今日は天皇誕生日の祝日です
今日は日曜日ですが天皇誕生日で国民の祝日です。
令和になって初めての2月23日、今の天皇の誕生日です。
前の平成の天皇は12月23日、昭和の天皇が4月29日で三佐のお祭りの日でした。
お休みです。明日は振替休みで連休です。
このお休みはどんな人にとってのお休みなんでしょうかね。
お休みといっても行楽地に行くと仕事をされ働いている方がたくさんいらっしゃいます。
みんながみんな休んでしまったらこの社会は成り立っていきませんが
休みの日には休みましょうゆっくりしましょうということです。
このお朝事にお休みはありません。毎日がお朝事です。
お休みとかお休みではないということを超えているといっていいと思います。
何か仕事というとしなければならないと肩に力が入ります。
お務めですから励まねばなりません。
少々体調がすぐれなくても仕事に出ていかねばなりません。
ただこのお朝事はお勤めをさせていただくといいます。
誰かのためにするお仕事ではありません。
私のおつとめです。
阿弥陀さまと私のつとめごとです。
「ご一緒しましょう」との阿弥陀さまのお喚び声に「はい」と返事ができて
今ここ阿弥陀さまのご仏前にいらっしゃる皆さん私たちです。
横を見て誰がお参りしているとかいないとかいうことではありません。
この私と阿弥陀さまそして私たちのお念仏の先人です。
親鸞さま蓮如さまにご縁をいただきお念仏の先人のお勧めがあって
今日もこうしてお朝事のお参りをさせていただく有り難さです。
お休みの日でもお休みでない日でもいつでも同じこの時間この本堂にお参りさせていただき
ご一緒にお朝事のお勤めをさせていただいて今日の一日を始めさせていただきます。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2020.2.23)

懐かしい方々が往ってらっしゃるお浄土に私もまた生まれさせていただきます
昨日お寺のご院家さんのお葬式にお参りしました。
近くのお寺のご院家さんと門徒の総代さんの弔辞があって最後に喪主の挨拶がありました。
お寺のお葬式の弔辞や挨拶はお念仏のご法義が中心になりますが
日頃の生活ぶりが思い起こされるものでたくさんのエピソードがでてまいりました。
私も生前何度かご一緒することがあって
その人となりを懐かしく思い浮かべました。
人との付き合いを大事にされる方で
お酒を酌み交わしおいしいものを食べに歩いたというお話ですが
最後の喪主の挨拶が特に印象に残りました。
お葬式で住職の父がご門徒の方を見送るときに必ずお話していたことで
お父さんお母さんがいる懐かしい方が往ってらっしゃるところに往くと思ってお念仏申して送りましょうということです。
阿弥陀さまのお浄土です。
お浄土にはお父さんお母さんが往って待ってらっしゃるおじいちゃんおばあちゃん懐かしい方々が往ってらっしゃる
そのお浄土にお参りさせてもろうたと思うてお念仏申してこれからの日々の生活をさせていただきましょうとね。
いろんなエピソードからその人となりを偲ばせていただきます。
日頃周りの方々からどんな人と思われているかなということです。
どんなご院家さんと思われていたのか
門徒総代さんの弔辞にありました。
いつもほうきをもってお寺の境内を掃除していたといいます。
いつもといっていつもではありませんがそういうことが一番に思い出されるご院家さんだったということです。
みんながみんなということでもありません。
その人その人それぞれにこれからも日々の生活のなかに思い出していくんでしょうね。
人の命は終わりますが死んだらおしまいではなくて南無阿弥陀仏の大きないのちにつながって
これからも共々に生かされて生きていくのです。
お寺の境内を見るときにご院家さんの姿が見えるんでしょうね。
ナンマンダブツとお念仏を申すご院家さんです。
ナンマンダブツとお念仏を申すなかにお父さんお母さん懐かしい方々が往ってらっしゃる
同じお浄土に私もまた生まれさせていただけると聞かせていただきます。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2020.2.22)

愚者になりて往生するお念仏の仏道です
今日のご和讃は高僧和讃の第七祖源空(法然)聖人を讃えるご和讃です。
親鸞聖人が在世で実際にお会いになった方は法然聖人ただ一人です。
この法然聖人のことを親鸞さまは勢至菩薩とも阿弥陀如来の化身とも慕われておられたということです。
勢至菩薩というお方は阿弥陀如来さまの脇侍でもう一方が観音菩薩です。
勢至菩薩は智慧のおはたらき観音菩薩は慈悲のおはたらきの菩薩さまです。
智慧第一といわれた法然さまです。
その名は比叡山はもとより広く知られたところでしたが
法然さまは比叡山を下りられ京都東山吉水という庵で「念仏ひとつで救われる」専修念仏の仏道を説かれました。
智慧第一といれるほどですから仏典の隅から隅までお勉強し尽くしたお方ですが
法然さまの常の仰せは「浄土宗の人は愚者になりて往生す」とのことだったと
親鸞さまは関東の門弟へのお手紙に書かれています。
愚者になりて往生すと念仏ひとつで救われる専修念仏の仏道を説かれていたのです。
知恵才覚があって善行を修めて救われる仏道ならば
日々の生活に明け暮れる凡夫は到底救われることはないが
すべてのものが分け隔てなく救われる仏道を求めて
法然さまは聖典の中に阿弥陀さまの本願念仏のお救いこそ
賢愚の別なく愚者も救われる仏道があると見抜かれたのでした。
法然さまが説かれる専修念仏の仏道の教えに遇われて
親鸞さまは「ただ念仏して弥陀に助けられまいらすべしとよきひとの仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり」と
念仏ひとつで救われる仏道に帰入されたのです。
親鸞さまが愚者の私こそめあての南無阿弥陀仏のお救いだと法然さまから聞かせていただいた喜びを
ご和讃の一首一首に味わわせていただき明日が高僧和讃の最後六首になります。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2020.2.21)

どんな人も見捨てない阿弥陀さまのお救いです
新型コロナウイルス感染でダイヤモンドプリンセス号に乗っていた方が
検査の結果もう心配ないということで順次下船して懐かしいお家に帰られるということです。
喜ばしいことですが半面不安や心配がつきません。
一つは果たして本当に感染していないのだろうかという心配
もう一つは周りの人からどのように見られるのかという不安です。
フランスパリ郊外の日本料理店で「ウイルスは出ていけ」と落書きされたという事件です。
中国から発生して日本東南アジアを中心に感染が世界各国に広がっています。
落書きに人種差別といったことも危惧されます。
私たちの立ち位置を思います。
私が感染を疑われる立場だったら本当に怖いということですが
逆な立場でしたら今回の事態をどう見るのでしょうか。
感染を防ぐということで隔離ということがいわれます。
隔離される方にとって不自由なことを強いられることはとてもつらいことですが
隔離の事実がその後の偏見や差別につながるという怖さです。
私たちの歴史が物語ります。
そして今もなお差別や偏見に苦しんでらっしゃる方がいることを私たちは忘れてはいけません。
他の人のことではなく私のことです。
どこまでも自分を中心に物事を見てとらわれはからう私たちです。
そのことを仏法に聞かせていただきます。
阿弥陀さまのお救いは感染をした人もしていない人もどんな人も等しく必ず救うとおはたらきです。
南無阿弥陀仏の大きなおはたらきのなかに私たちは共々に平等に自由自在に
この命を生かされて生きていると聞かせていただきます。
ただ難しいです。
私たちはこの身を抱えて生きていく限りは私を中心に生きていますからね。
だからこそどうかお念仏のみ教えを聞いてほしいと願われているんでしょうね。
大きな大きな世界に生まれて来いよとおはたらきなんでしょうね。
私たちの小さな小さなはからいの中に大きな大きな苦しみ悩みがあると見抜かれたうえで
阿弥陀さまは今日も私のところに南無阿弥陀仏とはたらいてくださっているのです。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2020.2.20)

無量のいのちに生かされて
今朝梵鐘をつきに玄関から鐘楼に向かいましたら山門の上空に三日月が輝いていました。
まだ暗い冬の寒中に三日月が冴えわたり今朝は大変冷えます。
今年一番の寒さという予報です。
寒い中に自然の営みがあります。
大自然のなかに生かされて何かホッとします。
昨日ずっと本を読む時間があって寿命ということを教えていただきました。
寿命の寿はことぶき命はいのちです。どちらもいのちと読めます。
私たちの阿弥陀さまは「帰命無量寿如来」とお正信偈さまにあるように無量のいのちの仏さまになってくださいました。
阿弥陀さまのいのちと私のいのちはどう違うのでしょうか、同じなのでしょうか。
私たちの命はどんな人もおぎゃあと生まれてそして命終えるという限りある命です。
この限りある命を支えてくださってあるのが無量の寿限りないいのちなのです。
仏さまの無量のいのちはこの私の目には見えません。
ではこの私のいのちはどうでしょうか。
見えますか見えませんか。
私たちは見えると思っています。
だからもっともっとこうなりたいこうしたいああしたいという思いが出てくるのです。
今の私に満足しないのです。
私の目に見える理想のいのちを求めてどこまでも満足しません。
ただこのいのちの見方でずっと行くと最後は私のいのちは追い求める理想とは逆の結果に終わります。
若くありたいと思っても老いていきます。健康でありたいと思っても病気になります。
そしてこの命いつか必ず終えていかねばなりません。
老病死にとらわれはからいのなかに私たちはずっとずっと迷ってきたのです。
この迷いのいのちをそのまんま引き受けたというのが無量寿の仏さまの南無阿弥陀仏のおはたらきなのです。
そのおはたらきはこの私の命は限りがありますが命終えた後もずっと無量に引き受けてくださるのです。
私たちがこの人間界に生まれて来る前から引き受けてくださっていた無量のいのちなのです。
ただこの目には見えません。
だから聞いてくれよというのです。
私の目には見えないけれども南無阿弥陀仏の無量のいのちのおはたらきに支えられて
今日の一日もナンマンダブツとお念仏を申して生かされて生きてまいりましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2020.2.19)
