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お念仏を申す生活法話

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8月31日に思う

 今日は8月31日です。
今は夏休みが早く繰り上がってもう学校は始まっていますが
私が学校の頃は8月31日が夏休み最後の日でした。
 
 8月31日は私にとって良い思い出はありません。
夏休みの宿題を早く済ませてゆっくり夏休み最後の日を遊んで過ごせばいいのですが
最後の最後まで宿題に追われる始末です。
 早く宿題を済ませておけばよかったと悔やんでも仕方ありません。
 
 今日31日の御文章さまは「大聖世尊の章」です。
まさに一月の終わり31日にあって人生の終わりに重ねて私たちのあり方を教えてくださいます。
 
 どんな人もこの命いつか必ず終えていかねばなりません。
まさに無常の世に生きる私たちですが
「ただいたずらに明かしいたずらに暮らして年月を送るばかり」と私たちの生活ぶりを指摘されます。
それこそ明日がある明日があると宿題を先送りにして日々生きている私たちです。
 
 それこそ嘆かわしいことはない本当にもったいないと言われ
阿弥陀仏の本願念仏の法に遇うことをすすめられるのです。
 「何のために人間に生まれてきたのか、生きているのか」「死んだらどうなるのか」という人生の宿題です。
仏法に聞かせていただきましょうと、仏法に遇うために人間に生まれて来たのですよというのです。
 
 臨終です。この人生の終わりに臨んで不安や苦悩が交錯するなかで仏法を聞かせていただくことは甚だ難しいです。
だからこそ南無阿弥陀仏の法に早く出遇ってほしいというのがこの御文章さまのお心なのです。
 
 南無阿弥陀仏のお念仏となって今こここの私のところに至り届いてくださっているのです。
南無阿弥陀仏「我にまかせよ必ず救う」と喚び通しに喚びかけおはたらきになっている
阿弥陀さまのお心を聞けよというのです。
 それは今です。今聞けよというのです。
いたずらに毎日を過ごしている私たちをすでに見抜かれた阿弥陀さまが
座っておれなくて立ち上がってそのまま救うとおはたらきになっているのです。
 
 8月31日夏休み最後の日です。
人生最後の日と重ねてお念仏を申すなかに今日一日も日暮しさせていただきましょう。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.8.31)

ようこそお参りなさいました。ありがとうございます

 朝から大雨の中をようこそお参りなさいました。
昨日はコンパルホールで年一回の大分まちなか法話会をもちました。
お二人の先生にご出講いただいて準備から何やらで終わって少々疲れ気味です。
 
 大変多くの方にお集まりいただきました。
いつも申していることですが、これは人数ではありません。
その人人がご縁に遇うことが大事なのです。
 ただ主催する方は一人でも多くの方にお参りしていただきたいと思いますので
30分ぐらい前から開会の時間が近づくほどにまだかなまだかなもう少しもう少しと皆さんをお待ちしたことです。
 
 円光寺のご門徒も大海組の他のお寺のご門徒ご縁の方もお参りでした。
なかには初めてお会いするような方もいらっしゃいました。
 ご門徒中ご縁の方々にできる限りチラシを送ってご案内し重ねて個人的に声かけをしてお誘いしました。
そしていつもご縁のあるご門徒有縁の方が私と同じ気持ちをもって
ご家族お友だちお一人お一人に声かけをしてくださったことだと本当に有難く思います。
 
 仏さまのご縁に遇うということです。
何かいつでも思い立ったらできそうでこれが中々難しいのです。
 私たちの思いです。
今日のお朝事もこんなに雨が降っていたら「雨が降るから今日はお休みしよう」という気持ちにもなるのが私たちです。
ただ皆さんが違うのは、皆さんがお朝事の主催者になっているということです。
 阿弥陀さまの正客です。
私たちはただのお客さんではないということです。
 私がお参りしなかったら誰がお参りするのかといった思いが皆さんにはあるのではないでしょうか。
 
 昨日のことでいったら誰彼から誘われて一緒に来られた方もたくさんいらっしゃったと思います。
それがご縁になるのです。
仏さまのご縁になって今度は自ら隣の人に声かけをしお誘いするようになるとしめたものです。
ほんものになるのです。阿弥陀さまの正客になるのです。
縁ある人にお誘いしてご一緒して仏さまのご縁に共々に遇わせていただこうという尊い思いです。
 
 昨日もお寺からご本尊の阿弥陀さまのお仏壇をお供して参りました。
仏さまのご縁です。
 コンパルホールという場所ですが仏さまのご縁をいただけるのです。
仏さまのご縁はお寺だけのご縁ではありません。
 皆さんのお家でいったらお仏壇です。
お仏壇のお仏間でご家族一緒に仏さまのご縁をいただきます。
 
 仏さまのご縁はいつでもどこでもこの私のために開かれているのです。
ご縁ご縁に仏さまのご縁に遇わせていただきましょう。
 そのこと一つ皆さんお一人お一人にお伝えさせていただくなかに昨日第5回の法話会ができました。
本当に尊いこと有難いことこの上ありません。
 ご縁いただいてこの私が阿弥陀さまの御仏前に座らせていただけるのです。
そして私の隣にもご縁の方々がご一緒です。
お念仏申して共々にお浄土への人生を歩ませていただきます。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.8.30)

我が名をよんでくださってあるお念仏です

 京都アニメ―ションの放火事件で35人の方が亡くなり10名の方が実名を公表されていましたが
他の25名の方の実名がこのたび公表されたということです。
 
 今朝の大分合同新聞の「東西南北」欄にありましたが、35人の中に大分県出身の方が一人いらっしゃたということです。35名といって大変重大な事件だということですが特に関係のない方にはいつか忘れられてしまいます。
 そのなかでそれこそ近所の小さい頃からよく知っていた人がいらっしゃったということです。
その人のお父さんも母さんもいらっしゃった、おじいちゃんもおばあちゃんもいらっしゃったというなかに
事件のことをわが身のこととして生活のなかに実感することがあるというのです。
 
 数字だけのことではありません。
35人それぞれにその人その人の生活がありその人その人の人生があったということです。
 その人人に思いを寄せるなかで、痛ましい事件ということを身近に実感し
このような事件は二度と起こしてはいけないと反省し忘れないで思っていくのが私たちのつとめだと思います。
 
 実感ということです。
さて皆さん阿弥陀さまに救われているという実感がありますか。
 阿弥陀さまのお救いのみ教えを聞いても耳の右から左へ通り抜け
その時は「そうやな、有難い阿弥陀さまのお救いやなあ」と思うことがあっても
私たちの日々の生活のなかで実感するということは中々難しいことだと思います。
 
 ただ阿弥陀さまという仏さまは私たちがどう思うか思わないか感じるか感じないかにかかわらず
常にこの私に寄り添い必ず救うとおはたらきの仏さまになってくださったという教えなのです。
 
 十方衆生を救うといって何人救うという人数ではなく
その人その人一人一人この私に寄り添ってくださってあると聞かせていただくのです。
 この私をこそ救わずにはおかないとすっと立たれたおすがたがこの前の阿弥陀さまであり
この私をこそ必ず救うと仕上げられたのが南無阿弥陀仏のお名号お念仏だということです。
 
 ナンマンダブツナンマンダブツとお念仏を申すなかに私を喚んでくださっているのです。
我が名をもって喚んでくれてるのです。
 
 そのこと一つ心に入れてお念仏を申すなかに
いつでもどこでも阿弥陀さまが南無阿弥陀仏となって「我にまかせよ必ず救う」と
それこそ叫ぶように何度も何度も喚び通しに喚んでくださってあると
日々の生活のなかに聞かせていただきましょう。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.8.29)

私の依って立つところ

 この時期にしては珍しい長雨でそれも大きな雨になっています。
雨の中を今日もようこそお朝事にお参りなさいました。
 
 私事ですが最近色んなことがあってといいますか
昨日も別府の別院で大きな会がありその後会議もあったりして何やかんやで
一体何をしているのかよくわからないフラフラしている状況で
こんなことではいけないしっかりしないといけないと力が入ります。
 
 よくない状況から立ち直るといいます。
依って立つところに立ちかえるのです。
帰るところです。
 
 「帰るところがある安心」といいます。
皆さんこれからお家に帰りますね。
帰る家があるから安心して今があるということです。
 
 お念仏のご法義に重ねて
この命終わって阿弥陀さまのお家お浄土に生れさせていただけると聞かせていただきます。
 死んだらお終いではなくて帰るところがあるというのです。
だから安心して今生を生きていけるというのです。
 
 さて現実生活のなかで帰るところです。
このお朝事というご縁が私の帰らせていただくところだといただきます。
 何かいつも同じようなことを繰り返してしていることですが、これがいいんですね。
 
 毎朝6時半です。
円光寺の本堂阿弥陀さまの御前に座らせていただけるのです。
私の依って立つところ、帰るところです。帰依所です。
 それも私一人ではなく皆さんと共々にこのお朝事のご縁、お正信偈さまのお勤めをさせていただけるというご縁です。
そしてこの口からナンマンダブツナンマンダブツとお念仏が出てくださいます。
それも私もそうですが、皆さんもそうです。
皆さんもナンマンダブツナンマンダブツとお念仏を申すなかに立ち返らせていただく、立ち直るのです。
 
 フラフラフラフラしてる私を南無阿弥陀仏がいつも支えてくださってあるということです。
南無阿弥陀仏、阿弥陀仏に南無します。
帰命無量寿如来、無量寿如来に帰命します。
南無不可思議光、不可思議光仏に南無します。
 
 南無も帰命も依りどころとさせていただくということです。
私が依りどころとすると私に力が入るのではなく
阿弥陀さまの方でこの私をこそ必ず救うと南無阿弥陀仏のお名号と仕上げてはたらいてくださってあるのです。
 「よりかかれよりたのめ」とお念仏となって私を喚んでくださり
いつでもどこでも私阿弥陀が一緒だから安心して今日の一日も共に生きて参りましょうと
私の口からお念仏が出てくださいます。
 
 毎日毎朝こうして皆さんと共々にお念仏申させていただくなかに
フラフラフラフラしてる私が立ち直させていただけるのです。
お念仏のご法義の有難さ頼もしさをまた思います。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.8.28)

死んだらゴミになるのではありません

 生活するなかにゴミがいっぱいでます。
ゴミというのは生活に必要がないものです。必要なものは取っておいて必要のないものはゴミに出します。
大きなごみ袋にいっぱいゴミをつめてゴミ箱に入れると、何かすっきりします。
 ゴミを捨ててゴミが我が身から離れるのです。
ただこのゴミの行方です。
ゴミを出すことでそのゴミが無くなるのかというと、ゴミ収集車が来て持って行って焼却処分をしたりとか
再利用したりとかして全く消えて無くなるということではありません。
 
 人間死んだらゴミになるとある識者が言われました。大変なインパクトがありました。
死んだら火葬されます。火葬されるとお骨と灰になります。
骨壺に入れますが全部入るわけではありません。残ってものがゴミとして捨てられるのです。
 
 でも皆さんどうですか、皆さんの大切なお方とお別れをしてお遺骨はこの目に見える形で残ります。
捨てられますか。お骨はゴミですか。
 たとえ他の人がゴミだと言ってもゴミではありませんよね。
だからこそ骨壺に入れてご安置するところに納骨するのです。
 
 一昨日納骨堂に新たに納骨された方がありました。
そのお方は一年以上前にご往生されましたがその時は納骨堂がいっぱいでした。
それで方々納骨堂をさがしたそうですが、その間お遺骨はずっとお家でご安置されていました。
 このたび納骨堂に空きができたということで一昨日十数人ほどのご縁の方がお参りされて納骨されたことです。
子どもさんもいました。おばあちゃんでありお母さんのお遺骨の行く先です。
ゴミに出して安心するのではありません。
その行方をここだと決めてお墓や納骨壇にご安置できるということです。
 
 決まったところにご安置できることはまた会いに行けるということです。
会いに行って手が合わさるのです。
それも一人ではなくご家族ご親族みんなで会いに行けるのです。
 
 納骨堂は明るいうちは開いていますからいつでもご自由に本堂から入ってお参りしてくださいとお話しました。
ご縁です。お寺参りのご縁がいよいよできるのです。
 先に往かれた大切なお方がつくってくださったご縁です。
仏さまです。大切なお方をこれからも仏さまと仰いでいけるのです。
 
 死んだらゴミになるのではありません。
人間の命を終えて南無阿弥陀仏のおはたらき一つで私たちを仏法の世界に導きお念仏申す身にさせていただく
仏さまに成ってくださるのです。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.8.27)
円光寺
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