目黒のさんま
今年もサンマが不漁ということです。
昨日スーパーで小ぶりのサンマをみました。
びっくりしたのは生さんまとあって腹ばたを取っているんです。そして値段も高いということです。
一方冷凍さんまがいっぱいあって大ぶりとはいえませんがある程度の大きさでそれも安価でした。
この前の日曜日に東京目黒で毎年恒例のさんま祭りがあったそうです。
ずっと以前からの催しと思っていたらまだ24回目ということです。
古典落語の「目黒のさんま」に由来する地域おこしの一大行事で目黒の皆さんが立ち上げて24年ということです。
目黒でさんまが獲れるということではありません。
それで近くの築地からさんまを仕入れて皆さんに無料でふるまっていたら
そのことを聞いたさんまの漁獲地で有名な岩手県の宮古の皆さんが協力を申し出て
さんまを無料で提供しますと毎年7000尾送ってくれているということです。
無料で本格的な炭火焼きで振る舞うということもあって大変な大賑わいということです。
ところが今年はさんまが不漁ということでお祭りの開催も危ぶまれましたが
宮古の方が冷凍さんまを集めて集めて7000尾送ってくれたそうです。
初めての冷凍さんまによる今年の目黒のさんま祭りになりましたが大盛況だったそうです。
このイベントにかける皆さんのあつい心意気を思います。
今までも東日本大震災があって中断しかねないこともあり
近年はさんまの漁獲時期がずれてこの時期に宮古で7000尾用意できるか難しくなって
北海道から買い取って送ったこともあるそうです。
ただ冷凍さんまですからワタという通の人にはたまらない腹ばたがないのです。
それこそ古典落語じゃないけれど
殿様が今年のサンマを食べたら少し様子が違うので「これはどこのサンマじゃ」と尋ねて
「これこれしかじかで東北の宮古という所から取り寄せました」といったら、最後の落ちですね。
「やはり目黒のさんまが一番じゃ」とね。
目黒のさんま祭りの背景を聞いて思うのは、さんまですよ。
さんまとはいえそこに人の思いがいっぱいつまっているということです。
それもつながってあるということです。すばらしいことだと思います。
一人の思いだけでは到底できません。何人おればできるということでもありません。
7000尾そろえることって本当に大変だと思います。
お金のことでいっても大変です。
そうした困難を乗り越えてサンマがつないてくれる人と人のご縁です。
目黒のさんま祭りを楽しみにしている人を含めてみんながつながるということです。
私たちのお念仏です。
お念仏のみ教えで私たちはつながります。今日も皆さんつながっています。
円光寺というここだけではなくいろんな所でいろんな方々とつながっているのです。
お念仏のおはたらきはこれまでご縁のない方にも行き届きこれからもつながっていくということを
お念仏のみ教えを聞かせていただき深く味わわせていただきます。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.9.11)
台風15号の余波
台風15号が首都圏関東地方を直撃したということですが
昨日昼過ぎのテレビの実況で人が街にあふれ駅に向かう人の長蛇の列の光景が放送されていました。
台風一過でまだ風も強く陽ざしも照りつける中です。
何か異様な光景にみえました。
会社に出勤しようとする人たちです。
一列に並んでいつ最寄りの駅に着くのかも分からない、駅についてもいつ電車に乗れるのか分からない
電車に乗れて会社に行っても仕事になるのか分からない、そうした不安がいっぱいあると思うのですが…。
日本人って本当に律儀だなと思います。
みんなもしていることだからできるのでしょうか。
とにかく会社に出勤するには今できることはこれだと思い込んでひたすら待つのでしょうか。
でも何かおかしなことだと思います。
首都圏はIRをはじめ私鉄路線が網の目のように張り巡らされていて通勤通学の足になっています。
マイカーなんか要らないほどに本当に便利なのです。
だから少々遠方1,2時間もかかるところからも通勤している人が当たり前にいるのです。
この電車がストップしたら大混乱になることは誰もが予想できることです。
ただ明日は運休しますと分かっていたら少しは混乱も収まっていたのではないかと思うのですが
この計画運休が徹底しないというか、何時頃までには回復するだろうという甘い見通しの情報が飛び回ったと言われます。
朝8時前には運転開始する電車があったり通勤客がいたりしました。
一方で午後2時になっても駅への道に炎天下何百メートルも並ぶたくさんの人がいたということです。
そしてまたびっくりしたのが会社企業の対応です。
会社の方で休業しますとか出勤しなさいとか連絡するのではなく
出勤するしないはあなたの判断にまかせますという連絡があったというのです。
企業の巧みな責任逃れですよ。
出勤途中で何か事故でも起こってもあなたの責任ですといっているようなものです。
こうした不測の状況下でも律儀に振る舞う人たちを見るにつけ、人の命をどう思っているのか本当に腹が立ちます。
私たちの阿弥陀さまのお救いです。
阿弥陀さまの方で私が救われていく全ての手立てを南無阿弥陀仏とつくってくださってあるということです。
南無阿弥陀仏のお救いです。ただ「まかせよ救う」といつでもどこでもおはたらきです。
苦悩のなかに何をしていいかわからない不安を抱え迷う私に
その上でこうしなさいああしなさいと指示し私の判断に責任を負わすのではなく
私阿弥陀が一切全て責任をもつからそのまま私にまかせなさいと南無阿弥陀仏と呼びかけおはたらきなのです。
「まかせよ救う」の力強い南無阿弥陀仏のお念仏です。
お念仏申し阿弥陀さまのお心を聞かせていただくなかに私たちの現実生活です。
台風のなかでも南無阿弥陀仏の大きなお心お救いのなかに安心して
今私にできることを精いっぱいさせていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.9.10)
ご法事のご縁に遇わせていただくことの有難さ
昨日は日曜日で17回忌25回忌33回忌とご法事が三件ありました。
今東京方はお葬儀をしないところが増えてお葬儀をお勤めしてもご法事は3回忌7回忌までで終わるというお話を聞きます。
ご法事をお勤めすることご法事のご縁に遇うことの意味が分からなくなってきているようで残念です。
ご法事は先に往かれた大切な方のお命日を縁に
後に遺った有縁の人たちが御仏前に集まってその方を偲ぶその方のことを訪ねていくということです。
それはご法事をお勤める私たちのこれまでの人生を振り返るという大きなご縁でもあります。
一周忌の時に思うことと25回忌で思うことは違います。
私たちが段々と歳を取っていき先に往かれた方の年齢に近づいていくことで
その人の思いがより身近に感じられるところが違ってくるということです。
昨日の25回忌33回忌になりますと
ご法事のお方が亡くなってから後に生まれたお孫さんとか曾孫さんとかがお参りでした。大変有難いことです。
このご縁に先に往かれた大切な方のお話をいっぱいしてくださいとお話します。
先に往かれた方は後に遺った皆さんの命の大恩人なのです。
その大恩人のことを忘れない、知らないことがあったらお話を聞けばいいのです。
そしてその人をよくご存知の方は子や孫に次の人にその方のことを伝えていくというお役目お仕事があるということです。
それは日頃の生活のなかでは中々できにくいことです。
私のことで精いっぱい生きることで精いっぱいの私たちお互いですからね。
ご法事の仏さまのご縁だからこそお話ができるのではないでしょうか。
今はご法事も広く親戚中にご案内をするようなことは少なくなってきました。
ただそのご家族の人子や孫曾孫まで入れたら10人を超えます。
人数の問題ではありませんが有縁の方々に仏さまのご縁に遇っていただくということも
ご法事をお勤めする施主の大きなお役目お仕事だと思います。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.9.9)
「いいお葬式だったね」と言われるお葬式ってどんなお葬式でしょうか?
昨日葬儀をテーマに大海組の連続研修会がありました。
「これまでで印象に残っている葬儀は」「いいお葬式だったと言われるお葬式は」どんなお葬式でしたかという問いに
話し合い法座が開かれ受講生ご門徒皆さんからいつも以上にいろんなお話を聞くことができました。
今は家族葬という葬儀の形態が一般的になって多くなっていますが
葬儀は人と人との最後のお別れのご縁であり、人と人との生前の深いつながりを顧みるということです。
喪主遺族の挨拶、弔辞や弔電、写真の掲示やビデオ上映でその人となりを懐かしく偲べて
なかには知らないことにあったりして新鮮な出あいにもなるというお話です。
人数だけの大きなお葬式ではなく有縁の人が集まって見送ることの大切さを思いました。
お通夜のお坊さんの法話についても、仏さまのお話を聞くことは有難いご縁だが
日頃その人がお寺参りしていたかどうかは知らないけれど
ご院家さんが月参りとか法事にお参りした時のことや日頃のお寺とのご縁などのエピソードを
お話してくれると何かお寺と一気につながったような感じがして嬉しいというお話です。
日頃のご縁です。お寺とのつながりです。
今は町の方で葬儀社から直接頼まれる葬儀が多くなったといいます。
といっても日頃からご縁のない知らない方です。
知らない人だからお葬式ができないということではありません。
お勤めさせていただきますが、日頃があっていろんなお話ができるのです。
お参りした皆さんもお寺との日頃のつながりその人の生活ぶりが聞けて手を合わせお見送りできるというのです。
そしてこれが肝心要です。
死んだらお終いではなくてこれから仏さまのご縁が始まるということです。
七日七日のご縁、四十九日、百か日、初の盆、一周忌、三回忌と仏さまのご縁はずっと続きます。
どなたのためのご縁かというと、後に遺った私たち皆さんのために開かれたご縁なのです。
仏法を聞いてくれよと仏さまの教えを聞いてお念仏を申す身になってくれよという仏さまの願いです。
先に往かれた大切なお方は確かに確かに仏さまになってくださったといただけるのです。
今日は仏教壮年会の例会のご縁です。
月一回の日頃のご縁です。
今日もお寺の本堂阿弥陀さまの御尊前でご一緒にお正信偈のお勤めができました。
お通夜でもお正信偈のお勤めを皆さんご一緒にさせていただきます。
私の印象に残るお葬式、いいお葬式だったと思い返すお葬式は
ご門徒衆有縁の皆さんとご一緒に阿弥陀さまの御尊前でお正信偈のお勤めができて
人と人との今生のお別れができるお葬式ですとお話させていただきました。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.9.8)
浄土真宗のお寺はお念仏の道場です
浄土真宗のお寺は念仏の道場とか聞法の道場と言われます。
道場とは道を求める道を聞くところということです。
お念仏のみ教えに私が歩ませていただく道を聞かせていただくということです。
道を聞くとは行く道の方向を聞くことであり、私の人生の行く先が決まるということです。
その行く先を阿弥陀さまのお浄土だよと教えてくださるのが浄土真宗、浄土を真実の依りどころとする教えなのです。
この念仏の道場といってお寺に来ないとお念仏の道を聞くことができないのかというと
本願寺8代目の宗主蓮如上人は「南無阿弥陀仏」のお名号を何幅も書かれて全国各地に送られ
お名号をいただいた門徒同行がお家の中心に懸けてご本尊として仰いでいかれました。
阿弥陀さまが在しますところを念仏の道場として人々がお念仏のみ教えを聞き
お念仏のみ教えが日本全国津々浦々に伝わって
800年の時空を超えて今こここの私のところにお念仏のみ教えが届けられているのです。
皆さん私たちの最たるお念仏の道場は皆さんのお家のお仏壇お仏間です。
その度お名号をかけるどころではなくて常設です。
お寺のお内陣のように常にそこに阿弥陀さまが在しますところなのです。
お寺には中々お参りできなくてもお家のお仏壇にお参りすることはどうでしょうか。
毎日私たちが生活しているお部屋のすぐ隣の間です。
阿弥陀さまが私のお家まで来てくださってあるのです。
お仏壇にお参りしましょう。
まず私から、お灯明をあげて線香を炊いて手を合わせてナンマンダブツの一声です。
その姿が家族の方子や孫に伝わっていく私に伝わってきたということではないでしょうか。
もっというならば皆さんが居ますところがお念仏の道場なのです。
皆さんが日々生活するなかでお仕事をしてても遊んでいても
ナンマンダブツとお念仏申すところが確かに確かにお念仏の道場になるのです。
人にああだこうだよということではなく
ナンマンダブツとお念仏を申すところそのままに
お念仏の声が隣の人周りの人に聞こえ伝わっていくということです。
南無阿弥陀仏と私たちの生活のなかにお念仏の道場を開いてくださり
あなたのいのちの往く先はお浄土だともうすでに用意をしてくださって
私と共に生きてくださる仏さま、そのお心おはたらきを南無阿弥陀仏と聞かせていただきます。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.9.7)