本文へ移動

お念仏を申す生活法話

RSS(別ウィンドウで開きます) 

南無阿弥陀仏あなたの声に支えられて生かされて生きている私です

 昨日午前中留守をしていまして、家に帰ったら郵便ポストの上にまとまったものが置いてありました。
すぐわかったのですが、掲示伝道の法語が書かれたものでした。
 
 毎月掲示伝道の法語をHさんに書いてもらっています。
そのものをお寺に届けにいらっしゃってみんな留守だったということです。
 
 あらためて有難いことだなあと思います。
毎月のことです。もう8年になります。
 このお朝事でいいますと毎日のことです。
何か同じことの繰り返しのようで当たり前のようですが
月々日々のことがらをていねいに受け止めてしてくださることで
本当に有難いことだなあと思います。
 
 日々の生活を振り返って、私たちは何か私が一人で頑張って生きていると思っているところがありませんか。
私が一人で生きているのではなく周りの多くの方々に支えられてあることを本当に有難く思います。
 
 その後すぐお電話しました。「届けていただいて有難うございました」
Hさんの声が聞こえてきます。「留守のようで置いておきましたが、よかったです」
 
 声です。声を聞いて何かほっと安心します。つながってあるなと有難く思います。
今日もそうです。こうしてお正信偈さまのお勤めをご一緒にさせていただきます。
皆さんの声が聞こえてまいります。
 南無阿弥陀仏と聞こえてまいります。
 
 阿弥陀さまのお喚び声です。「まかせよ救う」のおはたらきです。
真ん真ん中にお立ちになり南無阿弥陀仏の声となって私のところに来てくださってあるのです。
 南無阿弥陀仏の声に励まされて心安らぎ生きていけるのです。
 
 頑張って頑張って生きている私たちお互いです。
頑張って頑張って思い通りになることばかりだったらいいのでしょうが
頑張って頑張っても思い通りにならないこともたくさんあります。
 
 どんな状況にあっても南無阿弥陀仏の声の仏さまはいつでもどこでもおはたらきなのです。
南無阿弥陀仏の声が聞こえてまいります。
 私一人じゃなかった。
周りの方々多くのいのちに支えられて生かされてあることを
何か毎日が当たり前のように過ごしている生活のなかで有難くいただけるのも
仏さまのご縁に遇わせていただいたおかげさまと思います。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.5.24)

ご門徒衆をお預かりするお寺のお役目を思います

 昨日の夜ご案内のようにお寺での葬儀のこと納骨事業のことについてご門徒皆さんとの協議会をもちました。
夜の時間ということもありましたが、10人ほどの方がご参加されました。
 
 葬儀といい納骨といいこれから先のお話のようですが
少子高齢社会にあって家の相続が難しくなりお家のお仏壇そしてお墓の相続についても課題が生じています。
 お家お家それぞれの事情があって個々の問題として丁寧に対応していくことが大事だと改めて思います。
 
 こうしましょうと皆さんで決めてする大きな枠組みは基本的に大事なこととして
その上で個々のお家お家の事情を十分お聞きし相談して具体的に対応できるようにしていきたいと思います。
 
 納骨のことについてはお墓の後を見る人がいないというお家がこれから増えてまいります。
そういうなかにあってお寺の役割ということを改めて思います。
 
 お寺はご門徒皆さんをお預かりしているところです。
浄土真宗のお寺は親鸞聖人のお寺といわれるように
親鸞さまからご門徒衆をお預かりしているのが住職です。
 
 住職とご門徒ではそのお役目はそれぞれ違うところがありますが
同じ阿弥陀さまの本願念仏の救いの法を依りどころに生きるお同行お念仏のお仲間であります。
 
 昨日お話をしながらまた皆さんから意見を聞きながら
改めてお寺のあり方お寺の大事なお役目を思ったことです。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.5.23)

阿弥陀さまの御前に集う私たちです

 お念仏の集いを講といいます。
一つ日を決めて同じメンバーが集まります。
 どこに集まるのか、ここが肝心です。阿弥陀さまの御前(おんまえ)に集まるということです。
 
 このお朝事のご縁も一つの講です。
こうしてほぼ同じメンバーです。
顔と顔を合わせていつもの時間いつもの場所で阿弥陀さまの御前でということです。
 
 そのことが皆さんのお家のお仏壇の前でもできます。
月々の月参り、ご法事のご縁で皆さんのお仏壇のやっぱりご本尊の阿弥陀さまの御前なんです。
 今日はあんのん館で健康教室がありますが、あんのん館もやはり阿弥陀さまの御前です。
納骨堂もお内仏も阿弥陀さまの御前に集うともがら、お念仏の仲間です。
 
 お互いに顔を見合わせる関係です。
一人一人の生活ぶりはそれぞれ違って色んなことがあります。
楽しいことばかりではありません。苦しみ悩みを抱えた私たちお互いです。
 阿弥陀さまの御前に集う私たちの口からぽろっと愚痴がでることもあります。
そのことをそのまま聞いてくださる仏さまです。
 
 私たちが集うところはいろいろです。食事をすることもお酒が入るときもあります。
話がはずみます。他愛もない世間話です。
 この阿弥陀さまの御前に集う私たちが交わす話もまた世間話です。
ただ世間話がそのまま仏さまのご法義の話になるんです。
 
 いろいろと悩みを抱えた私たちお互いを御前の阿弥陀さまがいつもスーッとお立ちで見守ってくださってあるんだと
お念仏申して有難く聞かせていただきます。
 
 私たちが等しく帰っていけるところを阿弥陀さまの御前といただきます。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.5.22)

裁判員制度が始まって10年です

 裁判員制度が始まって今日で10年ということで、いろんな報道番組で特集されています。
裁判は罪を犯した者を裁く制度で罪ある者に罰を与えるというものです。
裁判員に選ばれた人にとって大変大事なそして重い役割です。
 
 裁判とは裁判官がいて原告検察側と被告弁護側の意見を聴取するなかに判決を下すというものです。
ただ裁判官検察官弁護士ともに法律の専門家であり過去の判例を重視した判決になって
どこか市民感覚とずれたところがあるのではないかということもあり
一般市民に裁判員として参加してもらうことで司法制度が国民により身近なものになるようにと始まったものです。
 
 事件の内容によっては死刑判決を下す裁判に裁判員が係わることにもなります。
死刑判決をする前もその後も様々な葛藤があり不安な心情にさいなまれる苦悩を語る裁判員経験者がいます。
 裁判員には守秘義務があり家族や友人にもその思いを伝えることができないもどかしさです。
 
 死刑というのは裁判によって一人の人を殺すということです。
死刑制度について今は世界的には廃止または実際に死刑執行しない国が多くなっています。
ただ日本やアメリカには死刑制度があり日本では毎年複数人の死刑が執行されています。
 
 裁判員制度が始まって死刑制度そのものについて議論が起こるのではと思っていた専門家のコメントがありましたが
日本では国民の80パーセント以上が死刑制度を容認し
裁判員制度が施行されるなかで重罰刑を科す傾向が強くなったといわれます。
 被害者家族の感情を考えればということでしょうか。
 
 仏法の話です。
私たちの阿弥陀さまは裁く仏さまではありません。
こうしなさいああしなさいと生き方を告げ、救いに条件をつける仏さまでもありません。
 
 聞き方によってはどんな悪いことをしても救ってくれるのだから悪いことをした方がいいと聞き違いする人がいます。
そうではありません。
 裁かない仏さまといって自分中心の生き方しかできないこの私をもう既に見て取って悲しまれるのです。
阿弥陀さまのお慈悲のお心を聞けば聞くほど南無阿弥陀仏のおはたらきがわが身にしみ込んで
大きないのちのつながりのなかに生かされて生きてあることを知らされ
私にできる精いっぱいのことをさせていただこうという思いがわいてきます。
 
 この現実社会に生きる私たちです。
私たちが共に生きる上で守らなければならない決まりがあります。
決まりを守らないときには罰を科せられることもあるでしょう。
 そういうなかにあって苦悩する裁判員の有り様を阿弥陀さまはどう見てござるのかなと思います。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.5.21)

降誕会の仏さまのご縁です

 今日は宗祖降誕会のご縁です。
降誕と言います。
 親鸞聖人はただ人ではない、仏さまの国から降りてこられたお方
私たちにお念仏のみ教えを届けるためにお誕生になられたといただくご縁です。
 ただ親鸞さまのお心をいただくと親鸞さまは私たちと同じお念仏のお仲間としていらっしゃるように思います。
 
 親鸞さまのお誕生をお祝いするご縁ですが
私たちもこの人間界に誕生しました。そして今を生きています。
 ただ生きるということは楽しいことばかりではありません。
苦しいことや悲しいこともいっぱいあります。
 今日もこれから何があるのかわからない、まさに無常の中に生きている私たちお互いです。
 
 昨日は仏教婦人会の総会のご縁でご法話お聴聞させていただきました。
ご講師は女性の方でお寺の坊守さんそしてお坊さんです。
 生活のなかでのいろんな苦しみ悩みを率直にお話されました。
久しぶりに仏法が親しく聞けたような気がします。
 
 私もそうですが、何か袈裟衣をつけると型通りのお話になります。
浄土真宗はという阿弥陀さまのご法話です。
 それでいいのです。型が中心がぶれたらこれは浄土真宗仏教になりません。
 
 ただご法話をする人も一人の人なのです。
人として生まれ人として生きているのです。
 自分の思い通りにならない苦しみ悩みをいっぱい抱えて生きている人なのです。
ご法話される人もお聴聞される人も共々に仏さまの仏法を聞かせていただくのです。
 共に生き共にお念仏のみ教えを聞き共にお念仏の道を歩ませていただくのです。
 
 昨日お聴聞しながら、私は何のために生まれてきたのかと問われたような気がしました。
人生の根本的な問いです。
 私たちはどこかでこの問いに向き合って生きています。
でも日々の生活が忙しくて、生きることで精いっぱい私のことで精いっぱいなのです。
 
 だからこそのご縁なのです。
このお朝事のご縁もそうです。
今日は日曜日で家でゆっくりゆったり寝ていていいんです。
 でも仏さまの御はたらきがあったんですね。
仏さまの御もよおしのなかにここに座ることができたのです。
 
 私が座ったと心得たら、それは仏さまのお心に背くことになるのかもしれません。
ここに座れここに座れお念仏を申せ仏法を聞けよと
ご縁をつくってくださった仏さまです。
 その仏さまに今度はこの私が成らせていただけるのです。
仏法を聞くために人間に生まれてきたんだということを
今日の降誕会のご縁のなかでお互いにたずねてまいりましょう。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.5.19)
円光寺
〒870-0108
大分県大分市三佐3丁目15番18号
TEL.097-527-6916
FAX.097-527-6949
0
7
2
2
3
8
TOPへ戻る