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お念仏を申す生活法話

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浄土真宗のお寺は私のお手次ぎのお寺です

2018-08-31
 私たちの浄土真宗では門徒といいますが、他の宗派では檀家檀徒という言い方が一般的です。
檀家さんのお寺を檀那寺といいます。
 この檀那はインドの言葉ダーナをそのまま漢字に当てはめたものです。ダーナとは布施という意味です。
お布施というとすぐお包みのことを思いますが、お包みは財施といってお金や物を施すという意味です。
 布施は大きくいうと法施といって、仏法を施すという意味があります。
 
 浄土真宗のお寺は檀那寺というよりお手次ぎのお寺といいます。
手を次ぐ手をつなぐという意味で、浄土真宗の仏法を施すということで
ご本尊の阿弥陀さまのご法義、お念仏のみ教えのお手次ぎをさせていただくお寺ということです。
 
 皆さんは円光寺に所属する浄土真宗のご門徒です。
この近くには同じ浄土真宗のお寺がたくさんあってどこのお寺にお参りしてもいいのですが
今日もこうして円光寺にお参りです。
 ご門徒その人人そのお家お家にお手次ぎのお寺が決められていることの有難さを思います。
 
 あなたを決して見捨てることはないよと「まかせよ救う」の阿弥陀さまのお心おはたらきなのです。
私を迷わせることなくそのまま連れてゆくぞとの阿弥陀さまのよび声南無阿弥陀仏です。
 阿弥陀さまのお浄土に連れて往ってくださるのです。
 
 この本堂のお内陣です。阿弥陀さまのお浄土を表しています。
今日もこうしてお朝事のご縁で阿弥陀さまを中心としたお浄土に向いてお念仏を申すことができました。
 お浄土への人生お浄土への道すがらをお念仏申して歩ませていただけると阿弥陀さまの方で決めてくださり
お寺という場所を通して私の目に見える形でわが身をおける場を示してくださっている有難さです。
私一人のために開かれたお手次ぎのお寺なのです。
 
 ところが今は何やらお寺だったらどこでもいい、浄土真宗でもどこの宗派でも何でもいい
お坊さんだったら誰でもいい、お経さえあげてもらえばそれでいいという声を多く聞くようになりました。
 
 今日の御文章さまに何度もいただきましたが、仏さまのご恩に報謝する念いが薄くなっているように感じます。
お念仏申して仏さまに頭が下がるお礼ができる私にしていただけるのも仏さまのご縁です。
その尊いご縁をお手次ぎしていただける私のお寺です。私の大きな大きないのちの依りどころです。
 そのこと一つ心に入れて有縁の皆さん共々にお誘いあわせお寺にお参りさせていただきましょう。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.8.31)

今求められているお坊さんとは?

2018-08-30
 昨日は公聴会といって年に一回ご本山から総局が各教区を巡回して宗務の方針について述べ意見聴取する会がありました。
教区・組の役職者を中心に僧侶だけでなくご門徒の方も出席されました。
 
 多くの協議事項のなかで、10年20年後の日本社会で求められるお寺僧侶について有識者会議から答申があり
それを受けて僧侶育成体系プロジェクト委員会より具体的な取り組みに関する提言がありました。
 聞き方によっては理想的なすばらしいお坊さん、スーパー僧侶になりましょうという提言でした。
期待される僧侶ってどんなお坊さんなのでしょうか。
お勤めが上手にできる、ご法話もうまい、僧侶として立ち居振る舞いがきれいで生活ぶりも完璧であるというお坊さん。
ほれぼれしますね。でも私のことでいったら穴があったら入りたい気分です。
 
 私たちのご開山親鸞聖人はどういうお坊さんだったのでしょうか。
私たちと同じ人間に生まれさまざまな苦悩に生きるなかで阿弥陀如来の本願念仏のお救いに遇われたお方です。
90年のご生涯はすごい長寿ですが、長生きすればするほど思い通りにならない悲しい出来事に多く直面しながらも
お念仏申してお浄土への人生を歩まれたご生涯を想います。
 
 本願念仏のお救いは救われようのない凡夫をこそ必ず救うとおはたらきです。
凡夫といって他の人のことではなくこの私のことといただかれたのが親鸞さまです。
煩悩具足罪悪深重の凡夫とまでいわれました。
 完璧な人間とはほど遠い、パーフエクトなお坊さんではなかったのではないでしょうか。
私たちはそういう親鸞さまにあたたかい魅力を感じるところでもあります。
 どこまでも救われようのない悪人をこそ目当てに必ず救うとの南無阿弥陀仏のおはたらきです。
そこにこの私が救われていく唯一の道があると親鸞さまが身をもって示してくだされ私たちも救われていくのです。
 
 このお寺に住まいする僧侶寺族が問われていることです。
ご門徒衆がお寺のご院家さん坊守さんをどう見ているのかというと色んな見方があると思います。
完璧なご院家さん坊守さんであってほしいとどこかで思われているかもしれません。
 しかし完璧であるがゆえに近寄りがたい中々お話もできないご院家さん坊守さんだったらどうでしょうか。
ご院家さん坊守さんも皆さんと同じ人間です。苦悩を抱えて生きています。
 そういうお互いが日常生活のなかでつながり寄り添って顔と顔を合わせてお話をするなかで
阿弥陀さまのご本願のお救いに共々に遇うていくのです。
 お念仏の大きな大きなつながりのなかに人と人とがつながりお念仏申して共々にお浄土への人生を歩ませていただきます。
お念仏申す日暮しのなかでご院家さん坊守さんそしてご門徒皆さんそれぞれにお手伝いさせていただく役割があることを
また教えていただきます。
 
 いろんなお坊さんがいらっしゃいます。それこそ事件問題を起こしてニュースにもなるお坊さんもいます。
いろんなお坊さん人それぞれを目当てに必ず救うとおはたらきの南無阿弥陀仏のご法義です。
 こういうお坊さんになりましょうと理想を語ることもいいですが
自分のこの身を通してお念仏のご法義を聞いていかないと
自分のことはどこかに置いて他の人のこと他のお坊さんのことを批判し責めるような見方になってしまうと
それこそお念仏のご法義がもったいないなと思います。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.8.30)

日常生活のなかで先人が伝えてくださったこと

2018-08-29
 先日ご恵送いただいた書物を昨日一気に読ませていただきました。
小さい文字で書かれた200頁にわたるもので見ただけで読む気がしなくてそのままになっていたものです。
 今から50年60年前の私たちの宗門教団の大きな転換期にあって宗門のあり方を議決する宗会を舞台にした動き
当時の宗会議員や関係する教団の有力者の発言記録等を列挙した内容でした。
 50年60年経った今も昔もあんまり変わってないなということを思いました。
京都ご本山で行われていることと私たちのお寺の現場の実状との大きな隔たりをまた思います。
 
 『ちびまる子ちゃん』を書かれたさくらももこさんが亡くなって一般の方々もたくさんコメントを寄せられています。
ちびまる子ちゃんの漫画の世界に共感する人たちの思いです。
 今から40年50年前の高度経済成長期の同じ時代を生きた人たちの声です。
そこにはどこにでもあるありふれた日常生活が書かれていたといいます。
こんなことがあったこんなこともあったと思い当たることがらに自分の日常、大切なものを思い起こしてくれるんですね。
 
 昨日読んだ本に書かれていたことは私たちの日常生活とはかけ離れた世界の印象です。
ただその当時も私たちのお寺の日常というものがありました。
円光寺を中心にしたご門徒皆さんの生活もあったのです。
 
 このおあさじという日常です。
当時はお寺だけでなくお家お家でもおじいちゃんおばあちゃんがお朝事のお勤めをしていたのではないかなと思います。
 今はどうでしょうか。
朝の時間は貴重です。お朝事のお勤めどころではない。
お勤めする時間があったらゆっくり眠っていたい、新聞を読んで、トイレに行って、食事をしてと
限られた時間のなかですることがいっぱいあるということです。
会社に行く学校に行く時間に合わせて私たちの今の朝の日常になっているのではないでしょうか。
 
 私たちの先人はどういう思いでお朝事のお勤め、日常の仏さまへのお給仕をしてきたのでしょうか。
今はお葬式のあり方といいご法事のあり方といい、40年50年前とはすっかり変わってしまいました。
 それこそ仏さまのことは非日常になってしまっています。
その部分だけ日常から切り取られてしまった印象です。
 
 有縁の方が亡くなっていくことは私たちの日常生活のなかで起こることです。
決してそこだけ切り取ることのできない日常のつながりのなかでのことなのです。
 
 その日常のなかでのお朝事のお勤めです。
日々のお勤めがあってお葬式ご法事のご縁があるということです。
 今の日常は昔とは大分変わってきていますが
日常の時間を今生きている私たちでいうならば先人が昔から伝えてくださった大切なことを思い起こし
できることをさせていただくことがそのまま次の世代に伝わりつながっていくことではないかなと思います。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.8.29)

さくらももこさん

2018-08-28
 『ちびまる子ちゃん』で知られる漫画家のさくらももこさんが亡くなられたとの報道がニュース速報でありました。
8月15日のことで53歳で乳がんだったとそうです。
 53歳と聞くと、まだまだ若い早すぎるということです。
私たちのこの命はいつどこでどんなかたちで亡くなっていくか、誰にもわかりません。
ただどんな命も生まれてきた以上は必ず死んでいかなければならないのです。
 
 必ず死ぬということです。私のことと聞きたくないかもしれませんが、本当のことです。
阿弥陀さまのご本願のお救いは「老少善悪をえらばず」といいます。
老少とは老いも若きも善悪とは善いことをした人も悪いことをした人も平等に分け隔てなく救うというんです。
 死というのもまた平等です。
どんなに名声を築いた人も財力権力をほこった人も名もなき庶民といわれる人も等しくこの命を終えていくのです。
 
 終活といいます。この命終わりに臨んで為すべきことです。
その根本命題が「私は何のために生まれてきたのか」「死んだらどうなるのか」という人生の問いです。
 今を楽しく生きればそれで良し、死んだら終いという人がいますが、本当にそれで死んでいけるのでしょうか。
終活は同じ呼び名で宗活、宗教活動と言い換えることができます。
 
 私たちは浄土真宗というお念仏のご法義に遇うことができました。
私たちのいのちの往く先を阿弥陀さまのお浄土と聞かせていただくご法義です。
阿弥陀さまのお浄土には先に往かれたお父さんお母さんをはじめ私たちの大切な方々がいってらっしゃいます。
 死んだら終いではなくてお浄土に生まれて仏さまに成ったらまたこの世に還って来て有縁を度す
迷いの衆生を救うというおはたらきをさせていただけるというのです。
 死んだら終いの命を生きているのではなくて
南無阿弥陀仏のお念仏一つのおはたらきで仏に成らせていただく命を今ここに生きているのです。
 
 大きな大きな南無阿弥陀仏のいのちのおはたらきのなかに、先に往った人も後にのこった人も
私一人ではなく隣の人も有縁の方みんな等しくつながって生きていけるいのちの物語を聞かせていただきます。
 
 ただ今ここにお朝事のご縁をいただき阿弥陀さまの御前に座ってお勤めができお聴聞ができて
手が合わさって仏さまにお礼ができるそのまんまが私たちが生きて往けるお浄土への道すがらといただきます。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.8.28)

「私のことを思うときはナンマンダブツとお念仏申しておくれ」

2018-08-27
 昨日は25回忌のご法事のご縁にお参りさせていただきました。
若くしてお別れになったご主人、お父さんのご法事です。
 25回忌といいますとご往生して24年が経つということで、ご遺族の方々も皆24年歳を重ねてきたということです。
ご法事はこれまでの人生を振り返るご縁でもあります。
いろんなことがあったということです。そして今です。それぞれに生活環境も大きく変わりました。
 
 お勤めの後でお話をするなかで「今何歳になったかなということを思います。73歳です」とお話されました。
人の命は終えていますからこの目に見えるお姿はありません。懐かしい声が聞こえてくるということでもありません。
ただ73歳のご主人ですよ。73歳のお父さんですよね。
一緒に歳を重ねて来てそして今も一緒にいるということをご法事のご縁で聞かせていただけるのです。
 
 どういうことでしょうか。
先に往かれた方は阿弥陀さまのお浄土に生まれて南無阿弥陀仏の仏さまと成って
私のところに還って来て私と共に生きてくださってあるということです。
 私が思うより前に仏さまの方で私のことをいつでもどこでもこれからもずっと思うてくださる
そのおはたらきこそが南無阿弥陀仏とお念仏の声となって私の口から出てくださるのです。
 
 「私のことを思うときはナンマンダブツとお念仏申しておくれ」という仏さまの思し召しおよび声です。
お念仏を申すなかにこの身はいずれは亡くなっていく限りある命を生きる私ですが
南無阿弥陀仏の仏さまと成らせていただくいのちを
先に往かれた仏さまがこれからもずっとずっとずっと共に生きてくださるのです。
 
 73歳のご主人の仏さま73歳のお父さんの仏さまがいつでもどこでもご一緒です。
ナンマンダブツとお念仏申してこの人生を共々にご一緒させていただきましょう。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.8.27)
円光寺
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