あなたも私もみんな光の中
2024-01-26
京都アニメーション放火殺人事件の裁判員裁判で
京都地裁は被告に「死刑」の判決を言い渡しました。
36人が亡くなった凶悪事件で
被告本人も罪状を認めていることから
求刑通り「死刑」が予想されていましたが
弁護側は心身喪失で刑事責任能力がなかったと
「無罪」を主張していました。
2019年7月の事件から4年半が経ち
初公判から143日目の結審です。
長い時間が過ぎ行く中で
懸命の手術治療で命助かった加害者から
事件に至るまでの真相の詳細は語られず
被害者家族有縁の方々の思いは
「何でどうして」と
今も悶々として大切な人の死を受け入れ難い
心情に変わりはないといいます。
死刑判決が出たところで
死刑が執行されたところで
大切な人はかえってきません。
その無念悔いやるせなさは
いつまでも尽きることはないでしょう。
判決文には被告の生い立ちから
これまでの人生の歩みが書かれていました。
親の離婚貧困虐待と人間不信が強き
社会から孤立していくなかで
妄想思い込み等の不安定な精神状態が記されていますが
私たちが共に生きる現代社会の闇を思います。
闇は光によって破られますが
闇の中にいると闇が闇とはわからないままに
自己中心の思いだけに執らわれ生きることで
自暴自棄になってしまう
縁があれば私たちもその一人になりかねない
深淵な心の闇です。
光に遇うことで闇が闇と知らされますが
闇と気づく
もうそこは光の中です。
無明の闇に生きる私たちを
阿弥陀仏は光明を放って救ってくださると
お念仏のお救いを聞かせていただきます。
あなたも私もみんな
阿弥陀さまの智慧と慈悲の光明の中に
共々に生かされて生きているのです。
この社会を共に生きる私たちです。
お念仏のみ教えを聞かせていただき
私にできることをさせていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2024.1.26)
知識と智慧
2024-01-25
仏教は智慧の宗教といわれます。
智慧とは「如実知見」といって
真実ありのままの姿をありのままに見ることのできる
仏さまのさとりの眼です。
一方私たちはこの世に生まれてこの方
多くの人と出会い関係するなかで
先人先輩から知識を習得積み重ねることで
この人生を生きてきました。
知識はこの社会を生き抜く依り処となって
私を支えてくれますが
ものを知った分かった判断したと
その量が問題となり、智者と愚者を分別し
知識を誇るあまり、自らの立場に固執することになります。
また、すべてのものを対象的に見ることで
「人間はすべて死ぬ」という知識は持っても
「自分が死ぬ」とは思えないような見方にもなります。
仏法は知識の量を問題にすることはなく
むしろ仏法の妨げにさえなることもあります。
知識を誇り自分の考えだけが正しいと考える
「邪見」であり
その量をほこる「憍慢(きょうまん)」です。
仏の智慧とは
邪見や憍慢という自己中心にものを見る
一切の執らわれから解放されて
ありのままにものを見ることができる眼です。
阿弥陀仏が智慧の眼でご覧になった
「私」のありのままの姿とは
どのように励んでみても救われようのない
「地獄必定のこの私」でした。
この私をこそ必ず救うと
阿弥陀仏は本願をたてられ成就して
光の中に摂め取ってくださったのです。
「地獄必定のこの私」は
阿弥陀仏の光の中にこそ気づかしめられるのです。
どこまでも私の思い通りにならない
苦難の人生にあっても
阿弥陀仏の智慧と慈悲の光の中を
南無阿弥陀仏のおはたらきにまかせて
往生浄土の人生を共々に歩ませていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2024.1.25)
「他力とはあなたをブッダにする力」 ※転載
2024-01-24
「自力」「他力」って
どんな時に使ってますか?
「自分の宿題くらい、自分でしなさい。
他人にやってもらっちゃダメでしょ!」。
こんな時に「自力」「他力」を
使っていませんか?
でも本来の意味ではありません。
正しくは、自分の成仏道における在り方について
使われる仏教用語です。
成仏道とは
私がブッダに成る道のこと。
ブッダは覚者とも言い
世の中のありのままを自分の都合という色眼鏡をかけずに
まさにありのままに見ることのできる存在です。
キリスト教では
私たち人間がゴッドになることはできません。
ですから愛しい人を残して
この命を終えていかなければなりません。
しかし仏教では
私たち人間もブッダになれ
この命を終えたとしても
自在な力を恵まれ
念仏となって愛しい人のそばに居続けることができます。
この成仏の方法について
自分で智慧の眼を磨こうとするのが「自力」。
そして、自分の都合というフィルターを除くことは
私たちには無理だと智慧の眼で見抜いた阿弥陀仏が
阿弥陀仏の力を届けることで
私たちをブッダにしようとされる力を
「他力」というのです。
※満井秀城 師(本願寺新報『本願寺インスタ倶楽部』)
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2024.1.24)
二七日のご縁です
2024-01-23
母が往生して二七日のご縁です。
大切な人とお別れする悲しみのご縁ですが
そのまま仏さまのご縁といただける有難さです。
先にお浄土に往かれた方は
今は仏さまとなって私たちの世界に還って来て
私たちを護り救う
南無阿弥陀仏のおはたらきをしてくださっていると
浄土真宗のみ教えを聞かせていただきます。
仏教は仏の教えです。
2600年ほど前にインドにお生まれになった
お釈迦さまが開かれました。
仏というと
死者を連想される方が多いと思いますが
仏とは覚者という意味で
真実ありのまま本当のことを覚られた方をいいます。
真実に目覚めるということですが
覚者の仏さまから見た私たちは
真実に目覚めていないと教えます。
そしてこの私を真実に目覚めさせるのが
仏さまなのです。
仏教には
真実に目覚めることなく迷いの境涯にあるこの私を
覚りの仏に成らせる成仏道が説かれているのです。
目覚めるというと
私たちは朝起きて目が覚めますね。
この私の目ですが
仏さまはこの私の目に問題ありというのです。
この目で私たちはものを見ますが
私が見るものの見方は
どこまでも自分中心で自分の都合に合わせて
ものを見ていると教え
そこに苦しみ悩み迷いの原因があるというのです。
3人のお友だちが集まって
その中の二人が「あの人」の話を始めます。
一人はあの人は「良い人だ」と言い
もう一人は「悪い人だ」と言います。
そしてその話を聞いていたあとの一人は
「あの人って誰のこと?」と言います。
「あの人」は同じ人ですが
見方によって「良い人」「悪い人」「関係ない人」と
それぞれ違います。
ただ共通しているのは
三人ともそれぞれ自分の都合で見ていることです。
だから「あの人」を見る同じ人の目も
「良い人」から「悪い人」にくるっと変わるのです。
自分の都合自分中心のものの見方に執らわれ
真実ありのまま本当のことが見えないで
小さな世界に固く閉じこもり
自分の思い通りにならないことに腹を立て
苦しみ悩みを募らせるのです。
煩悩をたぎらせ苦悩の境涯を生きている
私たちを見抜かれた阿弥陀如来は
すべてのものを分け隔てなく必ず救うと
ご本願をたて成就して南無阿弥陀仏のおはたらきで
この私を浄土に生まれさせ仏にさせてくださるのです。
私たちの仏教を浄土真宗といいます。
本願念仏のお救いの教えを聞かせていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2024.1.23)
自分の都合で付いたり離れたり
2024-01-22
自民党の政治資金パーティの裏金問題は
検察庁特捜部の一応の捜査終結をみましたが
諸悪の根源と目される
自民党の派閥の解散が大きく取り上げられています。
大きな組織の中にそれぞれのグループができて
権力闘争の構図です。
派閥の利権は「カネと人事」といわれます。
有力者のいる派閥に属することで
カネと人事の面倒を見てもらおうと派閥に入り
パーティ券の販売に奔走した結果の事件です。
政治家の本分を忘れた本当に情けないことですが
これは政治の世界自民党だけのことではなく
こうした社会の構図は
私たちが属する身近な組織でも見かけることです。
「寄らば大樹の陰」「長いものに巻かれよ」と
昔から大きなグループの有力リーダーに身を寄せるのが
私たちの世渡りの術ですが
そのグループ内でもまたグループができて
自分の都合で付いたり離れたりの人間関係です。
親鸞聖人は
「弟子一人ももたず候」(歎異抄)と
お念仏の仲間を御同朋御同行と敬い
生涯お寺を建てなかったといわれます。
お寺も一つの社会組織です。
組織を運営するには経費も要りますし
それぞれの役割分担が機能してのことです。
お寺もやっぱり「カネと人事」かということですが
南無阿弥陀仏の中心をいただくことで
依るべき処帰る処があるのです。
人と人とが向き合う中には
互いに思い通りにならない不平不満が出てきて
そこに「付いた離れた」という関係が生じます。
お念仏のともがらの関係は
南無阿弥陀仏のご縁つながりです。
わが弟子ひとの弟子という関係ではありません。
「つくべき縁あればともなひ
はなるべき縁あればはなるる」(同上)と
お互いの顔色を気にすることなく
お念仏申す生活をさせていただきます。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2024.1.22)