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お念仏を申す生活法話

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50回忌のご法事です

 昨日は日曜日でご法事が二件ありました。
たまたま二件とも50回忌のご法事でした。
 
 50回忌というのは昭和45年に往生された方のご法事です。
昭和45年です。皆さん私たちはどういう生活をしていましたかというお話になりました。
 
 この辺は区画整理で町並みが一変したというほど変わってしまいました。
昭和45年当時の町並みを思い出すのは難しいところがあります。
 そういうなかでお寺やお宮の存在の有難さを思います。
お寺やお宮は建物の造りは変っても在る場所は変っていません。
だからお寺やお宮を中心に我が家のことや周りの風景を思い出すことができるということではないでしょうか。
 
 いろんな話になりました。
牛を飼っていたとか馬に乗って学校から帰ったとかいう話まで飛び出しました。
当時は牛馬の力を借りて農作業や家事をしていたということです。
昭和45年よりずっと前の話のように思いますが、何か懐かしく楽しそうに話されていました。
 
 小さい頃に皆さんの記憶が鮮やかに戻るんですね。
こうした懐かしい思い出を語り後の人に伝えることもご法事のご縁だなと思います。
 ただ日々の生活は大変だったと思います。
まさに毎日が生きることで精いっぱいだったのではないでしょうか。
 そういうなかにあって家族で地域で人々がたすけ合いいろんなおかげに育まれて
今の私たちがあるということを有難く思うことができるのもご法事の営みだと思います。
 
 私たちは自分を中心に私が私がと生きることに精いっぱい自分のことで精いっぱいです。
これも本当のことです。
 そういう私たちをこれまでもあたたかく見守り
これからも色んなことがあるけれどもお家の阿弥陀さまを中心に
お念仏を申すなかに日暮しさせていただけることをまた有難く思います。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.7.8)

阿弥陀さまのお救いはみんなの救いです

 「みんなの体操会」というチラシが目に留まりました。
みんなで体操をしましょうというお誘いです。
みんなという言葉に親しみを感じます。
 
 私たちの阿弥陀さまのお救いはみんなのお救いです。
今月のことば「ただ念仏ひとつで どんな人も 救われる」です。
 生きとし生けるすべてのものを分け隔てなく必ず救うそのまま救うという南無阿弥陀仏のおはたらきです。
 
 みんなと聞いて私のことです。
この私一人をこそ必ず救うとご本願をたてられ永い永い間ご修行されて
「必ず救うまかせよ」と南無阿弥陀仏のおはたらきとなって
いつでもどこでも私のところに来てくださってあると聞かせていただきます。
 
 私一人のためのご本願のお救いと聞かせていただくことが肝要です。
みんなのと聞くと何か隣の人のこと他の人のことをいっているようで
自分には関係ないと聞くのではなく私のことと聞かせていただくのです。
 そこにみんなのお救いという阿弥陀さまの大きな大きなお心おはたらきにあって
何かほっとする心強いものを感じます。
 
 ただみんなといって、みんながしているからと多数派の代名詞になって
少数者を排除するような見方にもなってしまう言葉にもなりかねません。
 みんなが言っているからみんながしているからということに思いがいって
言っていることしていることの真実を問わない見方にもなってしまうからです。
 
 ハンセン病患者の家族救済判決の控訴を政府が断念したということです。
ハンセン病の患者さんはもとよりその家族までも
社会の差別と偏見にさらされ困難な生活を強いられたという重い事実です。
 
 私たち人間のものの見方の危うさです。
真実を知ろうともせずみんなという多数派のなかにあって少数者を傷つけているということです。
 
 仏さまのものの見方はどんな人もみんなです。
みんなそれぞれ顔が違うようにその生活ぶりは一人として同じものではありません。
それぞれの違いを超えて仏さまのお慈悲のお心おはたらきなのです。
 
 お念仏申し仏さまのお心を聞き自分中心のあり様を見つめ直し
みんながそれぞれの違いを認め合って共々に生きる社会でありたいと思います。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.7.11)

人生の最期をどこでどのように迎えますか

 昨夜Iさんの奥さんがご往生されて臨終勤行にお参りさせていただきました。
日曜日に病院からお家に帰って来られて4日目ということです。
 
 昨日は初七日のお勤めのお家があって私と同学年の方のご縁でした。
4月に病気が分かって最後は先生から余命一カ月と告知をされお家に帰って三日目だったといいます。
 
 病院や施設で亡くなる方が多いなかでお二人の方が続いてお家で臨終を迎えられたということです。
長く入院されて一向に回復の兆しが見えないなかで、早く家に帰りたいと家族に言うそうです。
 ただ家に帰っても病院にいるようなことは到底できないのですが、最期は家で迎えたいという思いなのでしょう。
 
 今は医療福祉体制が充実しており
主治医を中心に看護士や保健士など色んな専門分野の方がチームを組んで最期まで看取ってくださるといいます。  
 それで治る見込みはないのですが、心身の痛みを和らげ最期を懐かしいお家で迎えるというのです。
 
 昨日の臨終勤行は懐かしいお家の阿弥陀さまのご尊前でお勤めさせていただきました。
今は葬儀社でのお通夜お葬式が一般的になりましたが
お家での最後の夜です、ゆっくりご家族皆さんで過ごしてくださいと声をかけて臨終勤行のお勤めを終えました。
 
 他人の話ではなくて私の話です。
いつどういうかたちでこの命を終えていくのか分かりません。
私が決められることでもありません。
 ただこの命終える時が必ず来ることは確かなことです。
仏さまのみ教えを聞かせていただくことの有難さを思います。
 
 大切なお方とお別れしなければいけませんが
ナンマンダブツとお念仏申してお別れができ阿弥陀さまのお浄土に送ることができるのです。
 お浄土に生まれて大切なお方は南無阿弥陀仏の仏さまとなってこの世に私たちのところに還って来るというのです。
迷いの中にある私たちを必ず救うそのまま救うというおはたらき一つにです。
 
 そのまま聞かせていただきましょう。
大切な方とお別れする悲しいご縁ですがそのまま仏さまのご縁といただきましょう。
七日七日に始まるこれからのご縁を精いっぱいお勤めさせていただきましょう。
とお取り次ぎさせていただきます。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.6.28)

子ども食堂が増えてきています

 子ども食堂が全国的に増えているという報道です。
3700余りあって去年から比べると1.6倍増えているといいます。
鶴崎にも子ども食堂があると聞きます。
 
 子ども食堂は親御さんが働いて一人で食事をするような孤食の子どもさん
また経済的に困窮している家庭の子どもさんを対象としたもので
無料または低価格で食事を提供する取り組みです。
 
 お寺の御講のお斎を思います。
円光寺では両彼岸と報恩講の年に3回御講をします。
御講に直る人に200円、お参りされない方は100円を出してもらって賄っています。
 
 最近御講のお参りがずっと減ってきました。
仕事をもっている方が増え時間的にも11時から3時までの長時間だったりその他色んな理由があると思います。
 
 私たちが小さい頃は近くでお葬式があると近所の子どもも一緒にお葬式のお斎になおっていました。
お腹をすかせた子どもたちが腹いっぱいご飯を食べていました。
御講の献立はずっと変わらずけんちん汁とご飯に和え物です。
 今の食卓に並ぶ食事に比べたら本当に粗末なものですが
みんなで一緒に腹いっぱい食べて本当においしかったです。
 
 あるお寺のお斎には門徒さんがビニール袋を持って来られるそうです。
お給仕する方がご飯を山盛りついでその袋にご飯を入れて家に持ち帰るのです。
 お仏飯のおすそ分けです。
お寺にお参りできない家族の方も一緒にお仏飯をいただくのです。
 
 お互いに助け合い支え合う心意気が御講だったということです。
そして今は子ども食堂ということで地域の心ある方が手をあげてボランティアでお手伝いしています。
 
 お寺でも子ども食堂をしているところがあります。
お寺の御講のようにどこのお寺でも子ども食堂をすればということですが
何をするにも多くの人の加勢があってできることで
お互いに気持ちをもって理解し合い協力しないと難しい問題にもなります。
 まずはお念仏の心で私にできることを精いっぱいさせていただくことが大事だと思います。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.6.27)

梅雨になります

 今日は朝から大変蒸します。
天気予報では今日からずっと雨マークでいよいよ今日から梅雨に入るということです。
これまでで一番遅い梅雨入りだそうです。
 
 最近は気象庁が梅雨入り宣言を公表しなくなりました。
というのは梅雨入り宣言したとたんに晴天が続いたり梅雨明け宣言をしても長雨が続くとかいうことがあって
気象庁に文句を言う人がいたりということがあったそうです。
 
 ただこれは気象庁のせいではありません。そのことはみんな知ってはいます。
自分の都合に合わせて天気も良い悪いと見る私たち人間の身勝手なものの見方に問題があります。
 天気は自然現象で人間がどんなに偉くなっても天気を都合の良いように変えることは到底できません。
 
 水は自然の恵みです。私たちが生活するうえで水は決して欠かすことはできません。
昨日のニュースでは田植えをした田圃にひび割れができたりとかダムの貯水量が減って心配だということでした。
 
 雨を待ってる人がいらっしゃるということです。
昔は雨乞いをして神仏に降雨を祈り願ったと言い伝えられています。
雨乞いをして雨が降ればいいのでしょうがどうでしょうか。
 
 雨は降る時は降って降らない時には降りません。
これは大自然の摂理であり真実です。
 
 ずっと長く雨が降らなかったら私たち人間はみんな死んでしまいます。
そこは自然の営みでうまくなっているというのが自然の摂理道理ということではないでしょうか。
 
 そこに人間の手が入ることによって自然がおかしくなったと見た方がいいと思います。
地球温暖化の問題は次代に負の遺産を遺すことで現代を生きる私たちの責任で改善しなければならない喫緊の大問題です。
 
 私たちのこの身体も自然です。
自然の道理はたらきのなかに生きているのです。
 お釈迦さまは自ら生老病死の身を生きるなかで
生老病死の四苦を明かされ私たち人間が等しく背負う苦悩からの解脱の道を仏教と示してくださいました。
 
 生きることは老いること病むこと死ぬことだよとの自然の摂理です。
一方私たちはいつまでも若くありたい健康でいたい死にたくないと思い頑張って生きています。
 そこで思い通りにいかない我が身の事実に向き合うなかに苦悩し迷うのです。
 
 どんな人も等しく命終えていかねばなりません。
大切な方と別れなければなりません。
これさえあれば大丈夫を握りしめていた健康もお金も家族もこの世のすべてのことは死の前には無力です。
 
 我がいのちの真実のあり方に背を向けどこまでも自分の思いを中心に生きようと頑張る私たちを見てとられた阿弥陀さまは大きな悲しみのなかから誓願をおこされ「すべてのものを必ず救うそのまま救う」と南無阿弥陀仏となっておはたらきです。
 南無阿弥陀仏のおはたらきにそのまままかせてお念仏のなかに日々生かされて生き
この命終えてそのまんま阿弥陀さまのお浄土に往生させていただき
苦悩から解脱して涅槃の仏にさせていただけると聞かせていただきます。
 
 南無阿弥陀仏の大きなおはたらきにあって
南無阿弥陀仏の大きないのちのつながりのなかに私たちのいのちがこれからもずっとずっとずっとつながっていくことを
お念仏申して聞かせていただきましょう。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.6.26)
円光寺
〒870-0108
大分県大分市三佐3丁目15番18号
TEL.097-527-6916
FAX.097-527-6949
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