀さまのお浄土に生まれて仏さまに成らせていただき
この世に還って来て私たちを護り救うというおはたらきをしてくださるのだなと
また頼もしくそのご尊顔を拝することができるのも私たちのお念仏のご法義なのです。
 
 私たちの生活日々の営みはこれからも変わっていきます。
災害に遇って、本当に驚きをもって変わることもありますが
真実変わらぬ南無阿弥陀仏のおはたらきをいただいてお念仏を申すなかに
今日一日も確かに確かにお浄土への道すがらを共々に生かされて生きてまいりましょう。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.7.9)

大自然に生きる

2018-07-08
 大きな雨になって各地で大きな被害が出ています。
大雨特別警報という50年数十年に一度とか一生に一度あるかどうかの大雨という特別に緊急事態を知らせる警報です。 
 今回は大変な広範囲にわたりテレビの映像や新聞の写真を見ても本当に想像を絶するような大災害です。
 
 今朝の新聞には住宅街の多くのお家が水にすっぽり沈んでいるという写真がありました。
大自然の脅威をあらためて思い知らされます。
 
 私たち人間はこの地球に生きるなかで豊かで便利な生活を求めて幾多の文明をつくってきました。科学の力です。
科学技術の進歩は自然をも変えるような飛躍的な凄い力を発揮してきました。
 科学の力のおかげで豊かで便利な生活をき享受している私たちですが
この大自然の前にはなす術がないというのが今の状況です。
 
 自然に贖うといいます。科学は自然に抵抗し自然を克服していくところに発達してきました。
しかしこのたびの自然災害ということでも、どこまでいっても自然を克服することは難しいといういことですが
人間は決してあきらめません。どこまでも自然に挑み続けます。
 
 親鸞聖人はこの自然という言葉を使って阿弥陀さまの他力本願のおはたらきを自然法爾と私たちにお示しです。
自はおのずから然はしからしむといいます。
おのずからしからしむというのは抵抗するのではなくそのまままかせるといいます。
 
 今よく聞く言葉に共生という言葉があります。共に生きるといいます。
自然と喧嘩をするのではありません。喧嘩しても結局は負けてしまいます。
 だったら共生していきましょうと、共に生きていきましょうというのです。
 
 しかしここが中々難しい。というのが私がという私が邪魔するのです。
何がこれくらいこうしたらいいんだとどこまでも私がという力が次から次に湧いてきます。
 
 私たちのお念仏のみ教えです。
自然法爾と阿弥陀さまの大きな大きなおはたらきにまかせていくんだよと教えてくださいます。
 まかせるいって何もしないということではありません。
まかせていくなかに自然と共生していく、私にできる精いっぱいのことをさせていただくというのが
私たちお念仏の道を生きる者のあり方だといただきます。
 
 どうぞこれからもどんな自然災害に遭うかもわかりませんが
お念仏を申すなかに私にできることを精いっぱいさせていただきたいと思います。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.7.8)
円光寺
〒870-0108
大分県大分市三佐3丁目15番18号
TEL.097-527-6916
FAX.097-527-6949
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