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お念仏を申す生活法話

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中陰の間ろうそくやお線香を絶やしたらいけないのですか?

2018-10-28
 49日間の中陰の期間お仏壇の横に中陰壇を設けてお遺骨ご遺影そして法名を記した位牌をご安置します。
その中陰壇にはお供えものがいっぱいですが、ろうそくや線香をお供えしているところが多くあります。
 
 昔から言い伝えられていることで、亡くなった方は中陰の間死出の旅をされているというのです。
旅装束をして途中に三途の川があったり渡り銭が六文銭だというお話です。
 冥土の旅といいます。冥土とは暗い世界のことです。
暗い中を旅するのに行く先を照らすのがろうそくのお灯りであったり線香が食べ物になったりということで
ろうそくと線香は絶やしてはいけないと言い伝えられてきたのです。
 
 ところが今は核家族でおじいちゃんおばあちゃんの二人住まいが多くなり、一方が亡くなると一人になるのです。
そのお一人も高齢で一人で住むこと生活が中々難しいということで、お家を留守にすることが多くなります。
 そこで「家を留守にするときもろうそくや線香を絶やしてはいけないのですか」という質問です。
火の元ですから火事にでもなったら大変です。
家を留守にするときはろうそくのお灯りや線香の火種は必ず消して外出してくださいとお答えしました。
 
 さて浄土真宗のご法義を聞かせていただきますと
お念仏の人は命終の時南無阿弥陀仏のおはたらき一つで阿弥陀さまのお浄土に生まれ仏さまに成らせていただくのです。
お浄土への旅は終わるのです。だから旅装束も六文銭も要らないのです。
 お灯りもお線香もお仏壇のなかにお供えすればいいのです。
お仏壇にお参りしお勤めをするときにお供えします。お勤めが済めば消していいのです。
 
 お通夜や中陰の間に仏壇の火の不始末で火災に遭うことが結構あります。
いくら渦巻き状の線香であっても大きな容器に入ったろうそくでも火種がある以上安全安心ではありません。
 仏さまのみ教えの骨幹は安心です。不安を取り除いてくださるみ教えおはたらきです。
お家を留守にするときはお仏壇の火の用心もお忘れなくしてください。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.10.28)

死んだら仏に成るんですか?

2018-10-27
 今日お葬式の喪主の息子さんが昨日お寺に来られてお話をするなかで
「父はもう仏さんに成っているんですか?」と言われました。
 亡くなった方が仏さまになっているかどうかということです。
死んだら仏という言い方をよく聞きます。
 
 私たちの浄土真宗のご法義でいいますと
親鸞聖人は「念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに臨終の一念の夕べ大般涅槃を超証す」と述べられています。
この命終わる時すぐさま大般涅槃のおさとりを開き仏に成るとのことです。
このことをそのままいえば命終のとき死んだら仏ということです。
 ただここに念仏の衆生はとあり、南無阿弥陀仏のおはたらきで命終わるそのまま
阿弥陀さまのお浄土に生まれさせていただき仏に成らせていただくとのことです。
 阿弥陀さまは念仏の衆生を摂取して捨てない仏さまになってくださったのです。
「まかせよ救う」の南無阿弥陀仏のおはたらき一つで念仏の人を救うというのです。
 
 ではお父さんはというと、今までお寺にご縁がなかった、お念仏を申すこともなかっただろうから
命終わってもお浄土に生まれることもないし仏に成っていないのでないかという疑問です。
 そこは私たちの人知でもっていろいろ思う詮索することではありません。
私の往生成仏はすべて南無阿弥陀仏のお救いおはたらきを信じまかせるしかないのです。
 
 このたび亡くなられた方もこれまで親戚や友人有縁の方のお葬儀にお参りされることが度々あったと思います。
そういうご縁で仏さまのみ教えをどこかで聞かれていると思います。
そして隣の人周りの方につられてお念仏申すこともあったと思います。
たとえお念仏がこの口から出なくても隣の人周りの方のお念仏の声を聞いていたと思います。
 
 お念仏を聞かせていただくそのまんまのお救いです。
そこまで阿弥陀さまの方で私たちを救う全ての手立てを南無阿弥陀仏に仕上げて私たちにくださってあるのです。
 いいところに生まれてほしい仏さまに成ってほしいと思うのは私たち凡夫の情です。
ただここは仏さまのおはたらきにおまかせするということですし
どうぞこれからの仏さまのご縁を大事に仏さまのみ教えをお聴聞してくださいとお話したことです。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.10.27)

門徒になること門徒であることの安心

2018-10-26
 昨日お葬式のお願いの連絡がありました。
ご門徒さんではありませんが、ご門徒さんの親族のお家の方からです。
ご門徒になっていただいてお葬式をさせていただきますということで
喪主の方にお寺に来ていただいてお話をさせていただきました。
 
 門徒ということの意味です。
門徒とは浄土真宗の門徒ということで「私は浄土真宗の門徒です」と個人のことをいいます。
ところが一般的には「私の家は浄土真宗です」と門徒の家ということでお寺との関係を思ってらっしゃる方が殆どです。
 
 門徒になるということはどういうことなのでしょうか。
浄土真宗のみ教えお念仏のご法義でお寺とお家がつながるということです。
人と人とでいいますとお寺の住職とご門徒個々とのつながり関係であります。
 ただ門徒といって日常生活のなかでお寺のことを思うことは中々難しいですね。
自分のことで精いっぱい生きることで精いっぱいの私たちお互いです。
 
 そうしたなかで家族の方がお亡くなりになります。
そのときお葬儀ということでお寺とのつながりができるというのがお寺との関係ということでありましょう。
 
 門徒であることの安心ということを思います。
いつ何時どういうかたちで家族がこの私が命を終わろうとも頼み寺があるということの安心です。
 日頃はそんなことをあまり考えていないと思います。
考えなくてもいいぐらいに安心しているといった方がいいと思います。
 
 逆に頼み寺がないと、その時になってどうしようかと迷うことになります。
大きな悲しみのなかに一大事です。
 葬儀社に頼んでどこのお寺でもいいお坊さんだったら誰でもいいというわけにはいきません。
その場は何とかできても後々後悔することもあったり不安は残ります。
 
 日頃からお寺と門徒とのつながり関係を皆さんも思うていただきたいのです。
日頃から仏さまのご縁をいただいてほしい、仏さまの教えを聞いていただきたいと思います。
 
 今日お通夜明日お葬式をさせていただくお家のお方も全くご縁がないということではありません。
近いご親族のお葬儀のご縁に遇っていると思います。
 どこかで仏さまのみ教えを聞いているのです。聞いているということが凄いことなのです。
 
 どうぞ皆さんのご縁の方隣の方にお勧めしてください。
門徒にならないといけないということではありません。
仏さまのご縁にお参りされて仏さまのお話を聞いておきましょう。ご縁ご縁にお念仏を申しましょう。
 そのこと一つが一大事の解決、大安心になるといただきます。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.10.26)

お念仏のはかりに乗って

2018-10-25
 この前の日曜日にあった女子の駅伝大会で
あるチームの2区の選手が中継所前200mのところで倒れ両手で這いつくばり両膝は血まなこになって
次の走者にタスキを渡したことが映像と共に翌日のテレビや新聞報道に大きく取り上げられ反響を呼んでいます。
 
 皆さんはどのように思いましたか。
すぐそばにいた大会関係者も沿道の方も声をからして応援していました。
「あと100mだ、あと50m、30m頑張れ頑張れ、もう少しだ頑張れ」と。
 その映像だけを観ると、すごいなすばらしいなよく頑張ったなということですが
ちょっと冷静に考えてみると選手のことを思って走ることを止めさせることもできたわけです。
 チームのためにたすきをつなごうという強い思いが選手の必死の行動になったのですが
選手のこれからの競技人生を考えると棄権させることも大きな選択肢だったと思います。
 ただチームのために自分を犠牲にまでして尽くす姿が美しい尊いという思いが皆さんどこかにあるんでしょうね
周りの人は頑張れと応援こそすれ誰も止める人はいませんでした。そして感動したと称賛の声になりました。
 選手は競技後の診察で骨折していることが判明、治療に3、4カ月かかるということです。
大事な選手を預かっている監督だったら止めさせたと思いますが
続けさせるか止めさせるか、二者択一の判断は本当に難しいことです。
 
 親鸞聖人の生き方は非僧非俗といわれます。僧に非ず俗に非ずです。
お坊さんでもない、かといって世間一般の人でもないというのでしょうか
ただめざすところはお念仏の道であり、非僧非俗と生死出づべき道を求めて生き抜かれました。
 
 この非ということの意味です。非ずと否定するのです。
私たちの物事の判断は二者択一といってどちらか一方を選択いたします。
非の論理は二者あってどちらでもないという判断です。
 
 滅私奉公といわれます。戦時中私を滅し公である国に尽くし報じることが美徳であるとされました。
非の論理でいいますと、非私非公、私に非ず公に非ずということです。
 いい加減なバランス感覚です。仏教では中道といいます。
お念仏のみ教え南無阿弥陀仏のおはたらきは私たちにバランス感覚を呼び覚ます目覚めさせてくださる教えだと思います。
称名念仏の称ははかりと読み、お念仏はハカリだといわれます。
お念仏のハカリに乗るんです。お念仏がいい加減なバランスをとってくださるのです。
 どちらか選択する前にお念仏に聞きましょうということです。
南無阿弥陀仏の大きなお心に聞くなかに私たちの日々の生活を調えさせていただけるということではないでしょうか。
 
 日頃から南無阿弥陀仏、阿弥陀さまのお心を聞いておきましょう。
ナンマンダブナンマンダブとお念仏を申すそのままにお念仏を聞いてまいりましょう。
 阿弥陀さまのお心を聞かせていただくなかに
迷いの衆生の私たちにこの道を往けと阿弥陀さまが確かに確かに知らせてくださる教えであるといただきます。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.10.25)

私たちはお念仏のお仲間兄弟です

2018-10-24
 昨日は別府の別院で大分教区の僧侶研修会がありました。
テーマは人権差別についてということで、お寺の研修として皆さんはえっと思われることかもしれません。
 
 いつもお勤めの最後に『浄土真宗の教章』を皆さんで唱和しますが
そのなかで「私たちの宗門は同朋教団」という文言がでてきます。
 同朋とは仲間、兄弟ということです。親鸞聖人は御同朋御同行と言われて御の文字をつけられます。
皆さん私たちは阿弥陀如来の本願念仏のみ教えにつながったお仲間兄弟ですよというのです。
 
 阿弥陀さまの本願念仏のお救いは誰しも分け隔てしない平等のお救いといわれます。
男女を問いません。善悪を問いません。老いも若きもお金持ちも貧しき人も問いません。健康な人も病人も問いません。
みんな等しく救われていくなかにこの私が救われていくと親鸞さまはいただかれたのです。
 
 ただ教団という人と人とが織りなす一つの社会、組織のあり方のなかで
人が生きる人権を損なうような差別事象を引き起こしてきた教団の歴史があります。
 親鸞さまのお心に返っていきましょうということで同朋運動といいますが
僧侶だけでなくご門徒の皆さんも一緒に学んでいきましょうと研修を重ねてまいりました。
 
 昨日は30人ほどが参加でした。
ご講師は36歳で昨日の参加者のなかで一番若かったです。
 初めて先生に会って皆さんはどんなことを思ったでしょうか。
私は若いなと思いました。こうした研修会ではいつもその道のベテランで年輩の方が講師をされるのが常でした。
講義の後の話し合いで同じような感想をもたれたという参加者が
そこにもうすでに偏見というものの見方があると反省され発言されました。
 
 私たちは人それぞれ違うものの見方をもって生きています。
人を見るときも自分のものの見方、私の固定観念やその時どきの私の都合で見ています。
そうしたものの見方が私たちの人と人との関係において邪魔をすることがたくさんあります。
 お互いに南無阿弥陀仏のみ教え阿弥陀さまのお心に返っていきましょうということなのです。
 
 私たちはお念仏の輩お仲間であります。
お念仏申すなかでお互いを思いやり、一人でも多くの方隣の方にもお念仏のお心を勧めてまいりましょう。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.10.24)
円光寺
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