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お念仏を申す生活法話

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どの方角が良いんですか?

 納骨堂に新しい納骨壇が入って昨日から申し込みをされた順番に場所決めをしていただいています。
26基とたくさんありますから迷うんでしょうね。
 「どれが一番いいんですか」と言われ「どの方角がいいんですか」とも尋ねられました。
墓相ということを言われているようでお墓の姿かたちや方角とかも言われるんでしょうね。
 
 納骨堂に行ってもらうとわかることですが
墓相といって納骨壇は古い新しいの違いはあってもみんな同じ形態のものです。
方角も一つの方角ではなく東西南北四方に向いています。
 
 お家お家それぞれの納骨壇にご先祖有縁の方々のお遺骨をご安置していることですが
納骨堂というみんな一緒のところにご安置させていただいているということです。
 
 みんな一緒のところとは阿弥陀さまが中心のところです。
この本堂もそうです。
阿弥陀さまが中心のところに私たちはご一緒させていただき阿弥陀さまの方を向いて座っています。
 
 日々の生活のなかでいつも阿弥陀さまの方を向いているわけではありませんが
阿弥陀さまからいうと私たちがそれぞれどんな方向を向いていても
阿弥陀さまの方がご一緒してくださるという南無阿弥陀仏のご法義なのです。
 納骨壇にはそれぞれ阿弥陀さまが中心にご安置されています。
 
 私たちは私が私がと自分を中心に思いはからい生きています。
我執といって私の思いはからいにとらわれてこれがいいあれがいいと迷っているというのです。
 我に執着して私たちは苦しみ悩み迷いからのがれることができないというのが仏さまの見立てです。
 
 そんな私に「我にまかせよ必ず救う」と阿弥陀さまはおはたらきです。
南無阿弥陀仏のおはたらきにまかせて納骨壇が東西南北どっちを向いていても
阿弥陀さまがご一緒のところに私たちはみんな生まれ往くことができるのです。
 
 南無阿弥陀仏のお心おはたらきを日頃から聞かせていただきましょう。
その時になったらまたまた私のはからいが出てくるのが私たちのようですが
お念仏を申すなかに阿弥陀さまのお心おはたらきを今日も一日聞かせていただきましょう。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2020.1.22)

泥田に咲く蓮の花のようにお念仏の人を讃えます

 お念仏をよろこんで生きられた方を妙好人と讃えられます。
お正信偈さまのなかで「是人名分陀利華」という言葉があります。
分陀利華という蓮の花の中でも最も高貴とされる白蓮華のことで信心の人を讃嘆していうのです。
 
 蓮の花は泥田に咲く白い清らかな花です。
まさに仏さまのお姿といただきます。
 泥田とは五濁悪世といわれるこの現実世界のことです。
煩悩うごめく泥のように濁り汚れた世界に白い清らかな花をポーンと咲かせるのです。
 阿弥陀さまからいただいた信心は清浄なお念仏の花となって私の汚れた心に咲いてくださるというのです。
 
 お念仏の花を咲かせましょう。
この口から出てくださるお念仏です。
 愚痴がこぼれ人の悪口が出るこの口です。
毎日かかさず多くの命をいただく欲の口です。
 この口からナンマンダブツとお念仏が出てくださるのです。
 
 まさに煩悩いっぱいのこの身にお念仏の花を咲かせていただくのです。
私が咲かせた花ではありません。
 阿弥陀さまがこの私を必ず救うという大きな願いをもって
何度も何度もあきることなくこの私を喚び続け喚び覚ましてくださった
南無阿弥陀仏のお喚び声のおはたらきなのです。
 
 お念仏を申すそのまんま阿弥陀さまのお心おはたらきを聞かせていただくお念仏申す生活です。
今日の一日もナンマンダブツとお念仏申してお浄土への人生を共々に歩ませていただきましょう。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2020.1.21)

日々の生活のなかに仏法を聞かせていただきましょう

 今日20日拝読の御文章さまは「八万の法蔵章」です。
「八万の法蔵をしるというとも後世をしらざる人を愚者とす」とあり
「一文不知の尼入道なりというとも後世をしるを智者といえり」と続きます。
 
 八万四千の法門といわれる多くの仏法を知っていても自らの後生の一大事を知らない人は
愚者といわねばならないというのです。
 仏法を学ぶということは学問を積み重ねて救われるのではなく
大事なことはこの私が阿弥陀さまの真実信心をいただいて救われることだよといわれるのです。
 
 学問を積み重ねて救われるのなら学問ができる勉強ができる人知識が豊富な人が一番に救われるはずですが
逆に積み重ねた知識が仏法の邪魔をすることもあるのです。
 
 私たちの小賢しい知恵で仏法を理解しようとするところに疑いが生じるのです。
仏法聴聞の場に身を置き仏さまの智慧をそのまま聞かせていただくことが肝要です。
 
 お念仏をよろこんで生きていかれた妙好人と讃えられる方がいらっしゃいます。
その人生は決して順風満帆なものではないものの南無阿弥陀仏の救いの法に出遇うなかで
「あなたの命そのまんま引き受けた。必ずあなたをお浄土に生まれさせる」と
ご一緒くださる阿弥陀さまに安心してナンマンダブツとお念仏申して生きて往かれたのです。
 
 日々の生活のなかにお念仏申して仏法を聞かせていただきましょう。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2020.1.20)

「困った時は俺の名前を呼ぶんだぞ すぐすっ飛んでいくからな」

 昨日久しぶりに映画を観に行きました。「男はつらいよ お帰り寅さん」です。
シリーズ第50作目ということですが渥美清さんは亡くなっていません。
 渥美さん主演の最後の第48作から約25年が経っています。
さすが山田洋次監督すごいですね。
以前の映画の場面を散りばめた思い出だけの作品ではありませんでした。
 テーマとストーリーがあって山田監督が今私たちに伝えたいことが随所にみられました。
過去の作品の名場面を織り交ぜながら脚色された秀作です。
 
 寅さんがずっといつも心配していた甥っ子の満男との関係が柱になっています。
満男も寅さんと同じように初恋の人に失恋します。
その相手がヨーロッパに行きそこで結婚家庭をもって今回は仕事で日本に帰って来たというストーリーです。
 
 満男はこれまでの人生で進学就職そして恋愛と大きな節目に迷うなかで
寅さんに苦しみ悩みを打ち明け寅さんからアドバイスをもらうわけですが
ある時は寅さんに反発することもありある時は救われることもあって
25年経った今寅さんの言っていたことがあらためて思い返されるというのです。
 
 親の25回忌33回忌のご法事を子どもが施主でつとめるご縁を重ねて思います。
子どもがほぼ親の年齢になるのです。
 親が何度も口うるさく言っていたことがその時はわからなくて背中を向けて聞いていたことが
ああそうだったんだと聞こえてくる受け入れられるということではないでしょうか。
 
 寅さんの言葉のなかに私たちへのメッセージが込められています。
映画の中で寅さんのあこがれのマドンナとともにこれまでの名場面が何度もでてきました。
 こんなこともあったなこんなこともと懐かしく観るなかに
現在の満男の生活です。妻に先立たれ高校生の娘と暮らすなかで昔の恋人に再会します。
新進作家ですが安定したこれからの生活が保証されているわけではありません。
 今も満男は苦悩の中にあるのです。
誰かにこの悩みを聞いてほしいと思うとき寅さんの言っていた言葉が聞こえてくるのです。
「満男 困った時は風に向かって俺の名前を呼ぶんだぞ すぐすっ飛んでいくからな」と。
 
 阿弥陀さまのお慈悲のおはたらきです。
「困った時にゃお念仏に相談しなされや」とお念仏をよろこばれて生きた妙好人の言葉です。
困った時だけではありません。この阿弥陀さまはいつでもどこでも嬉しい時も楽しい時もです。
 阿弥陀さまはいつも私に寄り添ってご一緒くださる南無阿弥陀仏のおはたらきの仏さまになってくださったのです。
私が阿弥陀さまのことが忘れても阿弥陀さまは私のことを忘れることはありません。
 
 「困った時は風に向かって俺の名前を呼べよ」と
風に向かってと方角を示してくれてここに俺がいるよというのです。
 方角を決めてくださっている安心です。
 
 お念仏のご法義に重ねて風が吹き出すところがお浄土といただきます。
お浄土からのお念仏の風「必ず救うまかせよ」の南無阿弥陀仏のおはたらきです。
いつでもどこでも今こここの私におはたらきです。
 自己中心に生きる私はそのことに気づこうともしませんが
阿弥陀さまは飽くことなく必ず救うとおはたらきなのです。
 
 南無阿弥陀仏のお心おはたらきが聞こえてきます。
「いつでもどこでもどんなことがあってもあなたと一緒だからね」という南無阿弥陀仏のお心おはたらきです。
 何か自分一人で頑張って頑張って生きてきて結果苦しみ悩み迷いから離れられない私に
いつも寄り添ってくださっているのです。
 その心おはたらきが南無阿弥陀仏と聞こえてきます。
 
 ナンマンダブツナンマンダブツとお念仏申しましょう。
ナンマンダブツと呼ぶなかに皆さんの先に往かれた大切なお方
お父さんでありお母さんでありおじいちゃんでありおばあちゃんであり隣のおじちゃんおばちゃんであり
そういう方々が今はお浄土の仏さまとなって南無阿弥陀仏のおはたらきひとつで
私のところにいつでもどこでも還って来てご一緒に生きてくださってあると聞かせていただきます。
 
 「困った時は俺の名前を呼ぶんだぞ」と喚んでくださる仏さまです。
今日一日もいろんなことがあるでしょうがナンマンダブツとお念仏申して日暮しさせていただきましょう。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2020.1.19)

南無阿弥陀仏におまかせしてお念仏申して今を生きる

 お医者さんから癌の診断を受けてお念仏のお同行が今までお聴聞され書き留めたノートをずっと読み返したといいます。
これからどう癌に向き合い自分に向き合って生きていくのかということです。
 読み返してみてここはもうおまかせするしかないと思ったそうです。
私のところでどうしようこうしたいという思いはあってもできることはあっても
もうあとはおまかせというのです。
 
 病気のことはお医者さんにまかせるということでしょう。
その根底にあるのは日頃お聴聞させていただいている南無阿弥陀仏のおはたらきにまかせるということだと聞きました。
 
 まかせるといって難しいです。
どこまでも自分を中心に私が私がという思いが次から次ぎと出てくるのが私たちです。
 
 ただ最後の最期はどうでしょうか。
歎異抄に「力なくして終わる時に彼の土へは参るべきなり」とあります。
 最後の最期は私が私がという力がなくなるのです。
今私たちは力をもって生きているようですが本来その生きる力というのは当て頼りになるものではないということです。
 私は一人で単独で生きているのではありません。
周りの皆さんをはじめこの目には見えない多くの人々あらゆる命に支えられ生かされている私なのです。
大きないのちのつながりのなかに生かされて生きている命と聞かせていただきます。
 
 昨日は阪神淡路大震災から25年経った日でテレビ新聞等々で関連の報道がありました。
被災された方々の25年の歩みです。
 家族を友人を亡くし生き残ったことに何か後ろめたい気持ちがあったといいます。
でもどのように悔やんでも亡くなった人はもう帰って来ない
だったらこの私が亡くなった人の分を精いっぱい生きていこうと思い返して今まで生きてきたと
そして今亡くなっていった人たちに生かされてあったということを有難く思えるようになったというのです。
 避難所でおにぎりをみんなで分け合って食べた思い出にふれ
多くのいのちに支えられ生かされて生きているということを本当に思うといいます。
 
 南無阿弥陀仏の大きないのちのつながりのなかに生かされて生きていることを聞かせていただきます。
「どんなことがあっても私が一緒だから大丈夫だよ あなたの命そのまんま私が引き受けたからまかせなさい」と
喚んでくださる阿弥陀仏さまがいらっしゃることを今聞かせていただくのです。
 南無阿弥陀仏のお心おはたらきを聞かせていただくなかに
私ができる精いっぱいのことをさせていただきましょう。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2020.1.18)
円光寺
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大分県大分市三佐3丁目15番18号
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