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お念仏を申す生活法話

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瞬く間に過ぎゆく日々のなかでお念仏申す

2018-08-20
 この数日涼しくなりました。自然の風が本当に心地よくさわやかです。
瞬く間に時が過ぎ行くといいますが、あの熱風のなかのお盆参りが終わって5日経ち、何か遠い日のような感じさえします。
 
 私たちの人生も振り返ってみれば瞬く間に過ぎ去ってしまうような思いにもなります。
 
 昨日お葬式がありました。一昨日の朝お亡くなりになられた方です。
今は亡くなってその晩はお家で過ごし次の日に葬儀社でお通夜そして明けてお葬式と三日間での一連の葬儀の流れですが
このたびは二日間でのお通夜とお葬式でした。
 
 家族そして親族だけでのお葬式ということでした。
葬儀社でしなくてお家でもできるお葬式ですが
今はお葬儀をお家ですること自体が考えられていないということかもしれません。
 お葬儀を葬儀社ですることでご近所の方に迷惑をかけたくないという配慮かもしれません。
 
 お葬式が済んで七日七日のご縁が始まります。
振り返ってみればこの人生は瞬く間に終わるということですが
死んだらお終いではなく仏さまのご縁がこれから始まるということです。
 
 人と人、とりわけ大切な人とのお別れはこれほどの悲しみはないと言われる以上の悲しいご縁です。
お釈迦さまは愛別離苦と説かれこれほど思い通りにならない悲しみはないと教えてくださいます。
その深い悲しみに沈む私たちを見て取って阿弥陀さまは「必ず救うまかせよ」と南無阿弥陀仏とおはたらきです。
 悲しみのご縁ですがそのまま仏さまのご縁といただける有難さを思います。
 
 先に往かれた方は今はお浄土の仏さまと成って阿弥陀さまのおはたらきのお手伝いをしてくださり
七日七日のご縁に始まる仏さまのご縁を通して
ご縁いただけよご縁いただけよ、お念仏申せよお念仏申せよと私たちにおはたらきなのです。
 
 人の命は終わりますが、先に往かれた方は仏さまのいのちとなってこれからもずっと私たちと共に生きてくださるのです。
大きな大きな南無阿弥陀仏のいのちのつながりのなかに共々に生かされて生きてあると聞かせていただきますと
今日のいのちの有難さ尊さが大きく大きく広がっていくように思われます。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.8.20)

甲子園には魔物がすむ

2018-08-19
 夏の高校野球甲子園大会も昨日でベスト4が出そろい
今日は日曜日ですが、選手の故障防止のための休養日ということで、明日が準決勝明後日が決勝ということです。
 
 昨日の準々決勝の最終試合、滋賀の近江高校と秋田の金足農高の対戦で、最終回の9回裏最後の場面です。
ノーアウト満塁からツーランスクイズを決めて金足農高が逆転サヨナラ勝ちしました。
すごいドラマというか、これが高校野球だなと思ったりします。
 近江高校の監督が「私も選手もちょっと球場の雰囲気にのまれました」と言っていました。
甲子園には判官びいきといって、劣勢のチームを応援する観客の心理があります。
だからでしょうか、9回の攻防のドラマがこれまで何度も生まれてきました。
 
 甲子園には魔物がすんでいるといわれます。魔物といっても魔物それ自体を見た人は一人もいません。
ただこの魔物の一つの正体が球場全体がかもし出す何ともいえない雰囲気ではないでしょうか。
それを重圧に感じるか、味方にするかで大きく戦況が変わってきます。
球場全体の雰囲気を味方につけることが勝利の鉄則にもなってきます。
 
 ただこれは選手個々のパフォーマンスで一朝一夕にできるものではなく
常日頃からの練習で培われたチームの力が観客に訴えるものではないでしょうか。
 近江高校の選手にはちょっと気の毒だったと思いますが
金足農高も強豪校でかつてあのKKコンビのPL学園と準決勝で対戦し終盤逆転負けしたという実績があるのです。
大事なところで三振をとれる頼りになるエースを中心によくまとまったチームで
勝って校歌斉唱のときチーム全員が体をそらせて声いっぱい歌う姿が観客を引きつける一つの要因になっています。
 
 私たちの人世にも魔物がすんでいると思います。
それこそこんなはずじゃなかったと自分の思い通りにならない時にそんなことを思うことってありませんか。
 人世には魔物がすむが、ただ仏法の世界では魔物までもがお念仏を護るというんです。
仏法の世界は魔物とかそういうものを超えているということです。
 
 魔物がすむって野球のことでもそうですが、やはり私のあり様なのです。
自分中心に執着する心、はからいが邪魔をするんですね。
勝負でいったら勝とう勝とうと力が入ることが邪魔をするということではないでしょうか。
 
 そのはからいを超えたところに私たちが目指す世界があるということ
すべてのもの魔物といわれるものまでがお念仏の人を護ってくださるというのがこのお念仏の世界です。
 
 阿弥陀さまのお救いは悪人正機、悪人をこそ目当てに救うとおはたらきです。
その悪人こそこの私であると聞かせていただきます。
 実はお念仏の世界には善人も悪人もないんですね。
私この一人を必ず救うとすっとお立ちの阿弥陀さま、南無阿弥陀仏のおはたらきをまた讃嘆させていただきます。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.8.19)

南無阿弥陀仏のいのちの物語

2018-08-18
 NHK連続テレビ小説『半分、青い。』のドラマの中のことです。
おじいちゃんの仙吉さんが亡くなってひ孫の花野ちゃんが最期をみとります。
死ぬということがあまりわからない花野ちゃんですが、段々と時間が経つにつれ
いつもそばにいたおじいちゃんちゃんがいなくなった寂しさのなかでお母さんの鈴愛さんに
「おじいちゃんは今どこにいるの、どこにいったの」と聞きます。
鈴愛さんは「天国かな、空の星になったのかな」とつぶやきながら「私はまだ死んでないからわからない」と
そして「でもね、これは当たり前のことなんだよ」とこたえます。
 
 当たり前って何でしょうかね。人がこの世に生まれて生きてそして死んでいく
それは当たり前、みんなそうなんだよということでしょう。
 そして死ぬというのはそんなに恐いことではないんだよと言って
おじいちゃんはこれからもずっと花野ちゃんの心の中にいて
いつも花野ちゃんのことを思い見守っていてくれるんだよとお話されました。
 
 皆さんはお孫さんから「死んだらどうなるの?」と聞かれたらどうこたえますか。
それは私自身の問いでもあり、問題でもあります。
 死んだことがないからわからない。そうです、私の経験や知識というところではどこまでいってもわかりません。
ここに仏教という仏さまの教えを聞かせていただくご縁があるのです。
 
 仏教は縁起の教えを説きますす。縁起というのはつながり、いのちのつながりです。
それも私目線で見るいのちのつながりではありません。
私目線のつながりでしたら、この人とはつながっていこう
否この人とはつながりたくないという執着、自分中心のはからいが入ってきます。
 
 阿弥陀さま目線のつながりです。
南無阿弥陀仏のいのちのつながりの物語と聞かせていただきます。
 今日も何度も何度もナンマンダブツナンマンダブツとお念仏を申すことができました。
お念仏のつながりのなかに私たちはつながってある生かされてあるということです。
それは肉親、親子兄弟夫婦といった関係を超え人と人とのつながりも超えて
生きとし生けるものすべてがつながってあると聞かせていただきます。
 阿弥陀さまがそうしたいのちのつながりを私たちにつくってくださったということです。
それは生きている今だけではなくて亡くなっていくこの命をそのまま
確かに確かに私の国に生まれさせるというおはたらき一つなのです。
 
 南無阿弥陀仏のおはたらきお念仏一つで救われていくんだよと
どこに? 阿弥陀さまのお浄土だよと
お浄土に往ったらどうなるの? それはね、阿弥陀さまと同じおはたらきの仏さまに成るんだよと
どんな仏さまなの? 南無阿弥陀仏のおはたらきの仏さまだよと
そして南無阿弥陀仏のおはたらき一つでそのまま南無阿弥陀仏と私のところに還って来るんだよと
えっどこに? ナンマンダブツとお念仏申してごらん。
ナンマンダブツナンマンダブツ! お念仏申すところにもうすでに還って来てるんだよ。
 
 いつでもどこでも私のことを思い心配して、南無阿弥陀仏のいのちの仏さまと成って私と共にこれからも生きてくださり
この私の命終えた時にそのまんま阿弥陀さまのお浄土に南無阿弥陀仏のおはたらき一つでご一緒してくださるんだよと
聞かせていただきます。
 南無阿弥陀仏の大きな大きないのちのおはたらきつながりのなかで
私たちは今こここの私を生きているのです。
 先に往かれた仏さまのご縁に南無阿弥陀仏のいのちの物語を聞かせていただき
仏さまの御恩に感謝してナンマンダブツと御礼のお念仏を申させていただく有難さをまた思います。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.8.18)

京都大文字五山の送り火

2018-08-17
 昨日8月16日の夜京都では大文字五山の送り火という行事が行われました。
京都の夏を彩る風物詩で、テレビの実況生中継を観ました。
 五山という五つの山に送り火の文字が浮かぶということですが
そのなかでも大文字が有名でテレビ等では大文字の大という文字しか見たことがありませんでした。
 
 五山ですから五つです。東山の「大」の文字に続き
北の山に「妙法」の文字が浮かびます。妙なる法ということで仏法のことです。
そして西の山に移り「舟形」といって船の形をした絵のすがたが浮かびました。
次に「左大文字」最後に「鳥居形」です。
 
 興味深く面白かったです。これはいつの時代から始まりどういう意味があるのかなど
今はネットですぐ検索できますが、一つの物語を思い浮かべてみました。
 
 お盆にはご先祖がこの世にかえってきて、お盆の期間を終えてまたあの世にかえっていくと言い伝えられています。
ご先祖皆さんが大きな船に乗ってかえっていき鳥居をくぐってもとの世界にかえるようすを
この目で見える形で文字に絵にしてみんなで見送る風習なのでしょう。
 
 鳥居は神社で私たちが住むこの世(俗界)とあの世を区別する結界です。
神の国日本に伝来した仏教が発展するなかで神仏習合という独特な宗教の形態が生まれます。
お寺とお宮が一緒になった神宮寺です。
近くには九六位山のお寺さんがそうです。鳥居をくぐってお寺の本堂があります。
天台宗か真言宗のお寺で平安時代のお寺です。
 京都は平安京という都があった平安時代の中心です。
平安時代の仏教は京都比叡山を中心にした仏教で、親鸞聖人も比叡山で20年間ご修行されて山をおりられました。
 
 その神仏習合の名残りかいうか、この世とあの世を結ぶ門からご先祖を見送るということです。
 
 ここで大事なことは妙法です。
ご先祖がこの世にかえってくるというのもあの世にかえっていくというのも
妙法という仏さまの教えのなかにあるということです。
 そして先に往かれた方とそれを見送る今を生きている私たちが妙法のなかにつながってあるということです。
仏さまのみ教えです。私たちでいったらお念仏のなかにみんなつながってあるということです。
 
 テレビのゲストの方が「お盆というのはご先祖のことを思うことである」という話をされていました。
五山の送り火を見て、若くして亡くなった友人のことを思いましたと言われました。
 
 お盆というご縁で先に往かれた方のことを思うのです。
いつでも思うことはできるのですが、私たちはいつもは自分のことで精いっぱい生きることで精いっぱいで
いつもその方のことを思って生きることはできません。
 ただこのお盆のご縁、お彼岸でもその方のお命日でもそうですが、その方のことを思うのです。
思うなかに実は仏さまから思われているとことに気づかせていただけるのです。
 私たちの思いはどこまでも自分の都合に合わせてということですが
仏さまは大きなお心でいつでもどこでも私のことを思ってくださってあるのです。
 仏法という大きな大きな仏さまのお心おはたらきのなかに私たちは生かされているのです。
 
 五山の送り火は東の山から西の山へと移ります。
西の国阿弥陀さまのお浄土に思いをはせます。 
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.8.17)

スーパーボランテイア

2018-08-16
 お盆の三が日が終わりお寺の恒例の行事も済んでほっと一段落ということです。
 
 昨日山口で行方不明になっていた2歳の子どもさんが保護されたというニュースで
大分県のボランテイアの方が発見したということが大きな話題になっています。
 78歳のとてもお元気な方でその人となりが少し報道されていますが
65歳で仕事をやめてそれからずっと世のため人のために尽くしたいとボランテイア活動を行っているとのことです。
それも筋金入りのボランテイアで今回のような捜索ボランテイアということも初めて聞くようなことですが
東日本大震災とかこの前の西日本豪雨災害とかにも何度も何度も足を運んで活動している様子が映像に残っています。
 
 世のため人のためと軽く口にしますが、その実践はとても難しいことです。
世のため人のためという前にまず私なんです。まず私のことが最優先です。
私のことで精いっぱい、生きることで精いっぱいの私たちというのがその実態です。
 年を重ねるほどに自分の保身ということを考え、ささやかでいいから安定した余生を送りたいと願うのが私たちです。
そういう私の有り様を思いますし、それはそれでいいと思います。
 
 ただ今回のことでこういう方がそれも身近にいらっしゃることに深い感銘を受けます。
私も今65歳で、何か世のため人のためにしていることがあるのかと反省しますし
お寺にご縁をいただくなかにそんなお手伝いができたらなということも少し考えます。
 この世の中いろんな人生いろんな人それぞれの生き方があるんだなと思います。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.8.16)
円光寺
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