「おらが死んだら親さまたのめ」〜源左さんのお話〜
昨日のお話で妙好人・源左さんのことばを紹介しました。
源左さんは本名足利喜三郎、出雲の国今の鳥取県の方で、江戸時代末期から昭和初期にかけて89歳のご生涯でした。
18歳の時にお父さんが急逝します。臨終の時に「おらが死んだら親さまたのめ」と言われたそうです。
死ぬということ、親さま、たのむとはどういうことかと、源左さんの求道聞法が始まります。
取り次ぎ寺(所属寺)の願正寺にご縁ご縁に何度もお参りしお聴聞を重ね、ご院家さんに膝詰めで聞いたそうです。
親さまとは阿弥陀さまのことで、阿弥陀さまの念仏一つの救いの法にまかせよと聞いて
源左さんはすーっといただけなかったといいます。
そして29歳の夏の朝のこと、いつものようにデン(牛)を連れて草刈りに行きます。
草を刈り束にしてデンに背負わせて家に戻るのですが
一束二束とデンに背負わせ次に草束を担がせようとした時に「ふっとわからせてもろうた」といいます。
この草束は源左さんの業、私たち一人一人がもっている
誰にも代わってもらうことができない自ら生涯背負っていかなければならないものです。
煩悩の心であり私たちの苦しみ悩み迷いの本です。
この草束をそのまま背負うデンに阿弥陀さまの必ず救うてくださるおはたらきを知らせていただいたのです。
私の苦しみ悩みをそのまま背負うてくださる阿弥陀さまです。
その草をデンが食べて生きるように、この私を救うことが阿弥陀さまのお仕事おはたらきといただかれたのです。
ふっとわからせてもろうたといいます。
私たちは私が私がと自分のところに力を入れて生きています。
人に頼み事はしない自分のことは自分でやると自分でしっかり生きていくことが立派な生き方とばかりに生きています。
その志は本当に尊いことです。
ただね、どんなに頑張っても頑張っても頑張れないことってあるんですね。
生死の苦悩です。人生は苦なりと、自分の思い通りにはならないのです。
苦しみ悩み迷いの中にある私を阿弥陀さまはもうすでにご承知でこの私をそのまま背負ってくださっている
おはたらきが南無阿弥陀仏なのです。
阿弥陀さまの大きな大きなお慈悲のおはたらきを源左さんは口ぐせのように
「ようこそようこそ南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」とお念仏申しよろこんで89歳のご生涯を生き抜かれたのです。
そのお念仏が子や孫に隣の有縁の方に伝わって、こうして私のところに届けられているのです。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.4.6)
ニセモノとホンモノ
振り込め詐欺の事件が後を絶ちません。次から次と新手の詐欺がでてきます。
誰しも詐欺に引っかかりたくないですよね。
詐欺に遭うとはニセモノをつかまされるということです。
では詐欺に遭わない対処法はというと常日頃からホンモノに親しんでおくということでしょう。
浄土真宗は真実まことの宗教といいます。
歎異抄に「煩悩具足の凡夫 火宅無常の世界は よろづのこと みなもつてそらごとたわごと まことあることなきに
ただ念仏のみぞまことにておはします」という御文があります。
「ただ念仏のみぞまこと」です。
念仏だけがホンモノだということは、他の世間の事柄はみんなニセモノということになります。
実はこの私もニセモノと聞かせていただきます。
ニセモノなんて言われたくないし、私はホンモノのこの私を生きていると思っているのではないでしょうか。
仏さまはこの私を煩悩具足の凡夫と教えてくださいます。
これも素直に「はいそうです」とは頷けません。
お念仏をよろこばれた妙好人の因幡(現鳥取県)の足利源左同行のことばに
「偽(にせ)になったらもうええだ。なかなか偽になれんでのう」とあります。
ある時「このわしゃ偽同行で、寺に参れば阿弥陀さんの前へ出て、念仏喜ばせてもらうけんど
家に帰ってくると忘れてしもうて全くわしゃ偽同行だいなあ」というある人のことばに対してだそうです。
偽も偽、これほどのニセモノはないのに、何かホンモノ面して自分はホンモノで
他の周りの言うことを聞かないものは全てニセモノとはからい決めつけて生きている驕り高ぶる愚かな私を
阿弥陀さまがニセモノと知らせてくださるのです。
「偽になったらもうええだ」とニセモノと知らせてくださるところに
真実まことの南無阿弥陀仏の仏さまがいらっしゃるのです。
仏さまに遇わせていただいてニセモノの私が知らされそのまんま必ず救われていくこの身を喜ばれたということです。
常日頃からホンモノに親しんでおくことが肝要です。
真実まことのお念仏のみ教えを聞かせていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.4.5)
浄土真宗というお救い、浄土真宗は阿弥陀さまのお救い、お念仏一つのお救いです
昨日は阿弥陀さまという仏さまは声になった仏さまというご法話を拝読させていただきました。
いつでもどこでもこの口に称えることができる声になってくださいました。
この後『浄土真宗の救いのよろこび』を皆さんでご唱和させていただきます。
「阿弥陀如来の本願は 必ず救うまかせよと 南無阿弥陀仏のみ名となり たえず私によびかけです」で始まります。
阿弥陀さまは「必ず救うまかせよ」と南無阿弥陀仏となって私たちを喚んでくださってあります。
ナンマンダブツナンマンダブツとこの口からお念仏が出てくださるというのは
もうすでに阿弥陀さまの大きな大きなおはたらきのなかに抱きとられてあるということです。
私の口に称えるお念仏ですが、そのまま聞けよといわれます。
南無阿弥陀仏の大本です。
阿弥陀さまはどんな仏さまで、この私をどう救うてくださるのか、南無阿弥陀仏のいわれを聞かせていただくのです。
空念仏といいます。お念仏そのものは有難い阿弥陀さまのお喚び声です。
ただ口に称えるだけだったらこれほどもったいないことはありません。
声に出してお念仏申せばよいと思い込み
そこに座りこんでしまったら阿弥陀さまのお心に遇わずじまいになることです。
阿弥陀さまがこの私を「この如来にまかせよ、必ず救う」と届いてくださっているのが南無阿弥陀仏です。
迷いの中にありながら迷いを迷いと気づくことなく朝から晩まで私が私がと煩悩の心をたぎらせて生きている私たちです。
ただ迷い苦悩し続けるしかないこの私を、何とか救いたいお浄土に往き生まれさせようと
阿弥陀さまは願いをおこされ成就して南無阿弥陀仏の仏さまと成ってくださったのです。
煩悩の心をなくしたら善いことをしたら救うという仏さまではありません。
ありのままの私をもうすでにご存知で煩悩の身そのままを救うとおはたらきなのです。
まかせよ救うそのまま救う必ず救うの南無阿弥陀仏のお心おはたらきを聞かせていただき
ナンマンダブツナンマンダブツと「おまかせします阿弥陀さま」「ありがとうございます阿弥陀さま」と
お念仏申させていただきます。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.4.4)
「声になってアミダさまはいらっしゃる」
今朝はご本山(京都西本願寺)発行の「仏教こども新聞」(2019.4月820号)から
今月のことば「声になってアミダさまはいらっしゃる」のご法話(前田純代師※原文のまま)を朗読させていただきます。
ナモアミダブツは声の仏さまです。
口でとなえると同時に、耳で聞く仏さまです。
みんながイメージする仏さまは木像や絵象の仏さまではないでしょうか。
目に見える仏さまは、とてもきれいですよね。
けれども、お寺やお仏壇など直接見える場所は限られていますよね。
アミダさまという仏さまは、どうしたら私たちといつでもどこでも一緒にいられるかを
長い長い時間をかけて考えられました。
そして、声の仏さまになることを選ばれました。
あなたがナモアミダブツと声に出せば、そこにアミダさまはいらっしゃって、あなたを抱きとってくださっています。
だからいつでもどこでもとなえてよいのです。
お風呂の中でも、トイレの中でも、お布団の中でも、ナモアミダブツととなえたとき
アミダさまはあなたとご一緒にいらっしゃいます。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.4.3)
新元号「令和」が発表されました
昨日は新元号が発表されるということで日本中が大騒ぎでした。
私もテレビの前でその瞬間を待ちました。予定の11時半を過ぎて11時40分頃でした
全国の皆さんが固唾をのんで静寂の中に菅官房長官の「新しい元号は令和です」という発表を聞きました。
「れいわ」と読みます。仏語読みでは「りょうわ」です。
この令の字はお経さんに令解(りょうげ)という言葉があって人々をさとりに導くという意味です。
ただ「りょうげ」というと了解する了や受領する領解する領を思い浮かべます。
浄土真宗では領解文といって阿弥陀仏のまことのご信心をいただいた肝要を文言にして仏祖に述べるものがあります。
令と領・了とはまったく意味が異なります。
受領の領、了解の了は私のことでいいます。私が受領する、私が了解するということで
仏さまと私の関係でいうとこの私が仏さまのみ教えを聞く領解するご信心をいただくさとるという意味になります。
ところが令は令解といってさとりに導くという意味ですから
さとりに導くのは私ではありません。仏さまなのです。
この令は詔(みことのり)といって天皇の詔ですから命令という意味になります。
律令社会の時代にあって広く天皇を中心にした法律をいうのです。
命令の令というと今の国民主権の民主国家にふさわしくありませんが
令には姿形いう意味があります。令嬢の令です。
令和という言葉は万葉集が出典といいます。
万葉集のなかの梅の花を詠んだ歌に「令月」という言葉があって姿形のよい月という意味です。
そして「風和ぎ」です。新春の頃月もよく清かに風もやわらかく吹いて気持ちもおだやかに歌を詠むということでしょう。
新元号が発表されるにあたって自分なりの予想をした人が多かったと思いますが
令の字は248番目の元号で初めて使われた文字だそうで大方の予想を裏切り新鮮な新元号の誕生となりました。
今回改めて一つの文字、言葉のいわれを聞くことで遠い古(いにしえ)の歴史や文化にふれて心豊かになります。
先人が遺し伝えてくださった言葉をたずねていくことの大切さを思います。
私たちの阿弥陀さまは言葉になられた仏さま、声になってくださった仏さまです。
南無阿弥陀仏の仏さまです。
南無阿弥陀仏のお心おはたらきをご縁ご縁にたずねてまいりましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.4.2)