ニセモノとホンモノ
振り込め詐欺の事件が後を絶ちません。次から次と新手の詐欺がでてきます。
誰しも詐欺に引っかかりたくないですよね。
詐欺に遭うとはニセモノをつかまされるということです。
では詐欺に遭わない対処法はというと常日頃からホンモノに親しんでおくということでしょう。
浄土真宗は真実まことの宗教といいます。
歎異抄に「煩悩具足の凡夫 火宅無常の世界は よろづのこと みなもつてそらごとたわごと まことあることなきに
ただ念仏のみぞまことにておはします」という御文があります。
「ただ念仏のみぞまこと」です。
念仏だけがホンモノだということは、他の世間の事柄はみんなニセモノということになります。
実はこの私もニセモノと聞かせていただきます。
ニセモノなんて言われたくないし、私はホンモノのこの私を生きていると思っているのではないでしょうか。
仏さまはこの私を煩悩具足の凡夫と教えてくださいます。
これも素直に「はいそうです」とは頷けません。
お念仏をよろこばれた妙好人の因幡(現鳥取県)の足利源左同行のことばに
「偽(にせ)になったらもうええだ。なかなか偽になれんでのう」とあります。
ある時「このわしゃ偽同行で、寺に参れば阿弥陀さんの前へ出て、念仏喜ばせてもらうけんど
家に帰ってくると忘れてしもうて全くわしゃ偽同行だいなあ」というある人のことばに対してだそうです。
偽も偽、これほどのニセモノはないのに、何かホンモノ面して自分はホンモノで
他の周りの言うことを聞かないものは全てニセモノとはからい決めつけて生きている驕り高ぶる愚かな私を
阿弥陀さまがニセモノと知らせてくださるのです。
「偽になったらもうええだ」とニセモノと知らせてくださるところに
真実まことの南無阿弥陀仏の仏さまがいらっしゃるのです。
仏さまに遇わせていただいてニセモノの私が知らされそのまんま必ず救われていくこの身を喜ばれたということです。
常日頃からホンモノに親しんでおくことが肝要です。
真実まことのお念仏のみ教えを聞かせていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.4.5)
浄土真宗というお救い、浄土真宗は阿弥陀さまのお救い、お念仏一つのお救いです
昨日は阿弥陀さまという仏さまは声になった仏さまというご法話を拝読させていただきました。
いつでもどこでもこの口に称えることができる声になってくださいました。
この後『浄土真宗の救いのよろこび』を皆さんでご唱和させていただきます。
「阿弥陀如来の本願は 必ず救うまかせよと 南無阿弥陀仏のみ名となり たえず私によびかけです」で始まります。
阿弥陀さまは「必ず救うまかせよ」と南無阿弥陀仏となって私たちを喚んでくださってあります。
ナンマンダブツナンマンダブツとこの口からお念仏が出てくださるというのは
もうすでに阿弥陀さまの大きな大きなおはたらきのなかに抱きとられてあるということです。
私の口に称えるお念仏ですが、そのまま聞けよといわれます。
南無阿弥陀仏の大本です。
阿弥陀さまはどんな仏さまで、この私をどう救うてくださるのか、南無阿弥陀仏のいわれを聞かせていただくのです。
空念仏といいます。お念仏そのものは有難い阿弥陀さまのお喚び声です。
ただ口に称えるだけだったらこれほどもったいないことはありません。
声に出してお念仏申せばよいと思い込み
そこに座りこんでしまったら阿弥陀さまのお心に遇わずじまいになることです。
阿弥陀さまがこの私を「この如来にまかせよ、必ず救う」と届いてくださっているのが南無阿弥陀仏です。
迷いの中にありながら迷いを迷いと気づくことなく朝から晩まで私が私がと煩悩の心をたぎらせて生きている私たちです。
ただ迷い苦悩し続けるしかないこの私を、何とか救いたいお浄土に往き生まれさせようと
阿弥陀さまは願いをおこされ成就して南無阿弥陀仏の仏さまと成ってくださったのです。
煩悩の心をなくしたら善いことをしたら救うという仏さまではありません。
ありのままの私をもうすでにご存知で煩悩の身そのままを救うとおはたらきなのです。
まかせよ救うそのまま救う必ず救うの南無阿弥陀仏のお心おはたらきを聞かせていただき
ナンマンダブツナンマンダブツと「おまかせします阿弥陀さま」「ありがとうございます阿弥陀さま」と
お念仏申させていただきます。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.4.4)
「声になってアミダさまはいらっしゃる」
今朝はご本山(京都西本願寺)発行の「仏教こども新聞」(2019.4月820号)から
今月のことば「声になってアミダさまはいらっしゃる」のご法話(前田純代師※原文のまま)を朗読させていただきます。
ナモアミダブツは声の仏さまです。
口でとなえると同時に、耳で聞く仏さまです。
みんながイメージする仏さまは木像や絵象の仏さまではないでしょうか。
目に見える仏さまは、とてもきれいですよね。
けれども、お寺やお仏壇など直接見える場所は限られていますよね。
アミダさまという仏さまは、どうしたら私たちといつでもどこでも一緒にいられるかを
長い長い時間をかけて考えられました。
そして、声の仏さまになることを選ばれました。
あなたがナモアミダブツと声に出せば、そこにアミダさまはいらっしゃって、あなたを抱きとってくださっています。
だからいつでもどこでもとなえてよいのです。
お風呂の中でも、トイレの中でも、お布団の中でも、ナモアミダブツととなえたとき
アミダさまはあなたとご一緒にいらっしゃいます。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.4.3)
新元号「令和」が発表されました
昨日は新元号が発表されるということで日本中が大騒ぎでした。
私もテレビの前でその瞬間を待ちました。予定の11時半を過ぎて11時40分頃でした
全国の皆さんが固唾をのんで静寂の中に菅官房長官の「新しい元号は令和です」という発表を聞きました。
「れいわ」と読みます。仏語読みでは「りょうわ」です。
この令の字はお経さんに令解(りょうげ)という言葉があって人々をさとりに導くという意味です。
ただ「りょうげ」というと了解する了や受領する領解する領を思い浮かべます。
浄土真宗では領解文といって阿弥陀仏のまことのご信心をいただいた肝要を文言にして仏祖に述べるものがあります。
令と領・了とはまったく意味が異なります。
受領の領、了解の了は私のことでいいます。私が受領する、私が了解するということで
仏さまと私の関係でいうとこの私が仏さまのみ教えを聞く領解するご信心をいただくさとるという意味になります。
ところが令は令解といってさとりに導くという意味ですから
さとりに導くのは私ではありません。仏さまなのです。
この令は詔(みことのり)といって天皇の詔ですから命令という意味になります。
律令社会の時代にあって広く天皇を中心にした法律をいうのです。
命令の令というと今の国民主権の民主国家にふさわしくありませんが
令には姿形いう意味があります。令嬢の令です。
令和という言葉は万葉集が出典といいます。
万葉集のなかの梅の花を詠んだ歌に「令月」という言葉があって姿形のよい月という意味です。
そして「風和ぎ」です。新春の頃月もよく清かに風もやわらかく吹いて気持ちもおだやかに歌を詠むということでしょう。
新元号が発表されるにあたって自分なりの予想をした人が多かったと思いますが
令の字は248番目の元号で初めて使われた文字だそうで大方の予想を裏切り新鮮な新元号の誕生となりました。
今回改めて一つの文字、言葉のいわれを聞くことで遠い古(いにしえ)の歴史や文化にふれて心豊かになります。
先人が遺し伝えてくださった言葉をたずねていくことの大切さを思います。
私たちの阿弥陀さまは言葉になられた仏さま、声になってくださった仏さまです。
南無阿弥陀仏の仏さまです。
南無阿弥陀仏のお心おはたらきをご縁ご縁にたずねてまいりましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.4.2)
4月1日、新年度です
今日4月1日で新年度に入ります。
学校で職場でまたいろいろなところで皆さん新たな気持ちでそれぞれの生活が始まります。
新年度は平成31年度ですが、5月からは元号が平成から変わるということで
今日11時半から新元号の発表があります。
長い日本の歴史上これまでになかったことで、新元号を予想したり何か日本中がそわそわしている感じです。
元号は日本独特な年次表記で生活に密着したものであり違和感のない親しみあるものがふさわしいと思いますが
最初から万人に受け入れられるものではなく、平成と最初聞いた時はえっと思った人も多かったと思います。
30年の時を経て今、明治大正昭和平成とスーッと入ってきます。
どなたが考えるのか、熟慮に熟慮を重ねた上でのことだと思い量ります。
昨日は甲子園の選抜高校野球準々決勝で明豊高校が勝ってベスト4に進出しました。
今大会3度目の勝利です。試合終了後明豊高校の校歌が3回流れたということです。
明豊高校の校歌はこれまでの校歌のイメージとはかなり違います。
南こうせつさんが奥さんの詞に曲をつけたという校歌です。
こうせつさんの声で歌われる校歌は何かフォークソングを聞いているような感じです。
初めて聞く人はえっと思うんじゃないでしょうか。
校歌といったら大体の曲の感じパターンが決まっています。最後は勇ましく歌い上げて終わるのが通例です。
勝ったものは去年の夏の大会の秋田金足農業高校のように背中を大きく反って元気な声で歌います。
負けたものは相手の校歌を聞いて改めて負けた悔しさを実感します。
明豊高校の校歌を聞いたとき負けたチームの選手関係者応援団はどんなことを思うのでしょうか。
3回流れました。4回5回と流れると優勝ですが、球場全体でみんな歌いだすのではないかなと思ったりします。
歌詞とメロディが耳にスーッと入ってきて、何か勝負を超えたという感じさえ受けます。
こうせつさんは甲子園に流れる校歌をイメージして作ったのではないと思います。
勝敗も何もかも超えてどの人も夢をあきらめないで希望をもって社会に旅立ってほしいということではないでしょうか。
新年度です。希望をもって新たな気持ちでこれからもお念仏申すなかに日暮しさせていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.4.1)