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お念仏を申す生活法話

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日々食事をするようにお念仏のご法義をいただきます

 私たちが日々生きる生活する基本は何でしょうか。
いろんな考え方があると思いますが、やっぱり食べることかなと思います。
 食欲といいます。食べる欲がなくなる時が死ぬ時だということをいわれます。
 
 食事です。
一回食事をしたら一日一週間一か月一年一生足りるかといったら違います。
お腹が空くと食欲が次々と出てきます。
 
 一日三食といいます。朝昼晩の食事です。
人によっては一日一食、二食、四食、五食という方もあるかもしれませんが
私はというとこの十数年三食の時間を決めて食事をさせていただいています。
 朝食は7時半です。この6時半のお朝事の後でということで、お朝事が私の一日の基本になっています。
 
 このお勤めをすることを食べることに譬えていただきます。
一日三食と時間を決めてということですが、毎朝6時半のお朝事です。
毎日お参りの皆さんと共に朝食をさせていただくということです。
 
 お寺にお参りしないとお勤めができないということではありません。
皆さんのお家でもお勤めはできます。
 お経をあげるということですが、そのまま仏さまのみ教えを聞かせていただくことです。
阿弥陀さまのご本願のお心、必ず救うまかせよのおはたらきのみ教えを聞かせていただくのです。
 
 一回聞いたらそれで十分、一回聞いたら大丈夫ということではありません。
何度も何度も聞けよ聞けよといわれます。
 ちょうど毎日食事をするようにということです。
何度も何度もがお念仏となって私の身に付いてくださるのです。
 
 私たちの日々の生活のなかでお念仏を申すということがそのままみ教えをいただくことになるのです。
お念仏のご法義、南無阿弥陀仏のおはたらきのすごさです。
 
 日々の食事は家族の食事ですが、あらためて心してという食事も大事です。
今日は日曜日でご法事が三件あります。
ご法事は家族に加えてご親族の方もお参りです。
有縁の皆さん共々にあらためて心してお念仏のご法義をいただきたいと思います。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.2.24)

阿弥陀さまにおまかせの私の往生です

 昨日NHKのテレビで「大往生」という特集番組がありました。
103歳のお父さんを全盲の娘さんが看取るということでした。
在宅でということで80歳の在宅医の先生がずっと訪問看護されていました。
 
 大往生とよく言いますが、大往生と聞いて皆さんはどういうことを想像しますか。
多分一つはわが家でということでしょう。家族に見守られてということでしょう。
そして痛みもなく安らかに眠るように死を迎えるということを思われている方が殆どだと思います。
 
 ただそうありたいという思いはあっても中々その通りにはいきません。
何か大があると中があって小があるということですが、これは人間の私のものの見方であって
死の迎え方が人それぞれに違うし思い通りにはならないということなのです。
 
 これを苦というのです。思い通りにならないということです。
どのように死んでいくのか、その死にざまもそうですし、その生きざまも人それぞれ違います。
 
 往生に大中小はありません。
阿弥陀仏は苦悩に迷う私たちを見て取って、どんな人も平等に必ず救うというご本願を起こし
南無阿弥陀仏「必ず救うまかせよ」のおはたらきの仏さまに成ってくださったのです。
 その南無阿弥陀仏のお心おはたらきに信じまかせるなかに私の往生は決まるのです。
往生は私が決めることではなくて阿弥陀さまが決めてくださってあることなのです。
 だから本願を信じ念仏申す私たちは等しく阿弥陀さまのお浄土に往生できるのです。
阿弥陀さまのおはたらきに大中小の差別はありません。
 
 そのことを臨終のときに初めて聞くのではなく平生から聞いてくれよというのです。
平生業成といいます。平生、今ここにこの私の往生は決定していると聞かせていただくのです。
 親鸞聖人は現生正定聚といって今すでに正しく浄土に往き仏に生まれる仲間に定まってあると
阿弥陀さまの本願念仏のお救いの法を明らかに示してくださってあります。
 
 そうはいってもこの娑婆世間に生きる私たちは娑婆世間のことがいつも気がかりです。
いつも往生のこと阿弥陀さまのことを思うお浄土のことを思うということではありません。
 
 こうして皆さんお朝事にお参りをされました。
お寺参りはお浄土参りといただきましょうとお話しています。
 お寺にお参りするこのご縁のなかにどうぞ皆さんこの私の往生を思うてください。
阿弥陀さまのことを思うてください。
 
 そしてこの後皆さんお家に帰ります。お家に帰ると日々の生活が始まります。
まさに娑婆の生活です。
 ただこの娑婆の生活のなかに苦悩する私たちのために
阿弥陀さまの大きな大きな必ず救うまかせよの南無阿弥陀仏のおはたらきがあるということを
ご縁ご縁にお念仏申して聞かせていただきましょう。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.2.25)

宇宙探査機「はやぶさ2」の快挙

 日本の宇宙探査機「はやぶさ2」が小惑星のリュウグウに着陸したというニュースです。
直径900mという小惑星で地球から3.4億km離れたところにある
私たちの肉眼ではとても見ることができない小さな小さな星です。
 
 この惑星に着陸する確率を「バスケットボールのゴールを宇宙から狙うようなもの」と言われていました。
本当に人間業とは思えないようなことですが、それが実際に出来たのです。
科学の力です。科学の力というのは本当に凄いなと改めて思い知らされます。
 
 この宇宙探査の目的は宇宙の生命の起源を探ることだといいます。
我が身のことでいいますと、この命はどこから来たかということです。
 そして今私たちはこの命を生きていますが、これからもずっと生き続けるわけではありません。
いつか必ずこの命を終えていかねばなりません。
 命終えてどこへ行くのかです。
どこへ行くのか科学の力でそのことが解明されるのでしょうか。
これまでのことは色んなデータで検証できてもこれからのことは科学でわかるのでしょうか。
 
 この私がどこから来てどこに行くのか。
今ここに生きる私たちの苦悩の解決に科学は応えられるのでしょうか。
 
 仏さまはズバリ私たちに教えてくださいます。
すべてのものを分け隔てなく必ず救うという阿弥陀さまの本願を信じ念仏申して
阿弥陀さまのお浄土に往き仏に生まれさせていただくという南無阿弥陀仏のみ教えです。
 そのこと一つ聞けよ信ぜよそのまま南無阿弥陀仏にまかせて
ナンマンダブツとお念仏申すなかに生きていくんだよと教えてくださいます。
 
 今こここの命を私たちは生きています。
いろんな思いをもって生きています。
 それこそ自分の思い通りにいく人生であったらいいのでしょうが、思い通りにはいきません。
苦しみ悩み、迷いもでてきます。
 
 そういう私を決して見捨てることなく「まかせよ救う」と阿弥陀仏はおはたらきです。
 どこから来てどこへ行くということもすべて阿弥陀さまにおまかせして
お念仏申して今日の一日も日暮しさせていただきたいと思います。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.2.23)

吸う息吐く息お念仏

 「前念命終(ぜんねんみゅうじゅう)後念即生(ごねんそくしょう)という先師の御文があります。
お念仏申すなかに命終えてそのまま阿弥陀さまのお浄土に生まれるというのです。
 親鸞さまはこの御文を命終わるその時にということではなく今日の一日この一瞬ということでいただかれています。
 
 御文章さまのなかに蓮如さまは「人間は出ずる息は入るをまたぬならいなり」と人の命のはかなさをお示しです。
私たちは息をして生きています。息が止まると死にます。
 私が吸って吐いてという息ですが、私が息をしているという意識はほとんどないと思います。
何で吸うのかといったら吐いてるからです。吐くことも吸うことも自然のいのちのはたらきがあるということです。
 吸う息吐く息そのままにお念仏申します。
南無阿弥陀仏の大きないのちのおはたらきが吸う息吐く息となってこの口からお念仏がでてくださいます。
 
 先の御文章は「あいかまえて油断なく仏法をこころにいれて信心決定すべきものなり」と続き
仏法を聴聞して信心を決定するように心がけなさいとお勧めです。
 阿弥陀さまの「必ず救うまかせよ」のご本願のお心を聞きお念仏申す身にさせていただきましょうというのです。
この命終わって阿弥陀さまのお浄土に生まれ仏さまに成らせていただけると聞かせていただきます。
 
 親鸞さまのご臨終の様子に「念仏の息たえおわりぬ」とあります。
ナンマンダブツと命終えてナンマンダブツとお浄土に往きて仏に生まれるというのです。
 
 今日のこの一日もそうです。
ナンマンダブツとお念仏申して新たないのちを始めさせていただき
ナンマンダブツとお念仏申して今日の一日を終えていくのです。
 
 何か毎日がその繰り返しのようですが、南無阿弥陀仏の大きな大きなおはたらきのなかに
確かに確かに阿弥陀さまのお浄土に生まれ往く一日を生かされて生きているということです。
 
 お念仏を申すなかに今日の一日も生かされて生きてまいりましょう。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.2.22)

阿弥陀さまのお慈悲に抱かれて老病死の我が身を生きる

 水泳の池江選手そしてタレントの堀ちえみさんとがんの公表が続いています。
数十年前には本人にがんを告知することの是非が問題になっていました。
 告知をすることで本人が精神的に落ち込み病状に支障をきたすということで
告知をしないでがんであることを隠し周りの家族も大変だったと思います。
 今は本人家族の前でお医者さんが直接病状を説明するケースが多くなったと聞きます。
 
 現在各分野で活躍している著名な方が病気になって長く表舞台からいなくなると
皆さんが心配し色んな憶測も広がることにもなりますから、がんであることを公表する意味はあると思います。
但しそれはあくまでもご本人が決めることで公表しないといけないということではありません。
 
 ご自身のブログで公表されたお二人のコメントには共通して
がんという病気に向き合い闘って必ず戻ってきますということが語られています。
病気としっかり向き合って治療に専念される決意が伝わってきて本当に感心させられます。
 
 今は2人に1人ががんになる時代になったともいわれます。
以前はがんと聞いただけでガーンと頭をたたかれたような感じですぐ死を連想したものですが
今は治療法もたくさん開発され医療技術も格段に進歩してがんは治らない病気ではなくなりつつあります。
 
 ただがんの進行状況にもよりますが、頑張って治療を受けても回復が難しい方もいらっしゃいます。
そこで緩和ケアということが今いわれています。
がんと闘うのではなくがんと共に生きるといった言い方ができると思います。
 
 先日大分のホルトホールで田畑正久先生のお話を聞きました。
田畑先生は外科医の先生でがん治療の手術を何度もされている先生です。
 その田畑先生が仏教に学ぶなかで老病死の解決を聞かせていただくと言われます。
それは老病死に立ち向かい乗り越えていくのではなく
南無阿弥陀仏におまかせして老病死の我が身を生きていくことだいうのです。
 
 老いということも病ということも死ということも我が身のことなのです。
いつまでも若くありたい健康でありたい長生きしたいと老病死の我が身のことを
受け入れずはねつけ闘って対決しても最後は死んでいきますから
結局は不幸の完成でこの人生を終えることになると言われるのです。
 
 先のお二人に寄せられる周りの方々のあたたかいメッセージにお二人は心強く勇気づけられることだと思います。
ただ頑張ってと言って見守るしかありません。
病気に向き合うのはご本人なのです。そっと見守ってほしいということではないでしょうか。
 
 阿弥陀さまの大きなお慈悲のお心を思います。
南無阿弥陀仏のおはたらきとなって「あなたの苦しみは私の苦しみです。あなたの悲しみは私の悲しみです」と
そっと私に寄り添ってくださり「まかせよ救う」と力強いお念仏の声となってくださっています。
 大きな大きな阿弥陀さまのお慈悲に抱かれて老病死の我が身を生き抜かせていただきます。
安心して老いていける、安心して病んでいける、安心して死んでいける
往生浄土のお念仏の道を今日も共々に歩ませていただきます。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.2.21)
円光寺
〒870-0108
大分県大分市三佐3丁目15番18号
TEL.097-527-6916
FAX.097-527-6949
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