どんな心持ちでお念仏申されますか?
私たちのご法義は念仏一つで救われるというご法義です。
親鸞さまが法然さまから教えていただいた浄土真宗阿弥陀さまの本願念仏の救いの法です。
ただお念仏申す。
皆さん今日もこの口からお念仏が何度も何度も出ましたね。
お念仏を申す、どういう心持ちでお念仏を申してらっしゃいますか。
今日のお念仏と昨日のお念仏、お念仏申す心持ちはいつも同じでしょうか。
この本堂阿弥陀さまのご尊前に座ると自然に手が合わさりナマンダブナマンダブとお念仏申せます。
それも皆さんご一緒にということで本当に有難いことです。
皆さんはお念仏を申したらどうなるのか考えたことがありますか。
お念仏申したらどんなご利益があるのかということです。
お念仏一つで救われるといってお念仏の救いってどういうことでしょうか。
病気が治るとか金回りがよくなるとかというご利益をいう宗教がありますが
お念仏申して自分の思いがかなう何かいいことがあるということが救いなのでしょうか。
それこそ何でも自分の思い通りになればいいですね。
でも昨日一日のことを振り返ってみても中々どころではない思い通りにならないことばかりです。
周りのこともそうですがこの身のことです。
思い通りにならないと腹が立ちます。そして愚痴がこぼれます。
その悪たれをたたくこの口からナンマンダブツとお念仏が出てくださるのです。
欲をだし腹を立て愚痴をこぼすこの私を阿弥陀さまは叱るのではありません。
ずっとずっと私に寄り添ってただただ寄り添って南無阿弥陀仏と喚んでくださるのです。
「私がいるよ大丈夫だよ。どんなことがあっても決してあなたを見捨てないから安心して
あなたのできることを一緒にさせてもらうよ」とのお喚び声です。
阿弥陀さまはいつでもどこでも私のことを心配して見て取って
護ってくださってあるのです。
ナンマンダブツとお念仏申し南無阿弥陀仏のお心を聞かせていただいて
阿弥陀さまのおはたらきにまかせて励まされて生きて往けるのです。
南無阿弥陀仏の大安心のなかに今日も一日日暮しさせていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.12.10)

大きな声でお念仏
昨日ご法事があって私のすぐ後ろに小学5年生の男の子が座ってお勤めをしました。
私につけるようにナマンダブナマンダブと大きな声でお念仏申して
お正信偈さまも一緒に大きな声でお勤めしてくれました。
お参りされていたご家族ご親族の方も嬉しく思ったんでしょうね。
「よう声が出てばあちゃんきっと喜びよんよ」と言われます。
ひいばあちゃんのご法事のご縁でした。
お念仏の声が出るといいます。
声を出せと言われれば声が出るようなものですが中々声がでません。
ご法事で聖典をお配りして皆さんご一緒にお勤めしましょうといって
全くお勤めの声が聞こえない本をめくる気配だけ感じるご法事があります。
何かちゃんと間違わずに読んでいるのか見られているみたいで変な感じです。
子どもっていいなと思います。
素直にそのまま「はーい」と受け入れて声を出してくれます。
ご家族の方が「サマースクールのおかげです」と言われました。
夏休みの子ども会に何回も参加していることでナマンダブっと声が出ると言われるのです。
ご一緒にお念仏申しましょうと言われて大人は考えますね。
南無阿弥陀仏ナモアミダブツって何かどんな意味か
ナマンダブってお念仏申したらどんなご利益よいことがあるのかなどと理屈が先行します。
確かに理屈も大事です。南無阿弥陀仏のお心を聞くたずねていくということです。
この頭で理解整理して行動することは私たちが小さい頃からしっかり教えられてきたことです。
ただ私たちのご法義です。
念仏一つで救われると聞かせていただきお念仏の先人がしていることを見てまねる
仏さまに手を合わせお念仏申してお礼をすることの大切さです。
私のこの口を通して声が出ます。お念仏の声が出ます。
私が出す声ですがそのまま阿弥陀さまのおはたらきがこの私に届きお念仏の声となって
この口から出てくださるといただきます。
子どもの声も大人の声もみんな南無阿弥陀仏のお喚び声
「必ず救うまかせよ」の阿弥陀さまのお心おはたらきがお念仏の声となって私に届けられているのです。
ナンマンダブツとお念仏が出てくださる有難さをそのままいただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.12.9)

12月8日今日は成道会です
今日12月8日はお釈迦さまがおさとりを開かれた成道会(じょうどうえ)という
私たち仏教徒にとっては大切な日です。
今から2500年ほど前インドの国にお生まれになったお釈迦さまが35歳のとき
菩提樹の下で瞑想に入られ12月8日の暁の頃(夜明け前)におさとりを開かれたと伝えられます。
そのおさとりの内容が仏教、お釈迦さまが説かれた教えとして私たちに伝え届けられているのです。
仏教は成仏道の教えであり迷いの私が悟りの仏に成る道を教えてくださっています。
昨日は海潮寺さんの洗心保育園で成道まつりという行事がありました。
私も保育園にお世話になってこの時期成道まつりでお遊戯をしたり歌ったりしたことを思い出します。
小さい頃から仏さまのご縁に遇うことの有難さを思います。
ののさま仏さまに手を合わせてお礼ができていました。
今日は仏教壮年会の例会ということで皆さんお参りです。
お釈迦さまが開かれた仏さまの教えのなかでも
阿弥陀仏さまの本願念仏の救いの法浄土真宗の教えをたずねていく会です。
これから益々寒くなりますがどうぞご縁ご縁にこのお朝事にお参りください。
ナンマンダブツとお念仏申して共々に今日の一日を始めさせていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.12.8)

町に「雪やこんこん…」の歌が流れます
昨日七日日のご縁でお勤めをしていましたら外から「雪やこんこん」の歌が聞こえてきて
後ろに座っていたそのお家の方が外に出ていった気配がしました。
「雪やこんこん」の歌です。
昨日いつもの日課のように朝の7時半からNHKの衛星放送で朝ドラを観て
そのまま続けて俳優の火野正平さんが日本全国をチャリで行く「心の旅」を観ます。
ちょうど今週は大分県で昨日は狭間から野津原の塚野温泉をめざす放送でした。
寒い中を自転車をこぐなかで「雪やこんこん」の歌が聞こえてくるんです。
それに火野さんが「こんな寒いのに雪やこんかんかい」とつぶやきます。
そのことを思い出してお勤め中に不謹慎ですが今朝この歌を聞いたなと思いを巡らしました。
お勤めが終わって「雪やこんこんって何ですか」とお家の方に尋ねました。
皆さんはご存知ですね。灯油の宅配サービスだというのです。
家に帰って坊守にそのことを話すとさっきここにも来たということです。
そして夕方玄関のポストに「雪やこんこん」の灯油のチラシが入っていました。
昨日は何か「雪やこんこん」で一日中つながったように思います。
灯油の宅配です。寒い時に外まで買いに行くのではなく家まで届けてくれるのです。便利で助かります。
うちは以前からあるところに頼んで持ってきてもらっています。
今お坊さんの宅配があることをご存知ですか。
お坊さん便といってお葬式や法事のお勤めをお坊さんにお願いするサービスです。
決まったお寺にではなく葬儀社などがそうした手配をしてくれるそうです。
便利で今のニーズにあったサービスなんでしょう。ネット上でよく見かけます。
お寺とご門徒の関係はその時どきのサービスではありません。
今までもそうだったしこれからもという関係です。
葬式法事の時だけ用事がある関係ではないのです。
お念仏のご縁つながりは平生からの関係です。
今お寺との関係を疎んじる傾向がお坊さん便というようなサービスを生んだのではないかなと思います。
日頃からお寺にお参りしたり懇志をはこんだりというお寺との関係を負担に思う人が増えているということです。
お寺とのご縁つながりはズバリ安心だと思います。
決まったお寺があることで何かの時におまかせできるという安心です。
その時どきで対応を考えることはできるようで不安がつきまといます。
そして後で後悔することもあるように聞きます。
そして何よりもこの安心は仏さまの安心をいただくことにあります。
仏さまのサービスです。「我にまかせよ必ず救う」南無阿弥陀仏のおはたらきです。
今朝の御文章さまにも他力の信心と何度もでてきました。
信心とは安心(あんじん)なりと聞かせていただきます。
南無阿弥陀仏の信心をいただいて大安心のなかに今日の一日も寒い中ですが日暮しさせていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.12.7)

「永眠する」ってどういうことでしょうか?
11月に入って年賀欠礼のハガキが届くようになりました。
ほぼ同じような定形の決まった文言です。
まず「喪中につき新年のご挨拶を失礼します」と書かれています。
父・母何々が何歳で「永眠しました」とあります。
届いた4通の内3通がみんな永眠です。
永眠とは永くずっと眠り続けるということですね。
今生きている私たちも死んでずっと永眠するということでしょうか。
お葬式の弔辞で決まって「安らかにお眠りください」と言われ
その延長上にこの永眠ということかなと思ったりしますが
何か違和感を覚えます。皆さんはどのように受けとめられますか。
仏教浄土真宗のご法義は
私たちはこの命終えるとき南無阿弥陀仏のおはたらき一つで阿弥陀さまのお浄土に生まれて仏となり
この世に還って来て人々を救うと聞かせていただきます。
仏さまになったうえは後に遺った私たちを救うと
眠っておれなくてお浄土からすぐさま還って来て
「仏法を聞いてお念仏申す身になってくれよ」と南無阿弥陀仏のおはたらきとなって
ずっと私とご一緒してくださるというのです。
もう一通はお寺の方からのものでそれには「往生の素懐を遂げました」と書かれてありました。
お寺さんが永眠すると言ったらおかしいです。ただこれも定形の言葉で何か物足りない感じです。
何年か前に心なごむハガキをいただきました。
紙面いっぱいに文字が綴られ故人の人となり家族の思い出が書かれて
これからも私たちを見守ってくれてると思いますとありました。
実際にお会いしたことがない方ですが生前のあり様が偲ばれ
今も大きないのちのつながりのなかに共々に生かされてあることを思いました。
今はパソコンという便利なものがあり定形の文章も宛名書きもすべてできて私も助かっていますが
ちょっと寂しい気がして何か一工夫できないものかと思います。
自分の思いを文章にして伝えることは大変ですが互いに通じ合うご縁になります。
日頃からそうした文章を考えるのも一つの終活かなと思ったりもします。
お寺の私たちもこんなことを書かれたらどうですかと
日頃から皆さんと話して文章を考え作ってみるのもいいかなと思います。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.12.6)
