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お念仏を申す生活法話

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油断なくご縁ご縁に仏法聴聞させていただきましょう

 先ほどお電話がありまして、ご門徒の方がお亡くなりになったということです。
前々からお悪いことは聞いていました。
 去年の11月に百歳になるということで、その前から体調を崩し百歳の誕生日を迎えられるかどうか心配されていましたが
百歳を超えていつ往生の時を迎えるか分からないというなかで半年が経ち令和の時代に入りました。
 
 このいのちです。縁あって命恵まれ人間に生まれてこの時代を生きそして命終えていきます。
今日拝読の御文章さま『睡眠章』にありました。
明日をも知れないはかない命を生きている私たちです。
 いつこの命終わるかわかりません。
百歳になったから、取り詰めているからということでもありません。
それこそ昨日まで元気な方が急逝するということも不思議ではないのです。
 
 だからこそ命のある限り油断なく、いつ往生の時がきてもよい心構えで生きるべきだとの仰せです。
若くて健康なことを頼りにまだまだ大丈夫明日がある明日があると油断して生きていては
仏法に遇える身でありながら仏法に遇わず終いに命終えるなら、これほどもったいないことはないと
蓮如上人は御文章にしたためて私たちに仏法聴聞信心獲得のことを何度も何度もお勧めなのです。
 
 大切な人とお別れする悲しみのご縁でこれからお通夜お葬儀七日七日のお勤めが始まります。
先に往かれた方がまさに命がけでつくってくださった仏さまのご縁といただいて
南無阿弥陀仏の救いの法を私のこととして聞かせていただきましょう。
 阿弥陀さまの真実信心をいただきお念仏申す身にさせていただいて
お浄土への道を共々に歩ませていただきましょう。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.6.5)

強く明るく生き抜けない私にいつも寄り添って阿弥陀仏さまがご一緒です

 川崎の事件に続き東京練馬で衝撃的な事件がおこりました。
にわかに「8050問題」がクローズアップされています。
高齢の親と引きこもりの子どもが同居する家庭の深刻な問題です。
 
 他人事ではありません。一方では老老介護の問題もあり超高齢社会が抱える現代の大きな問題です。
問題といいますが、私たちはそれぞれに様々な問題を抱えて生きているのではないでしょうか。
 お釈迦さまが「人生は苦なり」とお示しのように
私たちが生きるこの人生の実相は私の思い通りにならないということです。
 我が身のことであってままならないことがあります。
説明することもどうすることもできないこの身にかかる宿業といわれるようなものです。
 
 昨日練馬事件の犯人の父親が送検される様子がテレビに映りだされました。
顔を隠すこともなく悪びれた様子も見えなくてちょっと違和感がありました。
 
 事件の直前、隣接する小学校の運動会が騒々しいと「(子どもたちを)ぶっ殺してやる」と被害者の息子が言ったそうです。
先日の川崎の事件を思い起こし自分の息子が同じような事件を起こすのではないかと
覚悟の上の犯行だったと供述しているようです。
 
 親が子どもを殺すんです。自分の子どもだから親は殺せるのでしょうか。
一番安心信頼できる親から子どもが殺されるのです。子どもにとって誰を何を頼りに生きたらいいのでしょうか。
 数十か所もの刺し傷があったといいます。
どんな思いで自分の子どもを滅多刺しにしたのでしょうか。
 涙が無いはずはありません。何でどうしてと後悔の念いが無いはずはありません。
これからもずっと辛辣な思いにさいなまれていくのでしょう。
 
 ただしっかり前を向いていた表情からあの父親のこれまでの人生の歩みに裏打ちされた
信念といったようなものを感じました。
 決して私は間違ったことはしていないとでもいうのでしょうか。
 
 私はそんなに強くないです。
弱音を吐き涙を流すこともあります。ぽろっと愚痴が出ることもあります。本音です。
 社会的な役割感に固執し周りを気にして建前に生きている私が
本当の自分をさらけ出せる、私が一番安心できるところはどこなのでしょうか。
 
 引きこもりといわれる人には居場所がないといわれます。
家から外に出て働くところ勉強するところ遊ぶところ落ち着くところがないとの指摘です。
 
 居場所がないって、大抵家に引きこもっているということですが
引きこもっているその家こそが今一番安心できる居場所ではないでしょうか。
 
 そのことを世間が周りの者が認めたくないのです。
私たちは自分の信念とか経験それも成功体験や理想例といった社会通念で人を見判断して認めたくないのです。
 何でどうして引きこもるのか働かないのかと一方的に有言無言に責め立てて
家族にも社会にも弱音を吐くことがはばかれますます引きこもりが深刻になります。
 
 この後『浄土真宗の生活信条』をご一緒に唱和します。
最初に「み仏の誓いを信じ 尊いみ名をとなえつつ 強く明るく生き抜きます」とあります。
 自分の思い信念をもって強く明るく生きたい私ですが、中々どうして強く明るく生き抜けない私がいます。
そんな私をこの阿弥陀さまはちゃんと見て取り南無阿弥陀仏のみ名となって私に寄り添いご一緒くださるのです。
 
 お念仏申す者が強く明るく生き抜けるのではありません。
何をしても思い通りに生きられない私にいつも阿弥陀さまがご一緒くださり迷いのなかも生きていくことができるのです。
 
 お念仏のみ教えに聞かせていただきましょう。
今日もこうして阿弥陀さまの御前に座らせていただきます。
私もあなたも同じ阿弥陀さまの御前にご一緒です。
 ナンマンダブツとお念仏申してご一緒です。
お念仏申すところ阿弥陀さまがいつも私もあなたもご一緒です。
 
 南無阿弥陀仏の大きないのちのつながりのなかに私たちはご一緒です。
あなたも私も南無阿弥陀仏のいのちの居場所をいただいて大きな安心のなかに生かされていただきます。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.6.4)

雨降りは納骨に良いのか・・・・・?

 昨日四十九日満中陰のご縁で納骨をしました。
朝から雨模様でした。お勤めを済ませてまだ少し雨が降っていました。
 
 お家の方が「納骨に雨は良いといいますが本当ですか」と聞かれました。
雨の日の納骨は困ることもあるので返事に躊躇しました。
 天気にかかわらず納骨のご縁をそのままいただくことの意味を
先人が雨の日もいいんだよと伝えてくれたことだと思います。
 
 仏事に良い悪いはありません。
仏さまのご縁です。そのままいただいて精いっぱいお勤めさせていただくことが肝要です。
 
 納骨をいつするのか、地域地域によって様々です。
火葬してすぐ納骨されるところもあるそうです。初七日にというところも聞きます。
 大抵この辺では満中陰のご縁に納骨されるところが多いようです。
満中陰のご法事にお参りされた親族有縁の方々と一緒に納骨に行き納骨を見届けていただくのです。
 
 大切な方が亡くなってお遺骨が残ります。
そのお遺骨の行方です。どこに埋葬するのか見届けるのです。
お墓であったり納骨堂であったり、お遺骨の行方が分かっていることで安心できるのです。
 
 お遺骨の行方を見届けてお参りができます。
手を合わせてナンマンダブツとお念仏申しましょう。
 「我にまかせよ必ず救う」南無阿弥陀仏のお心を聞かせていただきます。
お念仏のおはたらき一つで先に往かれた方と同じ阿弥陀さまのお浄土に生まれて仏にさせていただける身の幸せを念い
ナンマンダブツとお念仏申してお礼をさせていただきます。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.6.3)

お念仏の心でさせていただくありがとう

 仏事の心得です。仏さまの事をさせていただく心もちです。
「お念仏の心で させていただく ありがとう」といただきます・
 
 仏さまのお荘厳です。仏さまのお飾りをするのは私です。
お仏飯をお供えします。お仏飯を上げるといいます。
行為として私が上げるのです。上げたお仏飯は上げっぱなしではなく下げます。
私が下げて頂きます。
 
 上げたのも私、下げたのも私で、その私がそのままいただくのです。
仏さまのお心をそのまま聞かせいただくのです。
 
 お念仏のお心です。他力のお念仏のお心です。
すべてのものを分け隔てなく救うとの阿弥陀さまのご本願のお心が
南無阿弥陀仏のおはたらきとなって私のところに至り届き私の口から出てくださるお念仏のお心です。
 
 私が申す念仏と私のところに力が入ると
私はこれだけ念仏しているのにあの人はという見方にもなってしまいます。
 
 阿弥陀さまのおはたらき一つにお念仏がでてくださるのです。
私一人のことにかかりっきりになってくださる仏さまがいらっしゃるということです。
 お前一人を救うぞと南無阿弥陀仏の声の仏さまとなっていつでもどこでもご一緒くださるのです。
ただただ私は「ありがとうございます」とお礼を申させていただくばかりです。
 
 ナンマンダブナンマンダブとお念仏申させていただきましょう。
この口からお念仏を申すことは本当に難しい。難しいことが今日もできました。
阿弥陀さまの大きな大きなお慈悲のおはたらきのただ中にあることを本当に有難く思います。
 
 お念仏申させていただく、その声がそのまま隣の人に届きます。
その隣の人隣の人に届くのです。
 今日も一日お念仏申すなかにお浄土への人生を歩ませていただきましょう。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.6.2)

6月に入りました

 6月です。早いですねえ。
6月で一年の半分が過ぎるということです。
 
 6月を水無月といいます。水が無いと書きますが
この6月は梅雨の時期に入り、いよいよ雨の日が多くなります。
 
 何か行事があると雨の日は敬遠されますが、雨は水をもたらし私たちの生活に欠かせない大事なものです。
大きな雨はご免蒙りますが、雨が降っていのちがいきいきと育つシーズンでもあります。
 
 田植えが始まります。
この辺は田圃が無くなり田植えの風景を見たり風情を味わうことがなくなりましたが
ちょっと郊外に行くと田圃に水をひいて苗をこしらえ、もう田植えが始まっているところもあります。
 
 そうした季節の営みのなかに私たちの日暮しがあります。
何か同じことの繰り返しのようですが、一日一日が新たないのちを恵まれて生きていく日々であります。
 
 今日1日は円成会という毎月のご縁をいただきます。
円く成ると書きます。歳を重ねていくなかで円い仏さまのような心で人生を送っていきましょうということです。
 ただ円く成ろう成りたいと思って円く成れない私がいます。
何か私の思い通りにならないことが一つでもあったらすぐ角が立て腹を立てる私たちの日常です。
 
 そのことをすでに見抜かれた仏さまが阿弥陀さまです。
南無阿弥陀仏となって私のところに来てくださりいつでもどこでも私に寄り添ってくださるのです。
 怒りの角が生えた私の口からナンマンダブツとお念仏が出てくださいます。
 
 阿弥陀さまの大きな大きなお慈悲のなかに絡め取られて
この6月もまたお念仏申して生かされて生きてまいりましょう。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.6.1)
円光寺
〒870-0108
大分県大分市三佐3丁目15番18号
TEL.097-527-6916
FAX.097-527-6949
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