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お念仏を申す生活法話

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還骨となられてお寺の阿弥陀さまのおそばにお参りです

 昨日お葬式がありました。
西大分のご門徒の方で近くの斎場でお勤めをした後竹中の火葬場に向かわれます。
いつものように火葬場からお遺骨をお供して直接お寺にお参りしてくださいとご案内をしました。
 
 西大分から竹中までは高速で30分もかからないで行けるということです。
それで竹中から円光寺まで大変な大回りになりますがお参りに来ていただきました。
 
 20人ほどのご親族皆さんで火葬場に行かれ収骨されてそのままお寺にお参りされたということです。
実はこのお家は3,4年前に新しくご門徒になられたところです。
熊本の実家に居た一人暮らしのお母さんが亡くなりお家のお仏壇を引き取ることで円光寺とのご縁ができたということです。
 
 昨日皆さん初めてお寺にお参りされたことだと思います。
わずかな時間のご縁でしたが、皆さんお寺の本堂にお参りされてどんなことを思われたのでしょうか。
 
 どんなに大きな体の人もみんな等しく4、5寸の壺に納められ
そのお遺骨を私が胸に抱えて阿弥陀さまのおそばにご安置してお勤めをさせていただきます。
 
 お浄土参りです。
私たちのこの目に見える形はお遺骨ですが
確かに確かに南無阿弥陀仏のおはたらき一つで阿弥陀さまのお浄土に往生されたといただきます。
 
 私たちが南無阿弥陀仏のお救いのご法義を聞かせていただけるのはここです。
お寺の門を通って阿弥陀さまのお浄土にお参りさせていただけるのです。
 そしてお浄土に往きっ放しではなく南無阿弥陀仏となって私たちのところに還って来てくださると
聞かせていただきます。
 
 昨日お参りの皆さんの口からナモアミダブツの声が出ていたかどうかわかりませんが、これからです。
これから七日七日の中陰に始まる仏さまのご縁をいただくなかに
ナモアミダブツとこの口からお念仏の声が出てくださるのです。
 
 お念仏の声となって先に往かれた大切な方がご先祖有縁の仏さまがいらっしゃるのです。
私と一緒に共にいらっしゃるのです。南無阿弥陀仏といらっしゃるのです。
 南無阿弥陀仏の大きないのちのつながりのなかに
これから私たちは日々お念仏申す生活をさせていただけると有難くいただきます。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.6.25)

仏さまのご縁に遇わせていただく日曜日の朝です

 日曜日の朝です。
仕事をもたれている方は平生の日常とは違うということで、今日の朝を迎えられたのでしょうか。
 
 毎日6時に梵鐘をついています。
平日につく6時の鐘と日曜日につく6時の鐘とでは、人によって鐘の音が違って聞こえるのではないでしょうか。
 平日朝6時の円光寺の鐘が生活の中で意味あるものになっていることもあると思います。
鐘の音を合図に朝起きて身支度をして朝ご飯を食べてそして職場に学校に行くということでしょう。
 ただ日曜日の鐘ということになりますと、もうちょっと眠たいなという思いで聞いてらっしゃる方もあると思います。
 
 お寺の梵鐘は時刻を告げる鐘ではなく法要前の合図の鐘なのです。
法要が始まる一時間前に撞くのが本来の梵鐘のあり方です。
そろそろ準備をしてお寺にお参りしましょうという鐘、お誘いの鐘なのです。
 
 そして6時半に喚鐘が鳴りますが、いよいよこれからお勤めが始まることを告げる鐘です。
この喚鐘の喚は喚ぶという意味があります。
 阿弥陀さまの南無阿弥陀仏のお喚び声といただきます。
「我にまかせよ必ず救う」のお喚び声を何度も何度もガンガンガーンとこの耳に届くように響かせてくださるのです。
それこそやかましいと聞く人もあるかもしれませんがどんな人の耳にも届いてあるのです。
 
 ナンマンダブナンマンダブと何度も何度も繰り返し繰り返し巻き返し巻き返し
私のところに届いてくださる阿弥陀さまの南無阿弥陀仏のお喚び声です。
 お念仏の声に喚び目覚めさせていただいてこうして皆さん今日もお朝事のご縁にお参りをさせていただけました。
南無阿弥陀仏のお心おはたらきの有難さをまた日曜日の朝のご縁に深く味わわせていただきます。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.6.23)
 

7回忌と3回忌のご法事のお勤めをさせていただきました

 昨日7回忌と3回忌のご法事がありました。
それぞれの年忌でご法事の趣が異なるように思います。
 
 7回忌といいますとご往生されて6年が経ちます。
6年といえば小学校に入学した子どもさんお孫さんが6年生になって卒業するという時間が経ったということです。
見るからに子どもは成長いたします。変わっていきます。
 諸行無常の世にあってあらゆるものが日々刻々と変わり行くなかで
変わらない真実まことのお念仏のみ教えを聞かせていただく有難さを思います。
 
 3回忌のご法事のご縁です。
多くの人がお参りされていましたが、これまでお会いしたことのない若い方が目立ちました。
 「この中で一番遠方の方はどなたですか」と尋ねましたら「東京です」と初めて会うような若い方でした。
後から施主の方に聞きますと妹の子どもさんで昨日のご法事の方のお孫さんだそうです。
 大分の近くに住んでいるのではなく3回忌のご法事に東京から帰ってみえたということです。
帰って来いと言われたのか自ら帰って来たのかわかりませんが
おじいちゃんとの懐かしい思い出があるんだなと思いました。
 
 3回忌の次は7回忌で4年後になります。
ご往生なさって2年間の中に何度も何度も仏さまのご縁をいただきますが7回忌までは4年あります。
 来年は4回忌で5回忌6回忌と毎年祥月のお勤めをされてもいいのですが
方々からご縁の方々が集まって昨日3回忌のおつとめができたということことの有難さ尊さを思います。
 
 ご一緒にご法事のお勤めをさせていただけるということです。
先に往かれた方が本当に喜ばれることではないかなと思います。
 私たちに仏さまのご縁をつくってくださるということです。
日頃仏法を聞くことが難しい私たちを仏さまの御仏前に座らせていただけるのです。
お念仏を申させていただけるのです。仏さまのみ教えを聞かせていただけるのです。
 
 その仏さまのみ教えは「ただ念仏一つで救われる」南無阿弥陀仏のお救いの法です。
私たちが救われていくお浄土には懐かしい方々が往ってらっしゃってまた再会できると聞かせていただきます。
 南無阿弥陀仏の大きないのちのつながりのなかに共々に生かされてあることを有難くまた頼もしく思います。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.6.24)

地域に開かれたお寺のあり方を思います

 大阪で交番が襲われ勤務の警察官が刃物で刺されて重体、拳銃が盗まれたという事件が起こりました。
そして逃走した犯人が捕まったということです。
 
 最近交番を狙う事件が相次いでいます。
たまたまですが、今七日日のご縁をいただいている二軒のお家が警察官のご主人の奥さんのご縁です。
 昔は駐在所といっていました。三佐にも駐在所がありました。
県内各地を転々と勤務していくんですね。
一軒のお家は佐伯の方にもう一軒の方は玖珠の方にいたとお聞きます。
 
 駐在さんは地域の守りの要です。
日頃から地域の方々と交流があって、映画などで駐在さんが自転車に乗って地域を見守る姿がよく映し出され
地域の方と顔が合えば「こんにちは」「おはようございます」と声をかけ合うつながりのなかに
私たちの安心がありました。
 
 ところがこんなに交番が襲われると、24時間開かれた交番勤務を考え直さないといけないという声が出てきます。
そうなって交番が閉じてしまうと、困った人がどこに駆け込めばいいのでしょうかね。
 
 私たちのお寺です。開かれたお寺になろうとよく言われます。
でも実際は不審者対策でお寺の門も本堂も庫裡の玄関も閉まったままで
誰か訪ねてきても返事がないというお寺もあります。
 
 駆け込み寺とも言われます。
日々の生活のなかで苦しみ悩み困ってらっしゃる人がいます。
いろんな問題を抱え誰にも相談できない人です。
そうした人が唯一最後に駆け込んでいけるところ、開かれたお寺です。
 
 ただ今のご時世どんな人が来るかもわかりません。
むずかしいところがあります。
 でも今の社会の現実です。交番が襲われるという事実です。
そこに社会の歪みを思います。
 
 人それぞれに生きるこの社会で
人それぞれにこれまでの人生の軌跡があったと思います。
 こうした事件の背景には複雑な人間関係社会との関わりがあって
何度も何度も頑張って頑張って生きようとしても決して思い通りにいかなかったことが多くあったのではないでしょうか。
 
 そうした苦悩を抱えた人がその思いを打ち明け背負っている肩の荷を下ろし楽になる場が
一つ駆け込み寺というもので皆さんに開かれたお寺になっていけたらと思います。
 
 今どこの地域にも子どもたちの見守り隊が活動しています。
昔は見守り隊という組織がなくても地域ぐるみで地域の子どもを我が子のように見守っていました。
そんな昔ののどかな温かみあふれる人間関係に思いをはせ
人とのつながりが疎遠になっていく一方の現代社会にあって
地域の中のお寺のあり方役割を考えます。
 
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.6.18)

大切な方とお別れする悲しみのご縁ですがそのまま仏さまのご縁といただきましょう

 昨日の夜電話でご門徒の方が亡くなったというご連絡でした。
遠方の方でこの後臨終勤行にお参りをしてこれからのお通夜お葬式のことをご相談いたします。
 
 4年ほど前に新しくご門徒になられた方で名簿をみましたら私と同い年です。
私たちはいつどのようなことでこの命を終えていくのかわかりません。
若い人でも健康な人でもどんな人も例外はありません。
 
 まさに無常の世にあって私たちは仏法という大きな中心依りどころをいただいています。
その仏法を聞かせていただきますと私たちは皆さん人の命を終えますが
南無阿弥陀仏のおはたらき一つでどの人も阿弥陀さまのお浄土に生まれて仏にさせていただくというのです。
 
 このこと一つ聞かせていただきます。
仏さまは仏法聴聞のご縁をいただけよとお勧めですが
自分のことで精いっぱい生きることで精いっぱいの私たちは中々仏さまのご縁に遇うことが難しいのです。
 
 大切なお方とお別れする悲しみのご縁ですが、そのまま仏さまのご縁といただきましょうとお話させていただきます。
仏さまのご縁としてこの私が仏法を聞かせていただくということです。
 仏法を聞かせていただきますと、先に往かれたお方をお浄土の仏さまとして敬い仰いでいけるのです。
この私をまさに命がけで御仏前に座らせてくださり仏法聴聞の尊いご縁をつくってくださったった仏さまです。
 死んだらお終いではなくこれからも仏さまとなって南無阿弥陀仏のおはたらきで
後にのこった私たちを見守り導いて南無阿弥陀仏のいのちのつながりのなかに共々に生かされて生きてあるということです。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.6.22)
円光寺
〒870-0108
大分県大分市三佐3丁目15番18号
TEL.097-527-6916
FAX.097-527-6949
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