食品ロスの現場
ホテルで会食があって7,8人で丸テーブルを囲み大きなお皿に食べ物が次から次に出てきます。
そばに小皿が置いてあります。自分で好きなものを好きなだけとってくださいということですが
次から次にとなると前の食べ物の大皿が残って次の大皿を置くところがなくなります。
そこは係の方が小さなお皿につぎ分けて次の大皿をもってくるのですが、この前は最後にチャーハンがでました。
テーブルの人は他のテーブルにお酒をつぎに行ったりして殆どそのチャーハンを取る人がいません。
次にデザートがでます。チャーハンとデザートの大皿が並びます。
デザートには人数分のケーキがのっています。そしてコーヒーがでました。
さすがにコーヒーは大きなポットに入っているのではなく一人一人カップにつぎ分けられたものです。
コーヒーを口にする人はいますが、ケーキを取る人は殆どいません。
テーブルには大きなお皿のチャーハンとケーキそしてつぎ分けられた数多くの小皿が残ります。
さてこの残った食べ物の行方はどうなるのでしょうか。
多分残飯ということで捨てられてしまうのではないでしょうか。
食品ロスといわれますが、私たちの身近なところに食品ロスはたくさんあります。
昭和30年代の家庭の食事の風景がテレビドラマで再現されます。
ちゃぶ台一つを囲みお皿に盛られた食べ物を家族がつついて食べるものです。
ご飯とお汁ものに主な食べ物は一品二品といったもので、子どもたちはそれを争うように取って食べていました。
今の大皿を囲む食卓とは似ているようで全く違います。
それこそ一粒のご飯も残さないようにみんなきれいに食べあげていました。
本当に今はもったいないことをしていることだと思います。
私もその中の一人ですが、何でこんなことになるのかなと思ったりします。
つぎ分けたらつぎ分けたものだったら食べるかもしれませんね。
でも自分からつぐ取るということは中々しません。誰かがしてくれるものとでも思っているのでしょうか。
これが今の日本の食生活の実態です。
飽食の時代と言われて随分久しいことですが
そのなかで今日のご飯をいただけないという方がたくさんいらっしゃるということです。
貧困のなかにあって声を上げることもできない方々です。
何か変だなというなかに今日も生活をしています。
ナンマンダブツとお念仏を申す、お念仏のみ教えを聞かせていただくことは
この食品ロスのことと全く関係ないということではありません。
阿弥陀さまの大きな大きなお慈悲のお心南無阿弥陀仏のおはたらきは
私一人に届けられたものではなく私の隣の人も隣の人も
名前も知らない顔も見えない人もみんな共々に救われていくというみ教えです。
日々の生活のなかでナンマンダブツとお念仏を申させていただきながら
こんなことでいいのかなこんなことでいいのかなと問われ聞かせていただくことです。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.3.14)
お浄土からのおはたらき
お仏壇のお荘厳をします。
皆さんのお家のお仏壇やお寺の本堂お内陣のお荘厳ですが、お仏壇は阿弥陀さまのお浄土を表すものです。
阿弥陀さまの「必ず救うまかせよ」の南無阿弥陀仏のおはたらきをすがたかたちとして私たちに見せてくださいます。
真ん真ん中にご本尊の仏さま阿弥陀如来さまのおすがたをご安置させていただきます。
まさに阿弥陀さまのお浄土です。
今日のご和讃に「十方無量の諸仏」とありました。
この目には見えませんが、お浄土には私たちのご先祖有縁のお念仏の先人が
諸仏すなわち仏さまとなっていらっしゃるということなのです。
南無阿弥陀仏のおはたらきとなって阿弥陀さまのお手伝いをしてくださってあるのです。
私たちにお念仏を申してくれよお念仏を申してお浄土に生まれて来いよ必ず生まれさせるという力強いおはたらきです。
ナンマンダブツナンマンダブツとお念仏を申すところに阿弥陀さまをはじめ諸仏方がいらっしゃるというおはたらきを
お仏壇のお荘厳を通して毎日仰いで日暮しさせていただくことです。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.3.13)
高校三年生をおくる会をしました。
この前の日曜日に高校三年生をおくる会をしました。
小学生の子ども会水曜学校の頃からお寺にご縁があった高校生です。
今度卒業してそれぞれ進路が違います、大きな人生の節目にあってお寺に集まり
一緒にお勤めをし仏さまにお礼をさせていただきました。
小学校を卒業してからも中学高校とずっと夏のサマースクールや11月の子ども報恩講に
主なスタッフとしてお手伝いいただき子ども会活動を大いに盛り上げてくれました。
特に人形劇は子どもたちに大変喜ばれました。
中学高校になると友だち関係も広がり部活や勉強で個々の時間が忙しくなってお寺から遠く離れていくのが通例ですが
逆にお寺という場所にみんなが気持ちをもって集まり協力して活動することで
お寺との関係が益々深くなっていったように思います。
本当に有難いご縁です。有ること難しです。
青春真っ只中のこの時期にこうしてお寺とのご縁ができたということは
これからの人生の道行きのなかでも本当に貴重なことだと思います。
これからがまた楽しみです。
仏さまのご縁です。このご縁に遇うことの難しさです。
若い時からご縁に遇う人もいればいよいよいいお歳になってご縁に遇う人の方が多いと思います。
ただ仏さまのご縁に遇わずじまいに人生を終える方が殆どだということです。
早くからご縁に遇っていればと思い返すこともありますが
仏さまのご縁は今こここのご縁なのです。
今の皆さんです。今ご縁に遇っているということです。
そのこと一つ大事にしてこれからも仏さまのご縁をいっぱいいっぱいいただいてまいりましょう。
生まれ難い人間に生まれて仏さまのご縁をいただいてお念仏申す身にさせていただきました。
仏さまのご縁は私一人だけのご縁ではなく私たちみんなのご縁です。
大きな大きな南無阿弥陀仏のいのちのつながりのなかに共々に生かされて生きてあることの有難さ尊さを思います。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.3.12)
3月11日の朝です
お勤めの前にいつものように喚鐘を打ちに外に出たら
東の空がパーッと明るく雲が茜色に朝焼けして光り輝いて見えました。
いよいよこれから次第に朝が明るくなって本格的に春になっていくんだなと思います。
東日本大震災から今日で8年になります。
今日東北の被災地の皆さんはどんな朝を迎えたでしょうか。
朝の景色はどう見えましたか。どんなことを思われたでしょうか。
日々の生活を思います。
8年前の朝は普段通りに学校に職場に送り送られて一日を始めた家族が帰る家を失い離れ離れになるということです。
何か当たり前のように私たちは日々暮らしていますが、当たり前が本当に有難いことだなとまた思います。
最近毎年のように地震や台風集中豪雨と自然災害が日本各地で多く起こっています。
いつどんな形で私たちの身の上に起こるのかわかりません。
どう備えていいのかもわかりません。
今こここの命を生きていることを思うとき
大きないのちのつながりのなかに共に生かされて生きることの有難さ尊さを重ねて思います。
お浄土への道すがらを今日もお朝事のご縁をいただいて共々に歩ませていただける有難さです。
東日本大震災の被災地の皆さんに思いを致し私にできる精いっぱいのことをさせていただきたいと思うことです。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.3.11)
お念仏申して生老病死の身を生きる
最近著名人のがんの公表が続いています。
がんというとすぐ死を連想される方も多いと思います。
また著名人が亡くなると新聞にお悔やみ記事が載ります。
そこには死亡原因がよく書かれてあります。
例えば肺がんで亡くなったとか、大腸がんとが脳梗塞とか心臓疾患とかいったものです。
ただ誰でもみんなこの世に生まれて来たから死んで行くんですよね。
私たちはこれまでに何度も何度も生まれては死に生まれて死にと生死を繰り返して
このたびはこの人間界に生まれて来たと仏教は説きます。
そしてこれからも生死の迷いの世界を繰り返し経巡って悩み苦しんでいくというのです。
誰でも必ず死ぬことは知っています。
老いたくないいつまでも若くありたいと思っても日々老いていきます。
健康でいたいと思っても病気なるときは病気になります。
老病死の身を今まさに生きているのがこの私の現実ですが
どこまでも自分の思い通りに生きたいと思う私が老病死のわが身の事実にであうとき
そのことに向き合うことも受け入れることもできなくて苦しみ悩み迷うというのです。
闘病といいます。病と闘うというのです。
その気持ちは本当に尊く大事です。気持ちがなかったら苦しい治療に耐えることもできません。
しかしどんなに頑張っても必ず命終える身であることに変わりありません。
仏さまは病と共に老いと共に生きることを教えてくださいます。
老病死の苦悩のわが身をそのまま引き受け「必ず救うまかせよ」と
南無阿弥陀仏のお喚び声となっていつも私にご一緒です。
ナンマンダブツとお念仏を申して病んでいけるのです。
ナンマンダブツとお念仏を申して老いていけるのです。
ナンマンダブツとお念仏を申して死んでいけるのです。
死んでいけるとは死んで往くところがあるということです。
死んだらお終いではありません。
迷いを離れて阿弥陀さまのお浄土に往きさとりの仏に生まれさせていただけると
往生浄土のみ教えを私のこととして聞かせていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.3.10)