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お念仏を申す生活法話

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延命治療を考える

 テレビで家族が倒れたとき周囲の決断は何をどう選択するのかという番組がありました。
意識がないとき通常救急車を呼んで緊急治療をしてもらいます。
救急隊の方が心臓マッサージをしたりしてたすかるということもありますが
救急病院に連れていかれると次は延命治療になります。
 人工呼吸器をつけたり胃ろうするといった選択もでてきます。
 
 延命治療で命は助かっても3、4年も意識が回復しないままの状態が続くと
すぐ近くの親子夫婦の関係のなかで見るのがつらいと後悔することもあると聞きます。
 ただこれは第三者が云々ということではありません。
 
 番組では元気なうちに夫婦で家族で話しておきましょうということでした。
一つの例として脳梗塞で倒れまだ意思表示ができるご主人と奥さんとのやり取りがありましたが
お医者さんがこれから起こりうることを説明したうえで
奥さんがこれから延命治療を望むのかと尋ねます。ご主人は「百まで生きたい」とこたえました。
 実は奥さんは意識がないままの姿を見るのはつらいという思いがあるのですが
そういう状況のなかでも生きたいということです。
 
 生きたいという欲です。命終わるまで生きたいというのが私たちの本心です。
ただこれはお互いのことなのです。往く人見送る人が決まっているわけではなくどちらが先に往くかはわかりません。
 
 人生の終い方です。死の縁無量で、私がどうこう決められることではありませんが
延命治療など死に方について元気なうちに考え話しておくことが大事です。
 元気な時に出した答えも齢を重ねてまたころっと変わっていくと思います。
元気なうちにその都度話をしておくことです。
 
 そうした話ができるのは御仏前仏さまの前だと思います。
「困ったときには仏さんに相談しなされや」と妙好人の言葉があります。
ナンマンダブツとお念仏申して相談しなさいということです。
 阿弥陀さまのお救いは私たちの生死の迷いを超える救いですからお念仏のみ教えがただ一つの依りどころです。
生死に向き合うことは難しいことですが
ナンマンダブツとお念仏を申すなかにお互いが向き合って話すのも大事なことだなと思いました。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.12.11)

ご法事にお参りするときの服装は?

 「ご法事にお参りするときの服装は黒の礼服でないといけないのですか?」と聞かれます。
黒の礼服でないといけないのではありません。平服でもいいのです。
ただ何でもいいのではなくその場にふさわしい心配りが大事だと思います。
 
 お坊さんの衣体(服装)は普段のお参りの時とご法事の時とでは違います。
ご法事のお勤めには決まった衣体の付け方があります。
普段は布袍輪袈裟ですが、法事の時には黒衣に五条袈裟をつけさせていただきます。
 ご法事の導師執行するお坊さんの衣体でいうならば
お参りする皆さんもそれなりの服装でご法事をお勤めさせていただきましょう。
 
 今日も皆さん門徒式章をつけていますが、この式章も中々身に付きません。
ご法事の時にはつとめて式章をつけましょう。
 普段のお参りの時から式章をつけるようにするといいのですが
せめてご法事の時には式章をつけるようにしましょう。
ご法事の施主の方からつけていただくとお参りされるご親族有縁の方も気がねなく式章着用ができると思います。
 
 信は荘厳からと言われます。
浄土真宗門徒として形を整える心意気を思います。
 信心いただくのもお念仏申すところからです。
ナンマンダブツとお念仏申してどうなるのか理解納得してからではなく
ナンマンダブツとお念仏を申すところからはじめましょう。
 
 お念仏申すところに南無阿弥陀仏のお心を聞かせていただきます。
この私を目当てに「まかせよ必ず救う」とおはたらきの仏さまがいつでもどこでもご一緒です。
ご先祖有縁の仏さまと共々にご法事のお勤めをさせていただける有難さを思います。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.12.10)

「寒いね」と あなたの声が あたたかい

 昨日から急に寒くなりました。朝起きるのがしんどくなります。
お朝事にお寺にお参りするのにまず布団から出る時決心が入ります。
 今日は仏教壮年会の例会だお朝事に参ろうと昨日から決心をして、今ここお寺の御仏前に皆さんお参りです。
じっとしていてここに居るわけではありません。私が朝の仕度を整えてお寺にお参りしたのです。
ただこの御仏前に座ってみると、仏さまがお寺参りの私にしてくださったといただけて有難く思います。
 
 お念仏のご法義おはたらきです。
ただ今ご一緒にお勤めができたのも仏さまに手を合わせお念仏申してお礼ができたのも
仏さまのおはたらきがあってのことだといただけます。
 
 私がするということではなくさせていただくということです。
お寺にお参りさせていただくお寺のお手伝いをさせていただくと、私がという力がちょっと抜けますね。
 私が私がという思いが強ければ強いほど私に力が入るといろんなことを思います。
私はこんなにしているのにあの人は何もしていないと他者を非難する思いも起こってきます。
 
 今月のことば「『寒いね』と あなたの声が あたたかい」です。
寒いなかに寒いと言って言われて何であたたかいのかということです。
 そこにあなたがいるということです。「寒いね」と言ってくれる、「そだねー」と共感してくれるあなたです。
一人じゃないということです。いつもあなたがいることのあたたかさです。
 
 南無阿弥陀仏のご法義おはたらきです。
ナンマンダブツとお念仏申すところに阿弥陀さまが親鸞さまがご一緒です。
すぐ隣にはナンマンダブツと同じお念仏を申す仲間がいます。
 お念仏申す生活をさせていただきましょう。
いつでもどこでも阿弥陀さまが親鸞さまがそしてご先祖有縁の仏さま方がご一緒に
南無阿弥陀仏と私のところに来てくださり私の口からナンマンダブツとお念仏が出てくださいます。
お念仏の声があたたかいです。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.12.9)

12月8日はお釈迦さま成道の日です

 急に寒くなりました。今朝は室内温度で昨日に比べて5,6度低かったです。
今冬初めて本堂にストーブを入れていただきました。ありがとうがざいます。
 
 今日12月8日はお釈迦さまが成道、おさとりを開かれた日と伝えられています。お釈迦さま35歳の時だったといいます。
北インドの小国の王子に生まれ29歳の時に出家して6年間苦行といわれる厳しい修行を積みますが
さとりを開くことができず心も体もボロボロになりスジャータという村の娘が供養した乳粥で体力を回復し
さとりを開くまでこの場を動かないと決心して菩提樹のもとで瞑想に入られます。
 そして49日目の暁の明星輝くなかにおさとりを開かれ仏陀、真実に目覚めた方に成られたといわれます。
お釈迦さまがさとられた真実の法を仏教というのです。
 
 お釈迦さまはおさとりを開かれしばらく菩提樹のもとで瞑想されていたといいます。
真実の智慧をえたという喜びの境地にひたるなかで
この尊い真実の法を人々に伝えていいものかどうか思案に暮れていたというのです。
 
 それは真実の法が難解で人々が理解できるかどうかという心配であり
真実の法を説いても自分の都合のいいように受け取ってかえって人々が混乱するのではないかという危惧でした。
 ついにはその場を立って真実仏のみ教えを人々に説いてまわる決心をされます。
それは私だけが真実の法を知って幸せになるのではなく一人でも多くの方に幸せになってほしいという願いであり
仏教は自分一人の喜び自分一人の幸せに止まる教えではなく
周りの他の方すべての人々を幸せにするなかに本当の幸せがあるという教えなのです。
 自利利他の教えこそが仏教なのです。
 
 80歳で入滅するまで45年間インド各地を伝道され続けられます。
人々の苦悩に寄り添い説かれた真実の教えが経典となって私たちのところに届けられてあるのです。
 親鸞さまはお正信偈さまのなかで「如来所以興出世 唯説弥陀本願海」と
お釈迦さまがこの世にお生まれになったのは阿弥陀如来の本願他力の救いの法を説くためであったとお示しです。
 
 12月8日は私たち仏教徒にとって大切な日です。
寒くなりましたがどうぞお体に気をつけて今日の一日もお念仏申すなかにお釈迦さまを偲ませていただきましょう。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.12.8)

お念仏申す身に障りなし

 昨日の午後4時間ほどソフトバンクの携帯電話の通信障害が発生し各方面で大きな影響がでたということです。
私たちの今の日常生活が携帯とかスマホとかの通信機能に頼っていることを改めて思います。
 
 スマホ一つあれば何でもといっていいほど便利な生活になっています。
ところが便利というのは不便の反対で、便利なものが機能しなくなると忽ちに私たちの生活そのものが機能しなくなり
不便な生活を余儀なくされることにもなるということです。
 私たちは何を依りどころに生活しているのかなと考えさせられます。
 
 お念仏が身に付くというお話を再々させていただきます。
お念仏のみ教えを聞かせていただき信心いただいてお念仏申す身にさせていただくことが肝要です。
 
 私は携帯電話がいまだに身に付きません。よく家に忘れて外出します。携帯電話が携帯電話になっていません。
携帯電話をいつも持っていることこそが携帯電話が身に付くということですが
お念仏が身に付くとはお念仏というものを持っていることではありません。
 お念仏が身に付くからこそこの口からナンマンダブツとお念仏が出てくださるお念仏申すことができるのです。
携帯電話のようなお念仏というものがあってお念仏したりしなかったりというのではなく
お念仏がこの身に付いてくださって、いつでもどこでもお念仏申すことができるお念仏が出てくださるのです。
 
 通信機能が故障した云々の話ではなくもう既にこの私は阿弥陀さまの大きな大きなお慈悲のなかに
まさに抱き取られ生かされてあるということが浄土真宗のご法義お念仏の救いなのです。
 
 聞けよ聞けよ聞いてくれよと南無阿弥陀仏がおはたらきです。
まだまだ早いもう少し歳になって暇ができたら聞こうといって
その時が来たら聞けますが、それではいつまでたってもお念仏が身に付くことにはなりません。
 
 私のこの身は自分の身であって自分の思うようになりません。
思い通りにならないこの身だからこそ阿弥陀さまの方でこの身すべてをそのまま引き受けてくださるのです。
そのおはたらきこそが南無阿弥陀仏と聞かせていただきます。
 
 南無阿弥陀仏のおはたらきに障害はありません。
いつでもどこでもどんな障害も障りなくお念仏申せることの有難さお念仏申す身にさせていただく有難さを思います。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.12.7)
円光寺
〒870-0108
大分県大分市三佐3丁目15番18号
TEL.097-527-6916
FAX.097-527-6949
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