「呼ばぬなら 呼ばせてみせよう ナモアミダ」
あるお寺さんの山門の掲示板に「呼ばぬなら 呼ばせてみせよう ナモアミダ」という言葉が掲げてありました。
その言葉を見てすぐ思い出したのが、あの戦国の武将の信長、秀吉、家康の句です。
信長は「鳴かぬなら 殺してしまえ ホトギス」秀吉は「鳴かぬなら 鳴かせてみせよう ホトトギス」
家康は「鳴かぬなら 鳴くまでまとう ホトギス」と、それぞれの武将の性格心持ちを詠んだ句として有名です。
さて「呼ばぬなら 呼ばせてみよう ナモアミダ」皆さんはどのように聞かれますか。
ナモアミダ南無阿弥陀仏は阿弥陀さまの「まかせよ救う」のお喚び声おはたらきです。
呼ぶというのはこの私です。私がお念仏を申すということですが
中々この口からお念仏がでない私です。
この私のこのしぶとい口からお念仏が出てくださるということは
阿弥陀さまのおはたらきがもう既に私のところに届いてくださってあるしるしだといただきます。
「呼ばぬなら 呼ばせてみせよう ナモアミダ」と
阿弥陀さまの大きな大きなお慈悲のおはたらきのなかに私たちはもう既に救い取られてあるのです。
そのことを聞いてくれよ聞かせていただくその中に私の口をこじ開けてナンマンダブツとお念仏が出てくださるのです。
私が私がとどこまでも自分を中心に日々生活している私たちですが
私の見えないところで私をそのまま支えてくださる阿弥陀さまのおはたらきがあることをまた味わわせていただきます。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.3.8)
今日もお念仏の遠足の一日です
昨日は小学校のお別れ遠足だったということですが、雨で学校で遠足のお弁当を食べたそうです。
この3月はお別れ遠足で4月になるとお見知り遠足と続きます。
小学校の頃を思い出します。
お別れ遠足は護国神社のある松栄山でした。
今は家々が広がり車が行き交う道をとても遠足どころではありませんが
当時は木造の狭い海原橋を渡って田畑のなかを歩いて行ったような記憶が残っています。
松栄山は結構遠くてまだ着かないのかまだ着かないのかと何度も思って歩いたのではないでしょうか。
でも遠いけれども近いというか何かいつの間にか松栄山に着いていたという感じです。
お別れ遠足は6年生を送る遠足、お見知り遠足は新1年生を迎えるということです。
遠足ということを私たちの人生に重ねて思います。
遠足って遠い足と書きますが、遠い遠いはるかな道を歩いていくんですね。
遠いところですが、遠足の目的地は決まっています。
決まっているからもう少しもう少しと頑張って歩いていけるのです。
では人生という遠い旅、その目的地はどこでしょうか。
お念仏のみ教えを聞かせていただくと、それは阿弥陀さまのお浄土だよと教えてくださいます。
遠い遠いはるかに遠い一度も行ったことのないところです。
そしていつ着くかもわからないところです。
いつ着くかわからないけれども必ず着くところと聞せていただき安心して歩いて往けるのです。
阿弥陀さまのお浄土は阿弥陀さまがこの私のために用意をしてくださった私のいのちの終着地です。
南無阿弥陀仏「必ず救うまかせよ」のお喚び声に励まされてナンマンダブツとお念仏申して歩いて往けるのです。
遠足の楽しみはみんなで一緒に歩いて往く楽しさです。
松栄山まで一人で歩いて行くんだったら途中で「やめたー」ということにもなってしまいます。
二人三人四人五人と一緒に連れだって歩く楽しさです。
この人生の道のりは色んなことがあるけれどもみんな一緒だと歩いて往ける、みんな一緒に同じところに往けると
そのこと一つお念仏のみ教えを聞かせていただき日々の日暮しをさせていただきます。
今日もお念仏の遠足の一日です。
遠い遠い道のりのようですが、いつの間にか目的地に着かせていただく
阿弥陀さまが私たちに開いてくださった広い道を共々にお念仏申して歩ませていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.3.7)
阿弥陀さまは方便法身の姿となって私たちにお念仏をお勧めです
今日のご和讃に方便という言葉がありました。
方便というと嘘も方便といって方便イコール嘘と思ってらっしゃる方もあると思います。
方便とは大事な仏語で真実に導く手立てという意味で使われます。
浄土真宗のご本尊阿弥陀如来さまを方便法身といいます。
私たちがこの目にしている阿弥陀さまです。姿形となって私たちの前に現れてくださいました。
その大本は真実の法といいます。真実とは色もなく形もましまさず言葉も絶えたりといわれます。
人間のこの目で見えない、考えることも思うこともできないとなると何かよくわかりませんね。
そこで阿弥陀さまは真実の世界から姿形を現わしてくださったというのです。
真実真如の世界から来生してくださったということで仏さまのことを如来といいます。
私たちがこの目で見ている阿弥陀さまです。スーッとお立ちの仏さまです。
お顔も私たち人間に似てますね。手のお姿もあります。
まさに私たち人間と同じような姿となって現れてくださったのは
私たちにこの阿弥陀の真実に気づいてほしい真実を知ってほしいという願いからなのです。
そして今皆さん阿弥陀さまの方を向いていますね。
これは姿形があるから向けるのです。
真実といったり空といったり、どこに向いてお礼をしていいのかわからないのではなく
こちらを向いてわが名を呼んでくれよお念仏申してお礼をしてくれよという
阿弥陀さまのお心おはたらきが方便法身というかたちになって私たちの前にスーッと姿を現してくださってあるのです。
皆さんのお家のお仏壇の阿弥陀さまもそうです。
お仏壇に阿弥陀さまがましますからお家の方が一堂に御仏前に座ってみんな一緒に手を合わせ
ナンマンダブツとお念仏を申すことができるのです。
そこまで私たちのことを思い、南無阿弥陀仏の救いの法を聞いてくれよ信じてくれよ
お念仏申してお浄土に生まれてくれよと大きな願いを方便法身のおすがたとなって
ずっと立ちっ放しで私たちを喚んでくださってあるのです。
情報社会のなかのお寺のあり方を思います
昨日は大海組のお坊さんの研修会がありました。
テーマは「過去帳またはこれに類する帳簿の取扱い」ということで
情報管理のついて今は難しい時代になっており、お寺もその対応をしっかりしていかねばならないということです。
個人情報の保護がいわれます。
個人情報が流出し一人歩きして悪用されそれが偏見や差別につながるという指摘です。
お寺にはご門徒さんの個人情報がたくさんあります。
それも生きて在る個人と亡くなった故人の情報です。
昨日のご講師は講題に「こじん」と平仮名書きしましたと最初にことわられました。
今だけの情報ではなくて過去からの情報というなかに私たちは日暮ししているというです。
これはお寺だけのことではありません。
あの家は昔こんな職業だったとかあの家の誰々はこんなことをした人だったとか
知らなくてもいい情報も耳に入ってくることがあります。
そうした情報を聞く知るなかにその情報を私がどう受け止めるのかです。
大抵はああそうなんだと聞き流すようなことも
現在のことに結び付けてああやこうやと思ったり情報を膨らませて面白おかしく伝わったりして
結果人を傷つけるようなことにもなりかねません。
どこまでも自分を中心に自分を善とするものの見方をする私たちの有り様が問われます。
これは決して仏さまの見方ではありません。
阿弥陀さまはすべてのものを分け隔てなくそのまま救うというおはたらきの仏さまに成ってくださいました。
今のあなたのそのままを必ず救うというのです。
善いことをしたら救われて悪いことをしたら救われないのではありません。
ああしなさいこうしなさいと一つの注文もしないで必ず救うというのです。
あなたのそのままを救うぞということは
いつもあなたのことを思っている仏さまがご一緒してくださってあるということなのです。
そのことを聞かせていただくなかにこの私です。
仏さまのように世のため人のためにとまでいかなくても
すぐ隣の人のことを思うて、お念仏のみ教えを伝えるお手伝いをさせていただけたらと思います。
お寺には仏さまの情報がいっぱいです。
お経さまをはじめ仏さまの情報を伝えていくことがお寺の使命です。
善人も悪人も問わずすべての人に開かれた仏さまの情報です。
人から人へと伝えられてきた仏さまの情報です。
人と人とのつながりのなかに南無阿弥陀仏の声となって私のところに届けられています。
お寺にはご門徒さんの情報がいっぱいですが、それはそのまま仏さまの情報でもあります。
そうした情報を本当に活用してお念仏の声を世界に子や孫に伝えていきたいものです。
私たちは仏さまのみ教えお念仏につながったお互いです。
それぞれ顔が違うように名前も違い仕事も違い生活ぶりは様々です。
そうした違いを超えてこれまでもこれからもつながっていけるのが仏さまのみ教えだとまた有難く思います。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.3.5)
24時間営業のコンビニのあたりまえとありがたさ
コンビニのことが今話題になっています。
セブンイレブンという大手コンビニチェーンでオーナーさんが人手不足という理由で
24時間営業を止めて深夜はお休みにしたということです。
セブンイレブンの本部はこれは契約違反でオーナーの解任と1700万円の違約金を求めて大変な問題になっています。
セブンイレブンが凄いのはこういう事態が広く知られることで企業イメージに悪影響が出るとみたのでしょう
早速直営店の全国10店でまさにセブンイレブン朝の7時から夜11までの営業をし深夜は休むという実験をすることで
今後の対応を考えるということが発表されました。
コンビニ、コンビニエンスストアというのは便利な店ということです。
私たち消費者の利便性を第一に考え今では役所や銀行宅配業務、チケット販売など
ありとあらゆる職種のサービスを展開するまでになって、本当に便利です。
そして何といってもいつでも行けば開いていてどんな人も平等に全てのサービスが受けられるという
24時間営業ということはコンビニの大きな営業戦略の柱なのです。
それが分かっていてそれに違反する行為はマニュアル通りでいえばアウトです。
しかし人手不足は今やどの業界でも喫緊の大問題であり
オーナー一人でやりくりするには限界がありオーナー自らが24時間店頭に立つことを強いる結果にもなります。
労災問題にもなりかねないことで大方の意見は判官びいきもありオーナー側に賛同する見方になっています。
日本の人口はこれから減少傾向にあり働く人も消費者も少なくなってくる現状で
大看板の24時間営業ということ自体を見直す時期にきているのかなと思ったりします。
確かに24時間営業は深夜に仕事を終えて来店する人にとっては大変有難いものだと思います。
ただ消費者の私ではなく労働者の私という視点で考えて一日24時間ずっと働いている人はいません。
そんなことをしていたら体調を崩し命が危なくなる事態にもなります。
食事をしたり運動をしたり身体を休めてリラックスして仕事も効率よくできることにもなります。
眠る時間が大事です。人間の体サイクルの基本は夜は眠るということです。
今の企業でいうと工場あたりは24時間稼働が当たり前です。
そういうなかにあって思うのはマニュアルで均一的なものを求めるのではなく
個々の状況に応じて相談し柔軟に対応することができたらいいと思います。
阿弥陀仏さまのお救いを重ねて思います。
阿弥陀さまのお救いはいつでもどこでも誰にでもといいます
いつでもナンマンダブツとお念仏申してくれよというんですから
24時間いつでも眠っているときもナンマンダブツとお念仏申すことができるのです。
そしてどこでもですからコンビニに行かないとお寺に参らないとお仏壇の前でないと
お念仏申せないということではないのです。
誰でもこの私のために阿弥陀さまの方から私のところに来てくださって
南無阿弥陀仏「まかせよ救う」と喚んでくださっているのです。
「私がいるよ。大丈夫だよ。安心しなさい」といつでもどこでも私たちに寄り添ってくださる
大きな大きなお慈悲のおはたらきのなかに今こここの私を生きて往くことができるのです。
頑張って頑張って生きている私たちです。
そのことは百も承知で阿弥陀さまは私たちにお念仏をお勧めなのです。
「よりかかれ、よりたのめ。阿弥陀はいつもあなたと一緒だよ」とね。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.3.4)