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お念仏を申す生活法話

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12月8日はお釈迦さま成道の日です

 急に寒くなりました。今朝は室内温度で昨日に比べて5,6度低かったです。
今冬初めて本堂にストーブを入れていただきました。ありがとうがざいます。
 
 今日12月8日はお釈迦さまが成道、おさとりを開かれた日と伝えられています。お釈迦さま35歳の時だったといいます。
北インドの小国の王子に生まれ29歳の時に出家して6年間苦行といわれる厳しい修行を積みますが
さとりを開くことができず心も体もボロボロになりスジャータという村の娘が供養した乳粥で体力を回復し
さとりを開くまでこの場を動かないと決心して菩提樹のもとで瞑想に入られます。
 そして49日目の暁の明星輝くなかにおさとりを開かれ仏陀、真実に目覚めた方に成られたといわれます。
お釈迦さまがさとられた真実の法を仏教というのです。
 
 お釈迦さまはおさとりを開かれしばらく菩提樹のもとで瞑想されていたといいます。
真実の智慧をえたという喜びの境地にひたるなかで
この尊い真実の法を人々に伝えていいものかどうか思案に暮れていたというのです。
 
 それは真実の法が難解で人々が理解できるかどうかという心配であり
真実の法を説いても自分の都合のいいように受け取ってかえって人々が混乱するのではないかという危惧でした。
 ついにはその場を立って真実仏のみ教えを人々に説いてまわる決心をされます。
それは私だけが真実の法を知って幸せになるのではなく一人でも多くの方に幸せになってほしいという願いであり
仏教は自分一人の喜び自分一人の幸せに止まる教えではなく
周りの他の方すべての人々を幸せにするなかに本当の幸せがあるという教えなのです。
 自利利他の教えこそが仏教なのです。
 
 80歳で入滅するまで45年間インド各地を伝道され続けられます。
人々の苦悩に寄り添い説かれた真実の教えが経典となって私たちのところに届けられてあるのです。
 親鸞さまはお正信偈さまのなかで「如来所以興出世 唯説弥陀本願海」と
お釈迦さまがこの世にお生まれになったのは阿弥陀如来の本願他力の救いの法を説くためであったとお示しです。
 
 12月8日は私たち仏教徒にとって大切な日です。
寒くなりましたがどうぞお体に気をつけて今日の一日もお念仏申すなかにお釈迦さまを偲ませていただきましょう。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.12.8)

お念仏申す身に障りなし

 昨日の午後4時間ほどソフトバンクの携帯電話の通信障害が発生し各方面で大きな影響がでたということです。
私たちの今の日常生活が携帯とかスマホとかの通信機能に頼っていることを改めて思います。
 
 スマホ一つあれば何でもといっていいほど便利な生活になっています。
ところが便利というのは不便の反対で、便利なものが機能しなくなると忽ちに私たちの生活そのものが機能しなくなり
不便な生活を余儀なくされることにもなるということです。
 私たちは何を依りどころに生活しているのかなと考えさせられます。
 
 お念仏が身に付くというお話を再々させていただきます。
お念仏のみ教えを聞かせていただき信心いただいてお念仏申す身にさせていただくことが肝要です。
 
 私は携帯電話がいまだに身に付きません。よく家に忘れて外出します。携帯電話が携帯電話になっていません。
携帯電話をいつも持っていることこそが携帯電話が身に付くということですが
お念仏が身に付くとはお念仏というものを持っていることではありません。
 お念仏が身に付くからこそこの口からナンマンダブツとお念仏が出てくださるお念仏申すことができるのです。
携帯電話のようなお念仏というものがあってお念仏したりしなかったりというのではなく
お念仏がこの身に付いてくださって、いつでもどこでもお念仏申すことができるお念仏が出てくださるのです。
 
 通信機能が故障した云々の話ではなくもう既にこの私は阿弥陀さまの大きな大きなお慈悲のなかに
まさに抱き取られ生かされてあるということが浄土真宗のご法義お念仏の救いなのです。
 
 聞けよ聞けよ聞いてくれよと南無阿弥陀仏がおはたらきです。
まだまだ早いもう少し歳になって暇ができたら聞こうといって
その時が来たら聞けますが、それではいつまでたってもお念仏が身に付くことにはなりません。
 
 私のこの身は自分の身であって自分の思うようになりません。
思い通りにならないこの身だからこそ阿弥陀さまの方でこの身すべてをそのまま引き受けてくださるのです。
そのおはたらきこそが南無阿弥陀仏と聞かせていただきます。
 
 南無阿弥陀仏のおはたらきに障害はありません。
いつでもどこでもどんな障害も障りなくお念仏申せることの有難さお念仏申す身にさせていただく有難さを思います。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.12.7)

「お寺にお参りできなくてすみません」

 ご門徒さんのお家お家に報恩講のお参りをさせていただいています。
お勤めの後にお茶をいただきながらいろんな話になります。
 お寺によくお参りされていた方で婦人会のお手伝いもよくされていた方が
足腰が弱って思うように動けなくなり「お寺にお参りできなくてすみません」と何度もすみませんと言われます。
これまでもお参りするたびにすみませんと言われます。
 「すみませんじゃありません。こうしてお家のお仏壇からお参りしてください」とお話しました。
 
 80歳を過ぎて自分の身が自由にならない思い通りにいかない生活のなかで
仕事に行ってらっしゃる家族の方から「仕事から帰った時に灯のついている家に帰れることが有難い」と言われて
家で待っている私のお役目があると思って何とか頑張っていますと言われます。
 
 人それぞれ生活ぶりは違いますが、役に立つとか役に立たないとかいう話ではありません。
私にできる精いっぱいのことをさせていただくなかに私たちの日々の生活があることを思います。
 家族であったり友人であったり職場の同僚であったりと
人と人とのつながりのなかにお互いに思いやり生きていくことの有難さを思います。
 
 お念仏申す生活です。
南無阿弥陀仏という同じ中心をいただいて生きる私たちはお念仏の同朋きょうだいです。
生活ぶりは違っても同じ帰るところがあると聞かせていただきます。
共々にお念仏の道を歩ませていただく私たちはお念仏の同行です。
今日も一日お念仏申して南無阿弥陀仏の大きないのちのつながりのなかに生かされて生きてまいりましょう。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.12.6)

冬の夜空に明けの明星が輝いています

 暖冬と言われます。昨日は特別に暖かくというより暑くて国東市で27度大分市でも25度の夏日になりました。
 
 昨日の朝6時の鐘をつくのに東の空に下弦の三日月がうかび右側に大きな星が輝いて何だろうかと思いました。
そんな話を報恩講参りでしたら、その星は明けの明星といわれる金星だと教えてくださいました。
金星は地球に一番近い恒星で、この時期は明けの明星といい朝の明け方に東の空に出て
3月から9月にかけては宵の明星といって夕方宵の頃西の空に出るそうです。
 
 今はものごとをネットで気軽に調べ容易に知識を得て理解納得できますが
昔の人は月や太陽、星など宇宙の壮大な営みをどのように見て生活していたのでしょうか。
 今のような科学的な知識がなかった時代
太陽が隠れたり、月が欠けたりする様子に何か不吉なことが起こるのではと不安に思ったりしたことでしょう。
世の中の動きと合わせて吉凶を占うこともあったと思います。
 
 風の向き雲の動き雨の降り具合など自然現象に敏感に対処し生活して振り回されることもあったでしょうし
大自然への畏敬の念は本当に大きなものがあったと思います。
 
 今は自然のことも科学的にいろんなことが解明され当たり前のように分かっているつもりですが
ただ科学がどんなに進歩しては到底解明できない宇宙の不思議な謎はまだまだ多くあります。
 一番といっていいほど何が根本的にわからないのか。
いのちの不思議です。このいのちどこから来てどこに往くのか。
「自分のことは自分が一番わかっている」という自分自身のことです。
 
 縁があれば何をしでかすかわからないのがこの私だと仏さまは教えてくださいます。
親鸞聖人はこの私を阿弥陀さまに知らされて煩悩具足の凡夫とおっしゃっています。
阿弥陀さまの智慧の光に照らされて真っ暗闇のなかを彷徨うように生きているこの私を知らせていただくのです。
 知らせていただくということはもう既に阿弥陀さまの大きな大きな光明のなかに
必ず救うまかせよの南無阿弥陀仏のおはたらきがこの私に届いてあるということなのです。
 お念仏のご法義に遇わせていただき本願念仏の救いの法を聞かせていただきましょう。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.12.5)

年賀欠礼の喪中ハガキ

 今年大切なご家族がお亡くなりになったお家で
お正月のお仏壇のお飾りはいつものようにしてもいいんですかという質問がありました。
お仏壇にお餅などお正月のお供えは控えるべきだと周りの人から言われたというのです。
 
 お仏壇のことについては私の出番ですから、いつものお正月のお飾りのように
お餅をお供えするところはお餅をあげればいいし、あげるあげないはそのお家お家のことでいいんですよとこたえました。
 
 12月に入って早々に年賀欠礼の喪中ハガキが届きます。
「喪中につき新年年賀のご挨拶はご遠慮させていただきます」と印刷刷りで喪中ハガキの文面様式は決まっています。
62円のハガキでいつも何かもったいない気がします。
お別れした大切なお方の人となり思い出エピソードなど言葉を添えると心して読ませていただけると思います。
 
 新年のご挨拶を控えるということではなく新年のご挨拶でいいと思います。
浄土真宗的にいえば「大切な家族と別れて静かな新年を迎えますが
今はお浄土の仏さまとなっていつも私たちを見守ってくださっていると聞かせていただきお念仏申します
今年もよろしくお願いいたします」と書かれたらどうでしょうか。
 
 今や喪中ハガキが世間一般の常識みたいになっていますが
喪中といって先に往かれた方のことを思い生活を慎むということが大切です。
 お念仏申すなかに仏さまのみ教えを聞かせていただき
死んだら終いのいのちではなく南無阿弥陀仏の大きないのちのつながりのなかに
いよいよ共々に生かされて生きるお念仏の生活をさせていただきたいと思います。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.12.4)
円光寺
〒870-0108
大分県大分市三佐3丁目15番18号
TEL.097-527-6916
FAX.097-527-6949
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