布施の心でさせていただくありがとう!
昨日3月14日はホワイトデイということで
1か月前の2月14日のバレンタインデイでプレゼントを頂いた人がお返しをする日だったそうです。
バレンタインデイは女性から男性にチョコレートを贈るのが定番でしたが
今はそれぞれプレゼントの内容も違ってきたようです。
ただお返しをすることに変わりなくそれも数倍返しとかいって頭を悩ます人も多いと聞きます。
これは西洋から入ってきたもので日本に昔からあったものではありません。
西洋の社会はギブ&テイクの考え方が基本でこれは今の私たちの経済社会がそうなっています。
仕事や品物の対価として代金を払うということです。
分かりやすい考え方で私たち人間の理にあっています。
ただこの気持ちをお金や物で表すこと自体にちょっと不謹慎なことを思います。
また何倍返しというように見返りを求めたり期待したりということについては何かしっくりきません。
仏教では布施の心といいます。
この布施の心は見返りを求めないことが原則です。見返りを求めない一方的な行為なのです。
布施の布は布(ぬの)ということで遍(あまね)くという意味があります。
誰彼と限定した人を対象とするのではなくあらゆるものすべての人に施すということです。
布施行は菩薩道の第一番目の行で、仏さまのお慈悲の心なのです。
そこに私のはからいがあったら布施にはならないのです。
仏さまのお心もちのお手伝いをさせていただくことが布施の心です。
私たちの行為はどこかで見返りを期待しています。
善いことをしてあげたのにお礼の一つも返ってこない。
腹が立ちますね。せめてありがとうの一声ぐらいはと思ったりします。
布施の心は見返りを求めない一方通行です。
そして私にできることをさせていただくということが大事です。
仏さまは私にできないことを求めているのではありません。
私にできる精いっぱいのことをさせていただくことです。
お念仏に生かされる喜びを私一人のものにするのではなく隣の人にお念仏を勧めることも私たちの布施行です。
お念仏はお金や物品ではありません。
物でしたら例えば食べる物だったら三人で分けると三等分の物になります。
人数が増えればどんどん減ってきます。
ただお念仏は人に分けても減ったりしません。
そのまんま同じお念仏です。
お念仏を勧め伝えて、そのお念仏をいただいた者がまた隣の方にお念仏を伝えるということです。
まさにお念仏のおはたらきがそこに生きてあるのです。
人から人へと遍く広く広く伝わってそして私のところに届けられたお念仏が
私の口から出てくださるお念仏なのです。
遠い遠いはるか昔からお念仏を伝えてくださった方がいらっしゃっるというご縁です。
南無阿弥陀仏のおはたらき大きな大きな仏さまのご縁つながりのなかに
私にできる精いっぱいのことを今日も一日させていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.3.15)

何か一つできることをさせていただきましょう
東の空が日に日に早く明るくなってきました。今日から春の彼岸に入ります。
この年度末お寺の会議が続きます。
これからのお寺はどうあるべきか、お寺の厳しい現状を考えるとき
思うようにならない課題がたくさん出てまいります。
今朝起きてふとこの世のことはなるようにしかならないと思いました。
私がどんなに頑張っても頑張らなくてもなるようにしかならないというのがこの世の中の営みだということです。
ただこの世に私が生きているという現実です。
お寺の住職という我が身この私です。皆さんでいったら浄土真宗の門徒ということです。
お念仏のご縁をいただく私たちです
何か一つでも阿弥陀さまのご法義のお手伝いをさせていただくことがないかなと思って
今朝の新聞のコラムに「お寺おやつクラブ」の活動が書かれてありました。
奈良の30代の若いお坊さんが始めたことです。
私たちの目に見えないところで今日の生活に食事に困ってらっしゃる貧困のご家庭子どもたちがいるという現実です。
そういうお子さんにお菓子を届けようという活動です。
仏さまにあがったお供え物のお菓子です。お供え物のお下がりをおすそ分けするということです。
そのままにしていてももったいないことで
少しでもお手伝いにならないかと始めた活動が今全国各地のお寺さんに広がっているというのです。
私たちは何か大きなことを思ってこうしようああしようと考え何度も議論して
結局のところ構想だけが膨らみすぎてこんなことは到底できないねということで終わってしまうことが多々あります。
小さなことからできることってどこか身近にあるんですね。
最近はご法事のお供え物が減ってきました。
お葬式もそうですがご法事もコンパクトなものになって
親戚に案内することもなく家族だけお経だけというご法事が多くなりました。
ここは一つご門徒皆さんに呼びかけてみようと思います。
お供え物といってそんなに高価なものではありません。
仏事のご縁に仏さまにちょっと気持ちをお供えにしてお寺に届けていただけたらと思います。
そのことがそのまま名前も知らない子どもたちの何かの助けお手伝いになるといいなあと思います。
他にもいろんな取り組みがあると思います。ただ私にできることは限られています。
それこそなるようにしかならないことかもしれませんが
何か一つでもナンマンダブツとお念仏を申す私たちにできることをさせていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.3.18)

食品ロスの現場
ホテルで会食があって7,8人で丸テーブルを囲み大きなお皿に食べ物が次から次に出てきます。
そばに小皿が置いてあります。自分で好きなものを好きなだけとってくださいということですが
次から次にとなると前の食べ物の大皿が残って次の大皿を置くところがなくなります。
そこは係の方が小さなお皿につぎ分けて次の大皿をもってくるのですが、この前は最後にチャーハンがでました。
テーブルの人は他のテーブルにお酒をつぎに行ったりして殆どそのチャーハンを取る人がいません。
次にデザートがでます。チャーハンとデザートの大皿が並びます。
デザートには人数分のケーキがのっています。そしてコーヒーがでました。
さすがにコーヒーは大きなポットに入っているのではなく一人一人カップにつぎ分けられたものです。
コーヒーを口にする人はいますが、ケーキを取る人は殆どいません。
テーブルには大きなお皿のチャーハンとケーキそしてつぎ分けられた数多くの小皿が残ります。
さてこの残った食べ物の行方はどうなるのでしょうか。
多分残飯ということで捨てられてしまうのではないでしょうか。
食品ロスといわれますが、私たちの身近なところに食品ロスはたくさんあります。
昭和30年代の家庭の食事の風景がテレビドラマで再現されます。
ちゃぶ台一つを囲みお皿に盛られた食べ物を家族がつついて食べるものです。
ご飯とお汁ものに主な食べ物は一品二品といったもので、子どもたちはそれを争うように取って食べていました。
今の大皿を囲む食卓とは似ているようで全く違います。
それこそ一粒のご飯も残さないようにみんなきれいに食べあげていました。
本当に今はもったいないことをしていることだと思います。
私もその中の一人ですが、何でこんなことになるのかなと思ったりします。
つぎ分けたらつぎ分けたものだったら食べるかもしれませんね。
でも自分からつぐ取るということは中々しません。誰かがしてくれるものとでも思っているのでしょうか。
これが今の日本の食生活の実態です。
飽食の時代と言われて随分久しいことですが
そのなかで今日のご飯をいただけないという方がたくさんいらっしゃるということです。
貧困のなかにあって声を上げることもできない方々です。
何か変だなというなかに今日も生活をしています。
ナンマンダブツとお念仏を申す、お念仏のみ教えを聞かせていただくことは
この食品ロスのことと全く関係ないということではありません。
阿弥陀さまの大きな大きなお慈悲のお心南無阿弥陀仏のおはたらきは
私一人に届けられたものではなく私の隣の人も隣の人も
名前も知らない顔も見えない人もみんな共々に救われていくというみ教えです。
日々の生活のなかでナンマンダブツとお念仏を申させていただきながら
こんなことでいいのかなこんなことでいいのかなと問われ聞かせていただくことです。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.3.14)

お浄土からのおはたらき
お仏壇のお荘厳をします。
皆さんのお家のお仏壇やお寺の本堂お内陣のお荘厳ですが、お仏壇は阿弥陀さまのお浄土を表すものです。
阿弥陀さまの「必ず救うまかせよ」の南無阿弥陀仏のおはたらきをすがたかたちとして私たちに見せてくださいます。
真ん真ん中にご本尊の仏さま阿弥陀如来さまのおすがたをご安置させていただきます。
まさに阿弥陀さまのお浄土です。
今日のご和讃に「十方無量の諸仏」とありました。
この目には見えませんが、お浄土には私たちのご先祖有縁のお念仏の先人が
諸仏すなわち仏さまとなっていらっしゃるということなのです。
南無阿弥陀仏のおはたらきとなって阿弥陀さまのお手伝いをしてくださってあるのです。
私たちにお念仏を申してくれよお念仏を申してお浄土に生まれて来いよ必ず生まれさせるという力強いおはたらきです。
ナンマンダブツナンマンダブツとお念仏を申すところに阿弥陀さまをはじめ諸仏方がいらっしゃるというおはたらきを
お仏壇のお荘厳を通して毎日仰いで日暮しさせていただくことです。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.3.13)

高校三年生をおくる会をしました。
この前の日曜日に高校三年生をおくる会をしました。
小学生の子ども会水曜学校の頃からお寺にご縁があった高校生です。
今度卒業してそれぞれ進路が違います、大きな人生の節目にあってお寺に集まり
一緒にお勤めをし仏さまにお礼をさせていただきました。
小学校を卒業してからも中学高校とずっと夏のサマースクールや11月の子ども報恩講に
主なスタッフとしてお手伝いいただき子ども会活動を大いに盛り上げてくれました。
特に人形劇は子どもたちに大変喜ばれました。
中学高校になると友だち関係も広がり部活や勉強で個々の時間が忙しくなってお寺から遠く離れていくのが通例ですが
逆にお寺という場所にみんなが気持ちをもって集まり協力して活動することで
お寺との関係が益々深くなっていったように思います。
本当に有難いご縁です。有ること難しです。
青春真っ只中のこの時期にこうしてお寺とのご縁ができたということは
これからの人生の道行きのなかでも本当に貴重なことだと思います。
これからがまた楽しみです。
仏さまのご縁です。このご縁に遇うことの難しさです。
若い時からご縁に遇う人もいればいよいよいいお歳になってご縁に遇う人の方が多いと思います。
ただ仏さまのご縁に遇わずじまいに人生を終える方が殆どだということです。
早くからご縁に遇っていればと思い返すこともありますが
仏さまのご縁は今こここのご縁なのです。
今の皆さんです。今ご縁に遇っているということです。
そのこと一つ大事にしてこれからも仏さまのご縁をいっぱいいっぱいいただいてまいりましょう。
生まれ難い人間に生まれて仏さまのご縁をいただいてお念仏申す身にさせていただきました。
仏さまのご縁は私一人だけのご縁ではなく私たちみんなのご縁です。
大きな大きな南無阿弥陀仏のいのちのつながりのなかに共々に生かされて生きてあることの有難さ尊さを思います。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.3.12)
