門徒報恩講の円成です
昨日で今年の門徒報恩講地域法座のご縁が円成しました。
11月末にお寺で親鸞聖人御正忌報恩講をお勤めし29日から門徒報恩講ということで
皆さんのお家にお参りさせていただきました。
私が住職を継職して門徒報恩講を思い立ち20年になります。
地域法座にお参りされる顔ぶれが変りました。
当初のメンバーが今の80歳90歳代の方たちで今は60歳70歳代の方が中心になりました。
80歳90歳代の方も20年前は60歳70歳代だったということです。
世代交代しつつほぼ同じ顔ぶれですが人数的には少なくなり
40歳50歳代の若い方のお参りは数人ほどです。
お寺参りの断り方というお話です。
「お寺参りしませんか」と誘われたときの断り方に二つあるといいます。
一つは「忙しいから」と断わられるといいます。
「お参りしたい気持ちがあるけれども今日は用事があっていけません」と言って一度もお参りしたことがない人です。
もう一つは「まだまだお寺参りするような歳ではない」と断わられるといいます。
お寺参りの適齢期は一体いくつなんでしょうかね。
お寺参りはまだまだ先のことと先延ばしして
結局はご縁がないまま人生を終わることになりかねません。
そもそもお寺参りする気持ちがないんでしょうね。
仏法に諸行無常の理を聞かせていただきます。
この世の中のことは何一つとどまることなく変わっていくという教えです。
私が私がといってる私も変わっていくのです。
諸法無我の教えです。
そういうなかにあって真実変わらない仏法をお釈迦さまが開いてくださったのです。
そして仏法の中でもお念仏の教えこそが私たち凡夫が救われていく道であると教えてくださったのが親鸞聖人です。
報恩講は親鸞聖人のご恩に報いていく仏事です。
私のための報恩講のご縁だった私のために今日のお朝事のご縁を開いてくださったと
親鸞さまそしてお念仏の先人に感謝して今日も一日お念仏を申して過ごさせていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.12.15)

真実変わらない南無阿弥陀仏のみ教えです
昨日は門徒報恩講で出町新町のお家にお参りしました。
二回びっくりしました。
一つは出町の平松さんの隣に駐車場ができて車がいっぱいとまっていたことです。
そして新町の幸野さんの隣に宅地が造成され4軒のお家が建つようになっていたことです。
いろいろとお話を聞くなかで新しいお家が建ち新しい人が地域に入ってみえるということです。
三佐にご縁のある方かない方かわかりませんが、30歳代40歳代の若い世代の方だと思います。
家族がいます。子どもがいます。そんなことを思うと何か町が活気づくことになっていいなと思います。
出町新町も畑とか空き地がありましたが、それが住宅でうまって何か別の町に来たような感じさえしました。
お寺からすぐそこのことですが、ちょっと見ないうちに変わるんですね。
周りの町並みが変り人が変わるということです。
この目は外を向いていますから外のことはよくわかります気づきますが
変わるといって一番といっていいほど変わっているが、そして一番気づかないのが我が身のことです。
変わるということ、無常です。
この世の中のことで一つとして変わらないものはない
生老病死のわが身の事実変わっていく私のことを教えて
変わらない真実まことの仏さまが私をそのまま見守ってくださり
いつでもどこでも必ず救うとおはたらきくださってあると聞かせていただくのが南無阿弥陀仏のご法義なのです。
阿弥陀さまはあなたをほっとけない仏さまです。
迷いのなかにありながら迷いを迷いと気づかず朝から晩まで私が私がと自分を中心に
欲の心怒りの心愚かなの心を起こしては悩み苦しみ生きている危なっかしい私です。
そんな私が心配で心配でいつもご一緒くださる仏さまに成ってくださったのです。
どうぞ真実変わらない南無阿弥陀仏のみ教えをこれからもお念仏を申すなかに聞かせていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.12.14)

限られた命を無量のいのちに生かされて生きていく
夫婦漫才の大助花子の宮川花子さんががんを公表され大助さんと共に会見されました。
いつもの漫才のようすではありません。
しゃべくり漫才で花子さんが一方的にしゃべって大助さんは合いの手を打つのが精いっぱいで圧倒される
小気味よい話芸の面白さです。
もう二年近く前にがんが分かっていたが舞台の仕事との関係で治療もままならなかったなかでの今回の公表です。
花子さんは65歳で私より2つ下です。
60歳代70歳代の私たちのことです。
いつ私が家族がどういうことになるのかわかりません。
身近な方でがんになったことを聞きます。
家族の方にお話をお聞きします。
今は本人にがんを告知することが一般的ですが
がんが分かって急に落ち込んで食欲がなくなり以前の様子では全くないと家族の方が心配します。
すぐ近くにいながらどうしていいのか家族ができることって限られています。
病気になったらお医者さんです。
お医者さんは検査をしその症状に応じた療法をすすめてくれます。
がんの治療に大きく三つあるそうです。
手術してがんを取り除くことそして放射線治療もう一つが抗がん剤による化学療法です。
新薬もいろいろと開発されているようです。
今はネットでがんに関する様々な情報を検索することもできます。
ただ迷います。お医者さんにまかせるしかないのですが迷います。
それでまたストレスがたまって落ち込むことにもなります。
もう一つ究極的な選択です。
「もう治療の仕様がありません」と医者から言われて緩和ケア療法です。
緩和といってがんを治すのではありません。
体の痛み心の痛みを少しでも和らげるなかで最期を迎えるということです。
最終的には本人が選択することですがつらいですね。
家族もつらいですね。
いい方向に行けばいいんでしょうが分からない。
でも一つ方向を決める方向が決まるということでこれから生きていくということです。
がんになっても生きているのです。そしていつか命を終えていきます。
がんになってもならなくても私たちもです。
そういうなかに一つこの方向で生きていきましょうと決めて
本人も家族も医療関係者有縁の方々に支えられて生きていけるのです。
私たちの仏教浄土真宗のご法義は死んだらお終いではないというご法義です。
これからもずっとずっと生きていくのです。
ただ人の命は終えます。
死にたくない病気を早く治したい元気になりたいという思いは皆さん同じです。
ただかないません。どんな人もかないません。
限られた命に向き合うなかにお念仏のみ教えを聞かせていただきます。
私たちは人の命は終わりますが南無阿弥陀仏のおはたらき一つで阿弥陀さまのお浄土に生まれて
仏さまに成らせていただきこの世に還って来て有縁の人を救うおはたらきをさせていただくのです。
南無阿弥陀仏の無量のいのちのおはたらきに生かされて仏さまに成らせていただくいのちを今生きていると
聞かせていただくなかに老いていくなかも病むなかも命終えていくなかも
「いつも私が一緒だから大丈夫だよ」と私に寄り添い見守ってくださる仏さまと共に
支えてくれる家族や周りの方々と一緒に私たちは生きていけるのです。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.12.13)

冬の夜空に月がとってもきれいです
昨日門徒報恩講の夜の御座があって外に出たら東の空に満月がきれいでした。
今朝6時に梵鐘をついて西の空を見たら満月が低く大きくありました。
寒い冬の暗い空に闇夜を照らしてお月さまがぽっかり浮かんで光を放ってくださいます。
仏さまの智慧の光あたたかいお慈悲の光を思います。
月を愛でるといいます。
太陽の光はまぶしくて直接見ることはできませんが月の光はしみじみと眺められもの思いにふけります。
昨日中村哲さんのお葬式が福岡でありました。
亡くなられて以降テレビ新聞の報道で中村さんの功績そしてお人柄を知るほどに
本当に仏さまのような方だったんだなと思います。
色紙に「一隅を照らす」と書かれていました。
世界の片隅の光の当たらない人に光を照らすような活動です。
無私でただ人のために尽くすということで
それも小さな小さなことをずっとずっと続けてやり通していかれました。
中村さんにはおごるところが一つもなかったと周囲の方は言われます。
私たちはちょっといいことをするとそれを自慢し人に話したがります。
そんなことが微塵もなかったといいます。
その人生の哲学は「人間三食ご飯が食べられて家族がいっしょに暮らす」日々の生活にあったといいます。
30年来外国の軍隊が侵攻し内戦が続くアフガニスタンで
大干ばつもあって自然が破壊され飲む水も大地を潤す水も無い状況で井戸を掘り始めたといいます。
そして何年も何年もかかって水路をつくり砂漠の大地を緑の大地に戻して
農業ができるようになり人がそこに帰って来たというのです。
アフガニスタンの住民は食うために軍隊に入るといいます。
政府側か非政府側かテロ集団かどこかの軍隊に入ることで報酬を得て家族を養っていくというのです。
結局は同じ国民同士人と人とが殺し合い家族は引き裂かれていくという悲惨な悪い状況がいつまでも続くということです。
中村さんは貧困こそが戦争の原因であり貧困からの脱却こそが平和への道と思いを定め
何が必要なことか見極めてやるべきことを信念をもって一つ一つやり通していかれたのです。
ほんとに気の遠くなるような活動であり何の保証もないまさに命がけの事業だったのです。
道半ばにして銃弾に倒れた中村さんの意志はこれからも多くの人に色んな形で受け継がれていくことだと思います。
闇夜を照らすお月さまの光です。
燦々と光り輝く太陽の光ではありませんが確かに確かに一隅を照らしてくださっています。
阿弥陀さまの智慧の光お慈悲のおはたらきです。
南無阿弥陀仏となって私に届いてくださっています。
お念仏申し南無阿弥陀仏のお心を聞かせていただいて
私にできる精いっぱいのことをさせていただきたいと思います。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.12.12)

お念仏申すところ南無阿弥陀仏のお喚び声が聞こえてきます
称名念仏といいます。
称名は名を称えるということで南無阿弥陀仏のお名号を称えさせていただきます。
この称名を親鸞聖人はそのまま聞名と示されます。
阿弥陀さまのご本願第18願成就文の「聞其名号信心歓喜」のお心です。
其の名号南無阿弥陀仏のお心おいわれを聞かせて信心いただいて
身も心も喜ぶといわれます。
この人生です。
お釈迦さまは「人生は苦なり」とおっしゃいました。
この人生は私の思い通りにならないということです。
迷いの人生ともいいます。
阿弥陀さまの真のお心信心をいただいてお念仏申す身になったら
苦悩が無くなるのか迷いが晴れるのかというと
お念仏申すなかにもこの苦悩の人生迷いの人生を生きていかなければなりません。
ただ苦悩を超えて迷いを超えてお浄土への人生往生浄土の道を
阿弥陀さまの方でもう既に開いてくださってあるというのです。
「この道を来い」と阿弥陀さまが喚んでくださり「この道を往け」とお釈迦さまがお勧めです。
南無阿弥陀仏のお心を聞かせていただいてそのままこの道を往かせていただきましょう。
「この道を来い」とのお喚び声が南無阿弥陀仏のお心おはたらきです。
ナンマンダブツとお念仏申すところ南無阿弥陀仏の声が聞こえてきます。
「私がいるよ大丈夫だよ。どんなことがあってもあなたを決して見捨てることがないから安心して
一緒に生きて往きましょう」との力強いお喚び声に励まされて
どうぞ今日の一日もお念仏を申すなかに生かされて生きてまいりましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.12.11)
