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お念仏を申す生活法話

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高校三年生をおくる会をしました。

 この前の日曜日に高校三年生をおくる会をしました。
小学生の子ども会水曜学校の頃からお寺にご縁があった高校生です。
今度卒業してそれぞれ進路が違います、大きな人生の節目にあってお寺に集まり
一緒にお勤めをし仏さまにお礼をさせていただきました。
 
 小学校を卒業してからも中学高校とずっと夏のサマースクールや11月の子ども報恩講に
主なスタッフとしてお手伝いいただき子ども会活動を大いに盛り上げてくれました。
特に人形劇は子どもたちに大変喜ばれました。
 
 中学高校になると友だち関係も広がり部活や勉強で個々の時間が忙しくなってお寺から遠く離れていくのが通例ですが
逆にお寺という場所にみんなが気持ちをもって集まり協力して活動することで
お寺との関係が益々深くなっていったように思います。
 
 本当に有難いご縁です。有ること難しです。
青春真っ只中のこの時期にこうしてお寺とのご縁ができたということは
これからの人生の道行きのなかでも本当に貴重なことだと思います。
 これからがまた楽しみです。
 
 仏さまのご縁です。このご縁に遇うことの難しさです。
若い時からご縁に遇う人もいればいよいよいいお歳になってご縁に遇う人の方が多いと思います。
ただ仏さまのご縁に遇わずじまいに人生を終える方が殆どだということです。
 早くからご縁に遇っていればと思い返すこともありますが
仏さまのご縁は今こここのご縁なのです。
 
 今の皆さんです。今ご縁に遇っているということです。
そのこと一つ大事にしてこれからも仏さまのご縁をいっぱいいっぱいいただいてまいりましょう。
 
 生まれ難い人間に生まれて仏さまのご縁をいただいてお念仏申す身にさせていただきました。
仏さまのご縁は私一人だけのご縁ではなく私たちみんなのご縁です。
 大きな大きな南無阿弥陀仏のいのちのつながりのなかに共々に生かされて生きてあることの有難さ尊さを思います。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.3.12)

3月11日の朝です

 お勤めの前にいつものように喚鐘を打ちに外に出たら
東の空がパーッと明るく雲が茜色に朝焼けして光り輝いて見えました。
 いよいよこれから次第に朝が明るくなって本格的に春になっていくんだなと思います。
 
 東日本大震災から今日で8年になります。
今日東北の被災地の皆さんはどんな朝を迎えたでしょうか。
朝の景色はどう見えましたか。どんなことを思われたでしょうか。
 
 日々の生活を思います。
8年前の朝は普段通りに学校に職場に送り送られて一日を始めた家族が帰る家を失い離れ離れになるということです。
 何か当たり前のように私たちは日々暮らしていますが、当たり前が本当に有難いことだなとまた思います。
 
 最近毎年のように地震や台風集中豪雨と自然災害が日本各地で多く起こっています。
いつどんな形で私たちの身の上に起こるのかわかりません。
どう備えていいのかもわかりません。
 
 今こここの命を生きていることを思うとき
大きないのちのつながりのなかに共に生かされて生きることの有難さ尊さを重ねて思います。
 
 お浄土への道すがらを今日もお朝事のご縁をいただいて共々に歩ませていただける有難さです。
東日本大震災の被災地の皆さんに思いを致し私にできる精いっぱいのことをさせていただきたいと思うことです。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.3.11)

お念仏申して生老病死の身を生きる

 最近著名人のがんの公表が続いています。
がんというとすぐ死を連想される方も多いと思います。
 
 また著名人が亡くなると新聞にお悔やみ記事が載ります。
そこには死亡原因がよく書かれてあります。
例えば肺がんで亡くなったとか、大腸がんとが脳梗塞とか心臓疾患とかいったものです。
 
 ただ誰でもみんなこの世に生まれて来たから死んで行くんですよね。
私たちはこれまでに何度も何度も生まれては死に生まれて死にと生死を繰り返して
このたびはこの人間界に生まれて来たと仏教は説きます。
そしてこれからも生死の迷いの世界を繰り返し経巡って悩み苦しんでいくというのです。
 
 誰でも必ず死ぬことは知っています。
老いたくないいつまでも若くありたいと思っても日々老いていきます。
健康でいたいと思っても病気なるときは病気になります。
 
 老病死の身を今まさに生きているのがこの私の現実ですが
どこまでも自分の思い通りに生きたいと思う私が老病死のわが身の事実にであうとき
そのことに向き合うことも受け入れることもできなくて苦しみ悩み迷うというのです。
 
 闘病といいます。病と闘うというのです。
その気持ちは本当に尊く大事です。気持ちがなかったら苦しい治療に耐えることもできません。
しかしどんなに頑張っても必ず命終える身であることに変わりありません。
 
 仏さまは病と共に老いと共に生きることを教えてくださいます。
老病死の苦悩のわが身をそのまま引き受け「必ず救うまかせよ」と
南無阿弥陀仏のお喚び声となっていつも私にご一緒です。
 
 ナンマンダブツとお念仏を申して病んでいけるのです。
ナンマンダブツとお念仏を申して老いていけるのです。
ナンマンダブツとお念仏を申して死んでいけるのです。
 
 死んでいけるとは死んで往くところがあるということです。
死んだらお終いではありません。
 迷いを離れて阿弥陀さまのお浄土に往きさとりの仏に生まれさせていただけると
往生浄土のみ教えを私のこととして聞かせていただきましょう。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.3.10)

ご法事のご縁を大切にお勤めさせていただきましょう

 17回忌のご法事の申し込みがありました。
ご法事のご通知はお寺から毎年12月の暮れにご法事を迎えるお家に差し上げています。
 はっと思ったのは、そこのお家は7回忌13回忌とこれまでご法事をお勤めしたことがない
日頃お寺とあまりご縁のないお家だったということです。
 
 17回忌というと大切な方がご往生されて16年が経った今、なぜご法事のお勤めを思い立ったのかなと思ったのです。
ご事情がありましてお寺でお勤めをすることになりました。
 お母さんのご法事です。遺った子どもが施主となってお勤めすることです。
大切な方とお別れして年月が経てば経つほどに先に往かれた方のことを思う気持ちも変わってくるものです。
時間が経ったら忘れてしまうような関係ではありません。
 時が経てば経つほどにその人のことを身近に思えるようになることもあるのではないでしょうか。
亡くなられた年齢に近づけば近づくほどにまた思いも違ってくることかなと思ったりします。
 
 お寺からご法事のご通知をすることも大切なことだと思います。
17回忌の後は25回忌33回忌50回忌と続きます。
その間には新しい家族も増えてまいります。いのちのつながりは広がってまいります。
 ご法事を勤めるかどうかは後に遺った方が考えることです。
 
 ご法事は大切な方とご一緒だったことを思うご縁です。
大切な方がいて今の私があるということです。
 大切な方と出会いそして別れるということですが
私たちのお念仏のご法義をいただきますと、別れるといってまた出遇っていくということです。
お浄土の仏さまとなってまた私のところに還ってみえて
ナンマンダブツとお念仏を申すなかにいつでもどこでも出遇っていけるといただきます。
 
 人と人との別れはありますが、ご法事のご縁をいただいて
先に往かれた方々も後に遺った私たちも共々に大きないのちのつながりのなかに生かされて
ご一緒させていただいていると聞かせていただきます。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.3.9)

「呼ばぬなら 呼ばせてみせよう ナモアミダ」

 あるお寺さんの山門の掲示板に「呼ばぬなら 呼ばせてみせよう ナモアミダ」という言葉が掲げてありました。
その言葉を見てすぐ思い出したのが、あの戦国の武将の信長、秀吉、家康の句です。
 信長は「鳴かぬなら 殺してしまえ ホトギス」秀吉は「鳴かぬなら 鳴かせてみせよう ホトトギス」
家康は「鳴かぬなら 鳴くまでまとう ホトギス」と、それぞれの武将の性格心持ちを詠んだ句として有名です。
 
 さて「呼ばぬなら 呼ばせてみよう ナモアミダ」皆さんはどのように聞かれますか。
ナモアミダ南無阿弥陀仏は阿弥陀さまの「まかせよ救う」のお喚び声おはたらきです。
 呼ぶというのはこの私です。私がお念仏を申すということですが
中々この口からお念仏がでない私です。
 
 この私のこのしぶとい口からお念仏が出てくださるということは
阿弥陀さまのおはたらきがもう既に私のところに届いてくださってあるしるしだといただきます。
 
 「呼ばぬなら 呼ばせてみせよう ナモアミダ」と
阿弥陀さまの大きな大きなお慈悲のおはたらきのなかに私たちはもう既に救い取られてあるのです。
 そのことを聞いてくれよ聞かせていただくその中に私の口をこじ開けてナンマンダブツとお念仏が出てくださるのです。
 
 私が私がとどこまでも自分を中心に日々生活している私たちですが
私の見えないところで私をそのまま支えてくださる阿弥陀さまのおはたらきがあることをまた味わわせていただきます。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.3.8)
円光寺
〒870-0108
大分県大分市三佐3丁目15番18号
TEL.097-527-6916
FAX.097-527-6949
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