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お念仏を申す生活法話

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ご法事のご縁を大切にお勤めさせていただきましょう

 17回忌のご法事の申し込みがありました。
ご法事のご通知はお寺から毎年12月の暮れにご法事を迎えるお家に差し上げています。
 はっと思ったのは、そこのお家は7回忌13回忌とこれまでご法事をお勤めしたことがない
日頃お寺とあまりご縁のないお家だったということです。
 
 17回忌というと大切な方がご往生されて16年が経った今、なぜご法事のお勤めを思い立ったのかなと思ったのです。
ご事情がありましてお寺でお勤めをすることになりました。
 お母さんのご法事です。遺った子どもが施主となってお勤めすることです。
大切な方とお別れして年月が経てば経つほどに先に往かれた方のことを思う気持ちも変わってくるものです。
時間が経ったら忘れてしまうような関係ではありません。
 時が経てば経つほどにその人のことを身近に思えるようになることもあるのではないでしょうか。
亡くなられた年齢に近づけば近づくほどにまた思いも違ってくることかなと思ったりします。
 
 お寺からご法事のご通知をすることも大切なことだと思います。
17回忌の後は25回忌33回忌50回忌と続きます。
その間には新しい家族も増えてまいります。いのちのつながりは広がってまいります。
 ご法事を勤めるかどうかは後に遺った方が考えることです。
 
 ご法事は大切な方とご一緒だったことを思うご縁です。
大切な方がいて今の私があるということです。
 大切な方と出会いそして別れるということですが
私たちのお念仏のご法義をいただきますと、別れるといってまた出遇っていくということです。
お浄土の仏さまとなってまた私のところに還ってみえて
ナンマンダブツとお念仏を申すなかにいつでもどこでも出遇っていけるといただきます。
 
 人と人との別れはありますが、ご法事のご縁をいただいて
先に往かれた方々も後に遺った私たちも共々に大きないのちのつながりのなかに生かされて
ご一緒させていただいていると聞かせていただきます。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.3.9)

「呼ばぬなら 呼ばせてみせよう ナモアミダ」

 あるお寺さんの山門の掲示板に「呼ばぬなら 呼ばせてみせよう ナモアミダ」という言葉が掲げてありました。
その言葉を見てすぐ思い出したのが、あの戦国の武将の信長、秀吉、家康の句です。
 信長は「鳴かぬなら 殺してしまえ ホトギス」秀吉は「鳴かぬなら 鳴かせてみせよう ホトトギス」
家康は「鳴かぬなら 鳴くまでまとう ホトギス」と、それぞれの武将の性格心持ちを詠んだ句として有名です。
 
 さて「呼ばぬなら 呼ばせてみよう ナモアミダ」皆さんはどのように聞かれますか。
ナモアミダ南無阿弥陀仏は阿弥陀さまの「まかせよ救う」のお喚び声おはたらきです。
 呼ぶというのはこの私です。私がお念仏を申すということですが
中々この口からお念仏がでない私です。
 
 この私のこのしぶとい口からお念仏が出てくださるということは
阿弥陀さまのおはたらきがもう既に私のところに届いてくださってあるしるしだといただきます。
 
 「呼ばぬなら 呼ばせてみせよう ナモアミダ」と
阿弥陀さまの大きな大きなお慈悲のおはたらきのなかに私たちはもう既に救い取られてあるのです。
 そのことを聞いてくれよ聞かせていただくその中に私の口をこじ開けてナンマンダブツとお念仏が出てくださるのです。
 
 私が私がとどこまでも自分を中心に日々生活している私たちですが
私の見えないところで私をそのまま支えてくださる阿弥陀さまのおはたらきがあることをまた味わわせていただきます。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.3.8)

今日もお念仏の遠足の一日です

 昨日は小学校のお別れ遠足だったということですが、雨で学校で遠足のお弁当を食べたそうです。
この3月はお別れ遠足で4月になるとお見知り遠足と続きます。
 
 小学校の頃を思い出します。
お別れ遠足は護国神社のある松栄山でした。
今は家々が広がり車が行き交う道をとても遠足どころではありませんが
当時は木造の狭い海原橋を渡って田畑のなかを歩いて行ったような記憶が残っています。
 松栄山は結構遠くてまだ着かないのかまだ着かないのかと何度も思って歩いたのではないでしょうか。
でも遠いけれども近いというか何かいつの間にか松栄山に着いていたという感じです。
 
 お別れ遠足は6年生を送る遠足、お見知り遠足は新1年生を迎えるということです。
遠足ということを私たちの人生に重ねて思います。
 遠足って遠い足と書きますが、遠い遠いはるかな道を歩いていくんですね。
遠いところですが、遠足の目的地は決まっています。
決まっているからもう少しもう少しと頑張って歩いていけるのです。
 
 では人生という遠い旅、その目的地はどこでしょうか。
お念仏のみ教えを聞かせていただくと、それは阿弥陀さまのお浄土だよと教えてくださいます。
 遠い遠いはるかに遠い一度も行ったことのないところです。
そしていつ着くかもわからないところです。
いつ着くかわからないけれども必ず着くところと聞せていただき安心して歩いて往けるのです。
 阿弥陀さまのお浄土は阿弥陀さまがこの私のために用意をしてくださった私のいのちの終着地です。
南無阿弥陀仏「必ず救うまかせよ」のお喚び声に励まされてナンマンダブツとお念仏申して歩いて往けるのです。
 
 遠足の楽しみはみんなで一緒に歩いて往く楽しさです。
松栄山まで一人で歩いて行くんだったら途中で「やめたー」ということにもなってしまいます。
 二人三人四人五人と一緒に連れだって歩く楽しさです。
この人生の道のりは色んなことがあるけれどもみんな一緒だと歩いて往ける、みんな一緒に同じところに往けると
そのこと一つお念仏のみ教えを聞かせていただき日々の日暮しをさせていただきます。
 
 今日もお念仏の遠足の一日です。
遠い遠い道のりのようですが、いつの間にか目的地に着かせていただく
阿弥陀さまが私たちに開いてくださった広い道を共々にお念仏申して歩ませていただきましょう。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.3.7)

阿弥陀さまは方便法身の姿となって私たちにお念仏をお勧めです

 今日のご和讃に方便という言葉がありました。
方便というと嘘も方便といって方便イコール嘘と思ってらっしゃる方もあると思います。
 方便とは大事な仏語で真実に導く手立てという意味で使われます。
 
 浄土真宗のご本尊阿弥陀如来さまを方便法身といいます。
私たちがこの目にしている阿弥陀さまです。姿形となって私たちの前に現れてくださいました。
 その大本は真実の法といいます。真実とは色もなく形もましまさず言葉も絶えたりといわれます。
人間のこの目で見えない、考えることも思うこともできないとなると何かよくわかりませんね。
 そこで阿弥陀さまは真実の世界から姿形を現わしてくださったというのです。
真実真如の世界から来生してくださったということで仏さまのことを如来といいます。
 
 私たちがこの目で見ている阿弥陀さまです。スーッとお立ちの仏さまです。
お顔も私たち人間に似てますね。手のお姿もあります。
 まさに私たち人間と同じような姿となって現れてくださったのは
私たちにこの阿弥陀の真実に気づいてほしい真実を知ってほしいという願いからなのです。
 
 そして今皆さん阿弥陀さまの方を向いていますね。
これは姿形があるから向けるのです。
 真実といったり空といったり、どこに向いてお礼をしていいのかわからないのではなく
こちらを向いてわが名を呼んでくれよお念仏申してお礼をしてくれよという
阿弥陀さまのお心おはたらきが方便法身というかたちになって私たちの前にスーッと姿を現してくださってあるのです。
 
 皆さんのお家のお仏壇の阿弥陀さまもそうです。
お仏壇に阿弥陀さまがましますからお家の方が一堂に御仏前に座ってみんな一緒に手を合わせ
ナンマンダブツとお念仏を申すことができるのです。
 そこまで私たちのことを思い、南無阿弥陀仏の救いの法を聞いてくれよ信じてくれよ
お念仏申してお浄土に生まれてくれよと大きな願いを方便法身のおすがたとなって
ずっと立ちっ放しで私たちを喚んでくださってあるのです。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.3.6)

情報社会のなかのお寺のあり方を思います

 昨日は大海組のお坊さんの研修会がありました。
テーマは「過去帳またはこれに類する帳簿の取扱い」ということで
情報管理のついて今は難しい時代になっており、お寺もその対応をしっかりしていかねばならないということです。
 
 個人情報の保護がいわれます。
個人情報が流出し一人歩きして悪用されそれが偏見や差別につながるという指摘です。
 お寺にはご門徒さんの個人情報がたくさんあります。
それも生きて在る個人と亡くなった故人の情報です。
昨日のご講師は講題に「こじん」と平仮名書きしましたと最初にことわられました。
 
 今だけの情報ではなくて過去からの情報というなかに私たちは日暮ししているというです。
これはお寺だけのことではありません。
 あの家は昔こんな職業だったとかあの家の誰々はこんなことをした人だったとか
知らなくてもいい情報も耳に入ってくることがあります。
そうした情報を聞く知るなかにその情報を私がどう受け止めるのかです。
 
 大抵はああそうなんだと聞き流すようなことも
現在のことに結び付けてああやこうやと思ったり情報を膨らませて面白おかしく伝わったりして
結果人を傷つけるようなことにもなりかねません。
 どこまでも自分を中心に自分を善とするものの見方をする私たちの有り様が問われます。
 
 これは決して仏さまの見方ではありません。
阿弥陀さまはすべてのものを分け隔てなくそのまま救うというおはたらきの仏さまに成ってくださいました。
 今のあなたのそのままを必ず救うというのです。
善いことをしたら救われて悪いことをしたら救われないのではありません。
ああしなさいこうしなさいと一つの注文もしないで必ず救うというのです。
 
 あなたのそのままを救うぞということは
いつもあなたのことを思っている仏さまがご一緒してくださってあるということなのです。
 そのことを聞かせていただくなかにこの私です。
仏さまのように世のため人のためにとまでいかなくても
すぐ隣の人のことを思うて、お念仏のみ教えを伝えるお手伝いをさせていただけたらと思います。
 
 お寺には仏さまの情報がいっぱいです。
お経さまをはじめ仏さまの情報を伝えていくことがお寺の使命です。
 善人も悪人も問わずすべての人に開かれた仏さまの情報です。
人から人へと伝えられてきた仏さまの情報です。
人と人とのつながりのなかに南無阿弥陀仏の声となって私のところに届けられています。
 
 お寺にはご門徒さんの情報がいっぱいですが、それはそのまま仏さまの情報でもあります。
そうした情報を本当に活用してお念仏の声を世界に子や孫に伝えていきたいものです。
 
 私たちは仏さまのみ教えお念仏につながったお互いです。
それぞれ顔が違うように名前も違い仕事も違い生活ぶりは様々です。
そうした違いを超えてこれまでもこれからもつながっていけるのが仏さまのみ教えだとまた有難く思います。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.3.5)
円光寺
〒870-0108
大分県大分市三佐3丁目15番18号
TEL.097-527-6916
FAX.097-527-6949
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