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お念仏を申す生活法話

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お寺のことはすべて仏さまのご縁です

 雨あがりの桜の若葉が春の光に輝いています。
昨日は定例の総代世話人会と円光寺長期振興計画の委員会を併せて行い多くのご門徒衆にお参りいただきました。
 
 お寺の会はすべてが仏さまのご縁です。
会の始めに御仏前で皆さん一緒にお勤めをさせていただきます。
そして会の終わりには恩徳讃を唱和するということで
お念仏で始まりお念仏で終わらせていただく仏さまのご縁なのです。
 
 会議の後で懇親会をしました。
お酒も入り皆さんと話も弾んで和やかな時間をご一緒できました。
 最後の後片付けまでしてくださって本堂から皆さんをお見送りしましたが
「仏さまにまいって帰ろう」と御仏前に座って手を合わせお念仏お礼をするお姿に接し有難く思いました。
中々できないことです。しなさいと言われてもできないことです。
 こちらが何も言うことではなくその人の身に付いたことで美しいなあと思います。
自然に身に付くというのは難しいことがそのままできる有難さです。
 
 それもこれも南無阿弥陀仏のおはたらき阿弥陀さまのお育てがあってのことだといただきます。
皆さんが今日こうしてこの時間にその席に座ってご一緒にお勤めができお念仏を申してお礼ができたということです。
 最初は私がという気持ちをもってということでしょうが
今はどのこと一つとっても私がということではなく
自ずからこの身にできるということさせていただくということです。
 南無阿弥陀仏のおはたらきがこの身に満ち満ちでこの口からお念仏がでてくださると有難くいただきます。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.4.15)

お札の顔が変わります

 お金の紙幣(日本銀行券)の顔が5年後に変わるということです。
一万円札の顔は今は福沢諭吉ですが40年ぶりに渋沢栄一になるといいます。
 日本の資本主義の父と言われる方で今の日本経済の基礎をつくられました。
 
 福沢諭吉は大分県中津市の出身で一万円札の新しい顔になった時
中津で一万円札せんべいが売り出されて話題になりました。
 慶応大学の創立者で「学問のススメ」を書き西洋の学問を積極的に取り入れ
日本の教育文化界に大きな足跡を残されました。
 
 その前の一万円札の顔は聖徳太子でした。
1958年の発行ということで戦後生まれの私たちも知っています。
一万円といえば聖徳太子、聖徳太子といえば一万円でした。
 日本の紙幣は明治以降につくられたもので戦前までは紙幣の顔は古代の偉人が多かったのですが
戦後の紙幣といえば古いところで板垣退助、大隈重信、伊藤博文といった明治の賢人の顔を思い出します。
 
 そうしたなかで歴史的にはかなり古い時代の聖徳太子がすっかり紙幣の顔になっていました。
今思えば何で聖徳太子なのかということですが
日本の国全体に聖徳太子を受け入れるような素地があったように思います。
 
 聖徳太子は仏教に縁が深く、浄土真宗のお寺のお内陣には聖徳太子さまの絵象をご安置しています。
そのお顔は一万円札のお顔とは別人のように違いますが
何でお寺に聖徳太子さまなのかというと
親鸞聖人は聖徳太子さまを和国の教主日本のお釈迦さまとずっとお慕いしていらっしゃったということです。
 
 仏教を崇め日本の国に仏教を取り入れ広く弘めてくださったお方なのです。
摂政という政治の中心にあって日本で初めての憲法「十七条の憲法」を制定され世の中を治めました。
 
 十七条の憲法には「篤く三宝を敬え」と仏法僧の三宝に帰依することを勧め
有名な「和をもって貴しとなす」という言葉があります。
 十七条の憲法は仏教の精神仏さまのお心に貫かれたものなのです。
 
 和の国日本です。今度の新元号「令和」にも和の字が入っていますし「昭和」の和でもあります。
和とは仏さまのお心、我他彼此善悪浄穢といった私たちのはからいを超えた仏さまの大きなお慈悲のお心です。
 どこまでも私が私がと自分を中心に生きる私たちです。
自他共に心豊かに生きることから程遠い生活ぶりですが
だからこそ仏法を依りどころにして仏法に聞いて生きてまいりましょうというのが
聖徳太子さまのお心お釈迦さまのお心だといただきます。
 
 聖徳太子の一万円は当時の庶民の財布には本当に縁遠いものでした。
だからこその尊い有難いご縁なんだと重ねて仏さまの教えを聞かせていただきましょう。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.4.13)

阿弥陀さまは言葉になった仏さまです

 失言を繰り返してきた大臣が辞任されました。
今の政権の一翼を担う有力大臣、この方も失言癖が多いのですが
この方が失言を指摘されるたびに決まって「ある部分だけ切り取るのではなく、前後の文章をよく読んでください」と
逆に質問した記者に全体の文章をよく読んだら真意がわかるはずだと反論します。
 
 政治家は言葉が命といいます。
言葉でもって自らの政治ビジョンを語りより多くの人に伝え賛同を得ていくということで
その発言にはとても大きな意味と責任があります。
 たとえある部分だけ切り取られたとしてもその発言は嘘かといったら本当です。
ただ自分の思いが伝わらないというもどかしさは確かにあると思います。
 
 宗教も言葉が命です。
キリスト教は聖書、イスラム教はコーランそして仏教は経典と
言葉によって教えは説かれ伝えられてきたのです。
 
 なかでも私たちの仏教浄土真宗は言葉になってくださった阿弥陀さまの教えです。
その言葉が南無阿弥陀仏なのです。
 
 今日の御文章さまのなかにも「南無阿弥陀仏の六つの字のいわれをよく聞き開きぬれば」とありました。
南無阿弥陀仏の六字に込められた阿弥陀さまのお心おはたらきを聞くことが肝要だというのです。
 聞其名号、其の名号を聞きて信心歓喜すといいます。
信心喜ぶ身にさせていただくということです。
 
 「必ず救うまかせよ」の南無阿弥陀仏のお心をそのまま聞けよとの仰せですが、これが中々難しい。
聞くなかに次から次と私のはからい疑い心が入ってきます。
 だからこそ聞かせていただく、お聴聞一つだよとお念仏の先人が私たちに勧めてくださるのです。
 
 ナンマンダブツナンマンダブツとお念仏申すその声は阿弥陀さまのお喚び声だと聞かせていただくのです。
阿弥陀さまはもう既に私の声となって私のところに来てくださって「必ず救うまかせよ」と今ここにおはたらきなのです。
 阿弥陀さまは言葉になった仏さまです。
南無阿弥陀仏となっていつでもどこでも私と共に生きてくださる仏さまです。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.4.12)

最期に「ありがとうございました」とお礼を申して見送りたいです

 著名人が亡くなると、葬儀は近親者で行う行ったということが多くなりました。
それぞれ事情があることだと思いますが、何か寂しい気がします。
 
 昨日も一世を風靡した有名な芸能人が亡くなったという報道で
テレビのキャスターが「大変お世話になったからお礼が言いたいけれども今は殆ど密葬だからね」とポツリ言われました。
 密葬です。密かに葬儀を済ませる、今でいう家族葬という葬儀のあり方です。
家族身内だけで最期のお見送りをするということですが
これまでの人生を自分一人で家族だけで生きてきたわけではないと思います。
 そこには隣近所の方、学校の同級生、職場の同僚など数多くの人とのつながりのなかで生きてこられたと思うのです。
 
 死をとりわけ特別なものにしてしまっているようなところがないでしょうか。
生が日常なら死も日常です。生きているから死ぬのです。
私たちが生きているということはいつか必ず命を終えていかなければならないということです。
 
 この命終えていく時に「お世話になりました。有難うございました。ご苦労さまでした」と
送る方も送られる方もお互いに声をかけ合うことができるのが葬儀のご縁です。
 
 お通夜の席でお通夜というのは夜伽(よとぎ)というご縁ですというお話をします。
夜伽とは夜を通してお話をするということです。
 先に逝かれた方はもうすでに体は硬く冷たく声をかけても懐かしい声が返ってくるわけではありませんが
姿形はそのままです。姿形そのまんまの大切なお方と最後の夜を過ごすのです。
これまでの人生を振り返りいろんなお話をしてお礼をします。
 
 そして明けて翌日は葬送です。送るんです。
送るところ送られるところがお互いにわかっているから送れるのです。
 阿弥陀さまが私たちを必ず救うと決めて用意をしてくださっているお浄土です。
 
 葬儀のご縁に阿弥陀さまのお浄土があることを聞かせていただくのです。
先に往く人もお浄土ならば後に残る人も同じお浄土に生まれて一処でまた再会できると聞かせていただきます。
 何時だって聞くことができることのようですが、生きることに忙しく精いっぱいの私たちに
先に往かれた方が命がけのお説法で聞かせていただけるのです。
 
 家族だけでなく多くの有縁の方々に仏さまのみ教えをお伝えする大きなご縁をつくってくださる仏さまです。
葬儀のご縁は仏さまのご縁です。そのままいただきましょう。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.4.11)

「花びらは散っても 花は散らない」今年の桜も見納めです

 昨夜からの大きな雨で今年の桜もいよいよ見納めということです。
お寺の境内の桜はすっかり葉桜になりました。
 
 満開の桜もみんな散っていきます。そのまま大地に散って土にかえっていきます。
散って帰っていくところがあるということです。
 
 桜の花に寄せて先人は
「散る桜 残る桜も 散る桜」「花びらは散っても 花は散らない」など
この世の無常を思いはかない命を重ねて思う歌をたくさん遺してくれています。
 
 今年の花びらは去年これまでの花びらとは違います。
来年はまた違う花びらをつけて私たちを楽しませてくれるでしょう。
 それぞれの花びらそれぞれの命を精いっぱい生きて散っていくのです。
 
 私たちの命もそうです。
生まれた以上はいつかは必ずこの命を終えていかねばなりません。
 散っていくのです。
 
 そこのところだけ見たら悲しい本当に虚しいということですが
そんな私を見て取って私たちが散って行くところをちゃんと用意をしてくださってあるのです。
 阿弥陀さまのお浄土です。
南無阿弥陀仏のおはたらき一つで阿弥陀さまのお浄土に確かに確かに生まれ往くのです。
死ぬのではなく生まれ往くのです。
 花のいのちに生まれて往くのです。
 
 「花びらは散っても 花は散らない」の後に「形は滅びても  人は死なぬ」と続きます。(金子大栄師)
花のいのちはこれからもずっと続いていくのです。これまでも続いてきたのです。
 
 南無阿弥陀仏のいのちとなってこれからもずっとずっと生きて往くのです。
南無阿弥陀仏の大きないのちのつながりのなかに私たちはこのたびは人間の命を生きています。
私という一片の花びらの命です。
 
 この人間に生まれてきたのは仏さまのみ教えを聞くためだよと説かれます。
仏法を聞くためにこの人間に生まれてきたというのです。
 
 阿弥陀さまの本願念仏のみ教えに遇わせていただきお念仏を申すなかに
私たちはこの命を輝かせて生きていけるのです。
 いつどんなかたちでこの命終えるかわかりませんが
南無阿弥陀仏の大きなおはたらきのなかにあって
これからもずっとずっと生かされて生きて往くいのちと有難く聞かせていただきます。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.4.10)
円光寺
〒870-0108
大分県大分市三佐3丁目15番18号
TEL.097-527-6916
FAX.097-527-6949
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