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お念仏を申す生活法話

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お念仏申して歳をとってまいりましょう

 焼酎やウイスキーなどのお酒は熟成ものが美味しいと重宝されます。
果物でも熟す頃をみて収穫しますし、肉も少しねかせて熟成するとまた格別な味が楽しめるといわれます。
 熟すと美味しいということですが、ただ時間をかけたらいいものでもありません。
熟し過ぎると腐ってしまいます。
 
 私たちも歳を重ねていけばいくほど熟成して円熟味が出てくるといいですね。
ただこれが中々うまくいかないのです。
 人間歳をとったら丸くなるのではなく何か逆に角がどんどんとがってくる感じさえあります。
 
 人から見たらいいおじいちゃんいいおばあちゃんという見方もあるかもしれませんが
我が身我が心を仏法に聞かせていただく、仏さまの鏡に写させていただくととんでもない私がいるということです。
 阿弥陀さまはこうした私を知らせたうえで決して見捨てることがない見放すことがない仏さまになってくださったのです。いつでもどこでもどんな状況にあっても「あなたと共にいるよ」といつも私に寄り添いご一緒してくださるのです。
 
 放っておけないという親心です。
放っておいたら何をしでかすかわからない私がいるということです。
 どんなに世間から人から鬼のようなという見方をされても
「私は決してあなた一人を見捨てることなく護っていく」とおはたらきくださってあるのです。
 
 私が私がと自ら円熟しようと思ったらそれはかないません。私の思いあがりです。
円熟しようと思えば思うほど欲の心が膨らみどこかに棘がでてきます、角がたちます。
 
 南無阿弥陀仏のおはたらきにまかせなさいと阿弥陀さまはお喚びかけです。
阿弥陀さまの御仏前に身を置きましょう。
 ただ日々の生活のなかでいつも御仏前に居るわけにはいきません。
だからこそ南無阿弥陀仏と阿弥陀さまが付いてきてくれるのです。
 
 今日の日々の生活です。
ナンマンダブツナンマンダブツとお念仏申すなかに日暮しをさせていただきましょう。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.4.9)

僧衣をつけて選挙に行きます

 昨日は花まつりの会が賑々しくできました。
たくさんの方にお参りいただき2回目のコンサートもできました。
ご門徒皆さんが思いを寄せてご一緒に仏さまのご縁に遇わせていただけることを本当に頼もしく有難く思います。
 
 春四月の日曜日です。
昨日は各地でいろんな行事が催され天気にも恵まれてお花見を楽しまれる方も多かったようです。
花まつりの後片付けをして私もお花見に出かけましたが、その前に選挙に行きました。
 
 いつもの選挙でしたら日曜日のご法事などお参りの前に選挙に行きます。僧衣での投票です。
選挙はこの国この県この市に生きる私たちの民意の最大の行使の場でありとても大事な事柄です。
 選挙ですから選ぶのです。
身近な選挙になれば日頃の人間関係が特に影響しますが、決して誰でもいいということではありません。
そこで選ぶ基準を改めて確認することにもなります。国政に対する視点であり自ら生きる立ち位置です。
 敢えて僧衣をつけて選挙に行くのは私の生きる原点を見直すということでもあります。
 
 選挙は私たちの民意を議員さんに託すというこれほど大事なことはないといっても過言ではありません。
今朝の新聞一面の大見出しに「投票率50%を割る」とありました。大分市は44%といいます。
二人のうち一人は投票に行っていないということです。
若い人がとすぐ言いますが、いい年輩の方も選挙に行かない方が多いのではないでしょうか。
 選挙に行かない人の大方の意見は「誰がなっても変わらないから」ということです。
そうでしょうか。逆に誰がなってもいいのでしょうか。
 
 お花見に行った平和公園はすごい人盛りでした。
町の繁華街を歩いているような感じでしたし、バーベキューをしたりして大勢の方がお花見を楽しんでいました。
この中の何人が選挙に行ったのか行かなかったのか、そんなことをちょっと思いました。
 
 仏教は縁起の教えといいます。ご縁つながりです。
私たちはあらゆるもののいのちのつながりのなかに生かされ生きているという根本の教えです。
 この世の中で関係ないものは一つもないという教えです。
今までに会ったこともない人もどの国の人ともみんなつながっているというのです。
善くも悪くもお互いに関係し合って生きている私たちお互いなのです。
みんないのちつながって私たちのこの社会がある、私の日々の生活があるということです。
 
 誰がなっても変わらない同じではありません。
私にできることといったら選挙に行くことです。
 選挙もまた仏さまのご縁です。あらためて仏さまのみ教えに聞かせていただきます。
仏さまのお心にかなうような生き方ができているのか自らを振り返りつつ
僧衣をつけて選挙に行きます。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.4.8)

玉が入って鈴が鳴る〜源左さんのことばから〜

 一昨日昨日に続いて因幡の源左さんの言葉を紹介します。
「鈴でも 玉が入りゃ鳴るけっど 入ってらんと鳴らんけんのう」
これは源左さんが息子のお嫁さんに言われた言葉と伝えられています。
 
 私たちが申すお念仏です。
お念仏申しなさいと言われて申すお念仏ではありません。
お念仏申したら善いことがあるとばかりに何かご利益を求めて申すお念仏でもありません。
 
 南無阿弥陀仏の真実まことのお心を聞かせていただき
ご信心をいただいてこの口からお念仏が出てくださるのです。
 
 鈴です。玉が入っていなかったら鈴は鳴りません。
玉が入っているからこそ鈴は鳴るのです。
 ご信心をいただいているからこそお念仏が出てくださるのです。
私が私がと私の都合で申す念仏ではなく阿弥陀さまのおはたらきが確かに確かに私に届いてくださってあるということです。
 
 風鈴です。風鈴は風が吹いて鳴ります。
この風こそが阿弥陀さまのおはたらきです。
風は私のこの目には見えませんが確かに確かに吹いてはたらいて鈴を鳴らすのです。
ただそこに玉が入って風鈴が鳴ります。
 
 激しく吹く大きな風のときは大きなお念仏となるのでしょうか。
そよそよと吹く風のときにはナンマンダブツとこぼれるようなお念仏になるのでしょうか。
 激しい風が吹くときとはどういう状況の私なのでしょうか。
大きく心が揺り動かされ怒り腹立つ私のことを決して見放すことなく
南無阿弥陀仏とはたらいてしっかり支えてくださるのです。
 
 ご信心をいただくことの一大事を源左さんは知らせてご信心をお勧めです。
玉が入って鈴が鳴るとの肝要をわが身に引き当てて聞かせていただきましょう。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.4.7)

「おらが死んだら親さまたのめ」〜源左さんのお話〜

 昨日のお話で妙好人・源左さんのことばを紹介しました。
源左さんは本名足利喜三郎、出雲の国今の鳥取県の方で、江戸時代末期から昭和初期にかけて89歳のご生涯でした。
 
 18歳の時にお父さんが急逝します。臨終の時に「おらが死んだら親さまたのめ」と言われたそうです。
死ぬということ、親さま、たのむとはどういうことかと、源左さんの求道聞法が始まります。
取り次ぎ寺(所属寺)の願正寺にご縁ご縁に何度もお参りしお聴聞を重ね、ご院家さんに膝詰めで聞いたそうです。
 
 親さまとは阿弥陀さまのことで、阿弥陀さまの念仏一つの救いの法にまかせよと聞いて
源左さんはすーっといただけなかったといいます。
 
 そして29歳の夏の朝のこと、いつものようにデン(牛)を連れて草刈りに行きます。
草を刈り束にしてデンに背負わせて家に戻るのですが
一束二束とデンに背負わせ次に草束を担がせようとした時に「ふっとわからせてもろうた」といいます。
 
 この草束は源左さんの業、私たち一人一人がもっている
誰にも代わってもらうことができない自ら生涯背負っていかなければならないものです。
煩悩の心であり私たちの苦しみ悩み迷いの本です。
 この草束をそのまま背負うデンに阿弥陀さまの必ず救うてくださるおはたらきを知らせていただいたのです。
私の苦しみ悩みをそのまま背負うてくださる阿弥陀さまです。
 その草をデンが食べて生きるように、この私を救うことが阿弥陀さまのお仕事おはたらきといただかれたのです。
 
 ふっとわからせてもろうたといいます。
私たちは私が私がと自分のところに力を入れて生きています。
人に頼み事はしない自分のことは自分でやると自分でしっかり生きていくことが立派な生き方とばかりに生きています。
 
 その志は本当に尊いことです。
ただね、どんなに頑張っても頑張っても頑張れないことってあるんですね。
生死の苦悩です。人生は苦なりと、自分の思い通りにはならないのです。
 
 苦しみ悩み迷いの中にある私を阿弥陀さまはもうすでにご承知でこの私をそのまま背負ってくださっている
おはたらきが南無阿弥陀仏なのです。
 
 阿弥陀さまの大きな大きなお慈悲のおはたらきを源左さんは口ぐせのように
「ようこそようこそ南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」とお念仏申しよろこんで89歳のご生涯を生き抜かれたのです。
 
 そのお念仏が子や孫に隣の有縁の方に伝わって、こうして私のところに届けられているのです。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.4.6)

ニセモノとホンモノ

 振り込め詐欺の事件が後を絶ちません。次から次と新手の詐欺がでてきます。
誰しも詐欺に引っかかりたくないですよね。
 詐欺に遭うとはニセモノをつかまされるということです。
では詐欺に遭わない対処法はというと常日頃からホンモノに親しんでおくということでしょう。
 
 浄土真宗は真実まことの宗教といいます。
歎異抄に「煩悩具足の凡夫 火宅無常の世界は よろづのこと みなもつてそらごとたわごと まことあることなきに
ただ念仏のみぞまことにておはします」という御文があります。
 「ただ念仏のみぞまこと」です。
念仏だけがホンモノだということは、他の世間の事柄はみんなニセモノということになります。
実はこの私もニセモノと聞かせていただきます。
 
 ニセモノなんて言われたくないし、私はホンモノのこの私を生きていると思っているのではないでしょうか。
仏さまはこの私を煩悩具足の凡夫と教えてくださいます。
これも素直に「はいそうです」とは頷けません。
 
 お念仏をよろこばれた妙好人の因幡(現鳥取県)の足利源左同行のことばに
「偽(にせ)になったらもうええだ。なかなか偽になれんでのう」とあります。
ある時「このわしゃ偽同行で、寺に参れば阿弥陀さんの前へ出て、念仏喜ばせてもらうけんど
家に帰ってくると忘れてしもうて全くわしゃ偽同行だいなあ」というある人のことばに対してだそうです。
 
 偽も偽、これほどのニセモノはないのに、何かホンモノ面して自分はホンモノで
他の周りの言うことを聞かないものは全てニセモノとはからい決めつけて生きている驕り高ぶる愚かな私を
阿弥陀さまがニセモノと知らせてくださるのです。
 
 「偽になったらもうええだ」とニセモノと知らせてくださるところに
真実まことの南無阿弥陀仏の仏さまがいらっしゃるのです。
 仏さまに遇わせていただいてニセモノの私が知らされそのまんま必ず救われていくこの身を喜ばれたということです。
 
 常日頃からホンモノに親しんでおくことが肝要です。
真実まことのお念仏のみ教えを聞かせていただきましょう。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.4.5)
円光寺
〒870-0108
大分県大分市三佐3丁目15番18号
TEL.097-527-6916
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