住職の務めお仕事です
今朝いつもより早く起きて習字をしました。
今日お葬式があります。前の日にお通夜があって葬儀社から位牌を預かります。
位牌と過去帳そして尊号といってお棺の中に入れるお名号を「南無阿弥陀仏」と書かせていただきます。
お葬式のご縁での住職の務めお仕事です。
浄土真宗の住職はご開山親鸞聖人からお寺を預かりご門徒衆をお預かりする大きなおつとめがあると承ります。
ご門徒さんがご往生されお葬式の導師を勤めます。
お寺の過去帳に先に往かれた方の法名俗名往生年月日など書かせていただきます。
ご往生の連絡をいただき臨終勤行にお参りした時に「丁寧にお勤めさせていただきます」とご遺族の方に申します。
丁寧にといって特別なことをするのではありません。
ご門徒を預かる住職として精いっぱいのことをさせていただくということです。
昨日お通夜のご縁でお勤めの後に喪主の方が控室の私に挨拶にみえました。
喪主もまた大事なお役目があって大変恐縮でしたが
「おふくろも心おきなく安心してお浄土に往くことができます」とご丁寧にお話されました。
お通夜のお話をよく聞いてくださったのでしょうね。お浄土といってもらうだけでも有難いなと思いました。
お通夜というのは最後の夜でこれまでのご生涯を通して皆さんご一緒にいろんなお話をしましょうとお取り次ぎします。
楽しいことも苦しいことも嬉しいことも辛いこともあったでしょうねと。
喪主の方が微笑みながらこう言いましたよ。
「おふくろの悪口も言いましょう」とね。
いいですね。特別な話ではなくて普段着の話です。日頃のこと、これまでの思い出です。
いつもの日常のようにみんなでお話ができて次の日は葬送、お浄土に送ることができるのです。
住職の務めお仕事を思うとき、丁寧にさせていただくことを心がけるようにしています。
丁寧に生きるということです。いのちを大切に生きるということです。
私にできる精いっぱいのことをさせていただくという思いで生きたいものです。
そうですよね。私にできることもあればできないこともあります。
背伸びせずに私にできることです。
「あなたをそのまま必ず救う」という阿弥陀さまの仰せ南無阿弥陀仏のお心おはたらきですから
そのまままかせていいんですね。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.6.8)

いつでもどこでも阿弥陀さまがご一緒です
昨日野津原のお寺さんで月に一回の法中会という住職新院が集まる会がありました。
野津原の方に行きますと田圃が広がってこれから田植えということで
水を満々にたたえた田圃がいよいよ田植えを待っているという感じです。
大海組の17のお寺さんは、円光寺のように海に近いお寺もあります。
里のお寺もあります。町中のお寺もあります。山の方のお寺もあります。
大分市でも各地にお寺は在りますが、その所ところに人ひとが住んで生活をしているということです。
地域の人々の生活の中心にお寺があるということです。
昨日もお寺の本堂で会議がありましたが、お寺お寺それぞれに本堂を中心とした佇まいは違っても
本堂お内陣の真ん真ん中にご安置する御本尊の仏さまは同じ阿弥陀如来の仏さまです。
皆さんのお家のお仏壇の中心も同じ阿弥陀さまです。
阿弥陀さまが私たちの生活の中心になってくださってあるというご法義です。
阿弥陀さまはお寺にお参りしないとお仏壇にお参りしないと会えない仏さまではなくて
南無阿弥陀仏のみ名となっていつでもどこでも私のところに来てくださり
「私がいるよ。どんなことがあってもあなたを見捨てることがないから大丈夫だよ。我にまかせよ必ず救う」と
おはたらきくださっている仏さまなのです。
ナンマンダブツをお念仏申して今日の一日も生かされて生きてまいりましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.6.7)

ご縁というのは戴きものです
ご縁というのはつくづく戴きものだと思います。
私たちのご縁は仏さまのご縁です。ご縁を戴きます。
よく食事をすることに喩えてお話をさせていただきます。
皆さん一日三食しっかり食事をしていますか。
毎日三食何時に食事をすると私が決めてというより
そうした生活習慣が身に付いているということではないでしょうか。
戴くということです。
食事をするように仏法をお聴聞させていただくことも生活習慣として身に付いたらしめたものです。
これがお念仏を申す身にさせていただくことだと味わわせていただきます。
食事も一人より二人、二人より三人とみんなで戴くといいですね。
こうしてお朝事のお勤めの食事です。
一人より二人、二人より三人、三人より四人と皆さんと共々に
ナンマンダブツナンマンダブツとお念仏のご縁に遇わせていただきます。
ご縁というのはつくづく戴きものだと
今日もお勤めをご一緒しながらまた有難く味わわせていただきます。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.6.6)

油断なくご縁ご縁に仏法聴聞させていただきましょう
先ほどお電話がありまして、ご門徒の方がお亡くなりになったということです。
前々からお悪いことは聞いていました。
去年の11月に百歳になるということで、その前から体調を崩し百歳の誕生日を迎えられるかどうか心配されていましたが
百歳を超えていつ往生の時を迎えるか分からないというなかで半年が経ち令和の時代に入りました。
このいのちです。縁あって命恵まれ人間に生まれてこの時代を生きそして命終えていきます。
今日拝読の御文章さま『睡眠章』にありました。
明日をも知れないはかない命を生きている私たちです。
いつこの命終わるかわかりません。
百歳になったから、取り詰めているからということでもありません。
それこそ昨日まで元気な方が急逝するということも不思議ではないのです。
だからこそ命のある限り油断なく、いつ往生の時がきてもよい心構えで生きるべきだとの仰せです。
若くて健康なことを頼りにまだまだ大丈夫明日がある明日があると油断して生きていては
仏法に遇える身でありながら仏法に遇わず終いに命終えるなら、これほどもったいないことはないと
蓮如上人は御文章にしたためて私たちに仏法聴聞信心獲得のことを何度も何度もお勧めなのです。
大切な人とお別れする悲しみのご縁でこれからお通夜お葬儀七日七日のお勤めが始まります。
先に往かれた方がまさに命がけでつくってくださった仏さまのご縁といただいて
南無阿弥陀仏の救いの法を私のこととして聞かせていただきましょう。
阿弥陀さまの真実信心をいただきお念仏申す身にさせていただいて
お浄土への道を共々に歩ませていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.6.5)

強く明るく生き抜けない私にいつも寄り添って阿弥陀仏さまがご一緒です
川崎の事件に続き東京練馬で衝撃的な事件がおこりました。
にわかに「8050問題」がクローズアップされています。
高齢の親と引きこもりの子どもが同居する家庭の深刻な問題です。
他人事ではありません。一方では老老介護の問題もあり超高齢社会が抱える現代の大きな問題です。
問題といいますが、私たちはそれぞれに様々な問題を抱えて生きているのではないでしょうか。
お釈迦さまが「人生は苦なり」とお示しのように
私たちが生きるこの人生の実相は私の思い通りにならないということです。
我が身のことであってままならないことがあります。
説明することもどうすることもできないこの身にかかる宿業といわれるようなものです。
昨日練馬事件の犯人の父親が送検される様子がテレビに映りだされました。
顔を隠すこともなく悪びれた様子も見えなくてちょっと違和感がありました。
事件の直前、隣接する小学校の運動会が騒々しいと「(子どもたちを)ぶっ殺してやる」と被害者の息子が言ったそうです。
先日の川崎の事件を思い起こし自分の息子が同じような事件を起こすのではないかと
覚悟の上の犯行だったと供述しているようです。
親が子どもを殺すんです。自分の子どもだから親は殺せるのでしょうか。
一番安心信頼できる親から子どもが殺されるのです。子どもにとって誰を何を頼りに生きたらいいのでしょうか。
数十か所もの刺し傷があったといいます。
どんな思いで自分の子どもを滅多刺しにしたのでしょうか。
涙が無いはずはありません。何でどうしてと後悔の念いが無いはずはありません。
これからもずっと辛辣な思いにさいなまれていくのでしょう。
ただしっかり前を向いていた表情からあの父親のこれまでの人生の歩みに裏打ちされた
信念といったようなものを感じました。
決して私は間違ったことはしていないとでもいうのでしょうか。
私はそんなに強くないです。
弱音を吐き涙を流すこともあります。ぽろっと愚痴が出ることもあります。本音です。
社会的な役割感に固執し周りを気にして建前に生きている私が
本当の自分をさらけ出せる、私が一番安心できるところはどこなのでしょうか。
引きこもりといわれる人には居場所がないといわれます。
家から外に出て働くところ勉強するところ遊ぶところ落ち着くところがないとの指摘です。
居場所がないって、大抵家に引きこもっているということですが
引きこもっているその家こそが今一番安心できる居場所ではないでしょうか。
そのことを世間が周りの者が認めたくないのです。
私たちは自分の信念とか経験それも成功体験や理想例といった社会通念で人を見判断して認めたくないのです。
何でどうして引きこもるのか働かないのかと一方的に有言無言に責め立てて
家族にも社会にも弱音を吐くことがはばかれますます引きこもりが深刻になります。
この後『浄土真宗の生活信条』をご一緒に唱和します。
最初に「み仏の誓いを信じ 尊いみ名をとなえつつ 強く明るく生き抜きます」とあります。
自分の思い信念をもって強く明るく生きたい私ですが、中々どうして強く明るく生き抜けない私がいます。
そんな私をこの阿弥陀さまはちゃんと見て取り南無阿弥陀仏のみ名となって私に寄り添いご一緒くださるのです。
お念仏申す者が強く明るく生き抜けるのではありません。
何をしても思い通りに生きられない私にいつも阿弥陀さまがご一緒くださり迷いのなかも生きていくことができるのです。
お念仏のみ教えに聞かせていただきましょう。
今日もこうして阿弥陀さまの御前に座らせていただきます。
私もあなたも同じ阿弥陀さまの御前にご一緒です。
ナンマンダブツとお念仏申してご一緒です。
お念仏申すところ阿弥陀さまがいつも私もあなたもご一緒です。
南無阿弥陀仏の大きないのちのつながりのなかに私たちはご一緒です。
あなたも私も南無阿弥陀仏のいのちの居場所をいただいて大きな安心のなかに生かされていただきます。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.6.4)
