「帰っておいで」
急に寒くなりました。
北海道は猛吹雪だそうです。
つい先日まで暑い暑いと言ってたことがウソのように一変に冬になるということです。
11月15日です。もう晩秋です。
寒くなってもおかしくないのです。
夕暮れ時が早くなりました。
秋の日のつるべ落としといいます。
子どもの頃学校から帰って外に出て友だちみんなと遊んでいたらすぐうす暗くなって
家に急いで帰ったものです。
「遊ぶ子に 帰っておいでと 母の声 はいっとかけだす 秋の夕暮れ」
「ご飯ができたよ 早く帰っておいで」とお母さんのよぶ声がします。
家路を急いで帰ります。
その家はお母さんや家族が待っている家です。
「帰っておいで」とみんなが待っている家に帰ることができる有難さです。
私たちのいのちの古里を阿弥陀さまはお浄土と決めて用意をしてくださっています。
お浄土に私は往ったことはありませんが
「帰って来いよ」という南無阿弥陀仏のご法義おはたらきです。
そのお浄土には私の大切な先に往かれた方が私を待ってくださっているのです。
私のことをいつも思い心配して待ってくださる方がいるお浄土に私たちは安心して帰らせていただけるのです。
「帰る家がある安心」です。
ナンマンダブツナンマンダブツとお念仏を申すなかに今日一日も日暮しさせていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.11.15)
桜を見る会と大嘗祭
首相主催の「桜を見る会」が来年は中止されるというニュースです。
そして今晩から明日にかけて「大嘗祭(だいじょうさい)」という天皇即位に係る大きな儀式があります。
ともに公費という税金を使った行事です。
桜を見る会は年々公費の額が大きくなり1億円近くになっているということで
一方大嘗祭は24億円の経費です。
金額だけの問題ではなく
前回平成の大嘗祭は大変な騒動になりました。
大嘗祭という祭祀宗教行事に公費を使うのは
政教分離の憲法に反するとの指摘です。
この大嘗祭は毎年行われる新嘗祭(にいなめさい)とは異なり
新天皇の一世一度の国家の安寧と五穀豊穣を祈願する祭祀で
天皇がその年にできた米を皇祖神と共に食するのがメインです。
その米を献納する田圃が占いで全国各地より二か所選ばれ
今回令和の大嘗祭は京都と栃木が前回は秋田と大分が選ばれました。
前回は過激派のテロ放火事件もあって非常な厳戒態勢のもとでのことでしたが
今回は祝賀ムードに包まれてそうした騒動にはなっていません。
一方の桜を見る会は騒動が日に日に大きくなっています。
これはどういうことでしょうか。
前回平成の大嘗祭は昭和からの継承ということで
昭和の時代は戦争の時代でした。
天皇を現人神とする国家神道という日本独特の宗教を背景に
国民統合が為され戦争への道を突き進んだといわれます。
平成になって30年、平成は戦争のない時代でした。
大きな災害が続きましたが国民に寄り添う天皇皇后の姿が
国民のなかに皇室を親しみをもって受け入れる現状をつくってきました。
秋篠宮さまは大嘗祭は身の丈に合ったものに縮小して
経費は公費からではなく皇室の内廷費から支出すべきと問題提起されましたが
議論することもなく今回の即位の礼の一連の行事は前回を踏襲するかたちですーっと行われました。
一方桜を見る会は安倍首相にスポットが当てられています。
安倍さん自身「あのような人たち」と言ったり国会で自らヤジを呼ばしたりと好き嫌いを言葉にする人です。
だからでしょうか安倍さんに対しても好き嫌いがでてきます。
ここはどう切り抜けるのか見物です。
もっと身近な私のところで今回のことを思うと人の好みものの見方です。
その人人でものの見方は異なります。
ただみんな自分の都合に合わせて物事を見ているということは同じです。
その人人のものの見方ですが
私のものの見方の依るべきところをもつことの大切さを思います。
生活のなかにご本尊をいただくことの意味です。
南無阿弥陀仏です。阿弥陀さまの言うことを聞くという基本です。
私の依るべきところです。
浄土真宗はお聴聞が大事だといいます。
お念仏申すなかに仏さまのお心を聞かせていただきます。
私の見方にとらわれるのではなくいつも仏さまの見方を心して
今日一日も自他共に心豊かに生きたいものです。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.11.14)
いつでもどこでも思われている
昨日お会いした方から「お元気でしたか心配していました」と声をかけられました。
えっと思いましたが
ホームページを見てくれている方で「最近ホームページの更新がずっとありませんよね」と言われました。
殆ど毎日更新しているのですが
その方がいつも気をつけてみているお寺の案内などのトップページの更新があまりされてなかったということです。
有難いことです。
一つはホームページをいつも気をかけてくれていること
そして私のことを思うてくださっているということです。
私たちは何か自分一人で頑張って頑張って頑張って生きているお互いではないでしょうか。
ただこの目に見えないところで私のことを思うて心配してくれている人がいるということです。
私たちのお念仏のご法義でいいますと
私たちの大切な先に往かれたお方です。
今はお浄土の仏さまと私のことをいつも見守り
必ず救うと南無阿弥陀仏のおはたらきとなって私のところに来てくださってあると聞かせていただきます。
その懐かしいお姿をこの目で見ることはできません。
写真に声をかけても声が返ってくるわけでもありません。
ただ確かに確かに私のことをいつでもどこでも思ってご一緒くださり
私の口からお念仏となって出てくださるのです。
それは私たちの理屈を超えた世界のこと
不可称不可思議不可思議の自然のおはたらきです。
「必ず救うまかせよ」との南無阿弥陀仏のお喚び声に
「はい。おまかせします阿弥陀さま」とお念仏申しお礼をさせていただきます。
今日一日もお念仏申して南無阿弥陀仏の大きな世界に生かされて生きてまいりましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.11.16)
グリーフケア〜悲しみのご縁をそのまま仏さまのご縁といただきましょう
6時の梵鐘をついて西の空低く満月が大きく輝いて見えました。
秋から冬へ移り行く夜明けのなか月の光がさえて私を照らしてくださいます。
昨日一昨日とお通夜お葬式のご縁がありました。
大切な方とお別れをするという悲しみのご縁です。
家族そして親族友人と人生を共に歩んできた人です。
人と人との出会いの中に私たちはいつかは必ず別れなければならないことは知りつつも
何か心の奥底に喪失感を覚えます。
グリーフケアといわれます。グリーフは悲嘆、ケアは世話です。
大切な人との別れのなかで後に遺った方の悲しみ嘆きに寄り添い支えていく営みです。
長い間一緒に暮らし病気になって看病してきた連れ合いの方がお亡くなりになり
精神的にも肉体的にも疲れが残ってこれからどうして生きていけばいいのか
大きな不安の中にある方々です。
グリーフケアの会で皆さんが集まってお互いにいろんなお話をします。
そこに支える人がいます。カウンセラーであったりいろんな立場の方が寄り添い支えてくれます。
お葬儀のご縁で仏さまのご縁をいただきます。
日頃これまでお寺にご縁のなかった方が御仏前に集い一緒にお勤めをし仏さまのお話を聞きます。
お坊さんの出番役割です。
これまで何度も経験させていただいたご縁ですが
悲しみのご縁をそのまま仏さまのご縁といただけるグリーフケアです。
先に往かれた方が私たちにつくってくださった仏さまのご縁です。
まさに御仏前の指定席に皆さんそしてお坊さんも私も座らせていただきます。
仏さまのご縁です。大切に丁寧にお勤めさせていただきます。
臨終勤行から始まってお通夜お葬儀そして七日七日のご縁です。
死んだらお終いではなかったのです。
ずっとずっとこれからもつながっていくのです。
先に往かれた方も後に遺った方々もそしてお坊さんの私もそれぞれにお役があるということです。
一つ一つの仏事を私のこととして丁寧にできることを精いっぱいさせていただきましょう。
南無阿弥陀仏の大きないのちのおはたらきのなかに共々に生かされて
今こここの私を生き抜かせていただきたいと思います。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.11.13)
ご自宅でお葬儀のご縁です
昨日お通夜今日お葬式のご縁です。
今は葬儀社でのご縁が一般的になりましたが久しぶりにご自宅での通夜葬儀です。
家族だけでお家でしたいという喪主の意向です。
よく家族葬といわれますが家族葬の定義があいまいで
お参りしたら親族縁者の方がいっぱいの葬儀もあります。
昨日のお通夜は本当に家族身内だけでした。
家族だけの葬儀だからお家でできるのです。
車社会の現在、駐車場の確保が問題なのです。
私が小さい頃はどこもお家でお葬式をしていました。
近所の隣保班の方が仕事を休み総出でお手伝いしてみんなでお葬式を行っていました。
今思えば大変なことです。
仕事を休むということです。
今は隣の家のお葬式に仕事を公然と休むことなどとても考えられません。
そして近くのお家も借りて使わせていただきます。
お斎というお膳を出すお家があります。
別にお寺のお坊さんの控えのお家が要ります。着替えをしたりします。
お葬式をお家でするということは隣近所の方にお世話になるということですが
お互いさまと助け合い支え合ってきたということです。
いつの頃からか近所にお世話になるということが迷惑をかけるということになり
迷惑をかけたくないという理由で施設が整い職員もいる専門葬儀社に場所が移り
家族葬ということでお手伝いも要らないお参りも結構ですという所が多くなったのです。
お家を離れて葬儀社です。
それが良いとか悪いとかいうのではありません。
これが今の時流なのです。
ただお家でお葬式をさせていただく意味を思います。
昨日のお通夜でいいますと懐かしいお家です。平生の生活していたお家です。
この家でこの部屋で過ごした思い出を苦楽を共にした家族が
最後の夜を通してお話をするという一生に一度のご縁なのです。
円光寺ではお寺での葬儀をご門徒皆さんに呼びかけ勧めていますが中々難しい現況です。
お寺は敷居が高いと言われ日頃お寺にご縁がない人にはお寺でのお葬儀は何か気の毒い思いがあるようです。
だからこその日頃からのご縁なのです。
日頃からお寺に親しんでほしいと思います。ご縁ご縁にお寺にお参りしましょう。
このお寺はご門徒皆さんのお家です。
命終の縁にお家の阿弥陀さまそしてお寺の阿弥陀さまにお礼をしてお浄土参りをさせていただき
この目に見える姿はお遺骨となりますがこのお寺に帰ってみえて
お浄土から仏さまと還ってみえてこれからも遺った私たちを護り導くというおはたらきを
南無阿弥陀仏とさせていただけると聞かせていただきます。
南無阿弥陀仏の大きないのちのつながりのなかに今日一日もお念仏の日暮しをさせていただきたいと思います。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.11.12)