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お念仏を申す生活法話

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一人一人が尊いいのちを生きている

 先月の京都アニメーション放火殺人事件の犠牲者35人のうち10人の身元が昨日公表されました。
この公表についてはプライバシーを守るという点から慎重にということですが
報道機関ではこうした事件報道については原則実名を報道するということです。
 
 35人お一人お一人の尊い命があった日々の生活があり人生があったということです。
その尊い命が奪われたという重い現実を社会全体で共有し
今後こういう事件が起こらないようにこの社会のあり方についてもお互いに考えていきましょうという趣旨です。
 
 近年多発する自然災害や事件事故でたくさんのお方がお亡くなりになっています。
そのなかの一人として私は実際にお会いしたこともないし人となりを知るわけでもありませんが
同じこの社会時代に生まれてそれぞれの生活ぶりですが夢をもち希望をもって生きていた
その一度っきりの人生が一瞬にして断ち切られるのです。
この私我が身に置き換えてみたらとんでもないことです。
 そのことに私たちお互いが思いを寄せていきましょうということです。
 
 私たちの阿弥陀さまのお救いです。
阿弥陀さまのお救いはいつでもどこでものお救いです。
過去現在未来を貫き十方衆生を漏れなく救うと南無阿弥陀仏とおはたらきです。
 私たち一人一人の命にいつでも寄り添いどんな人も分け隔てなく必ず救うとの本願念仏のお心を聞かせていただき
この私一人一人が南無阿弥陀仏の尊いいのちにつながって生かされて生きてあることを有難く思います。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.8.3)

バリアフリーの社会をめざして

 昨日は臨時国会が招集されてこの前の参議院選挙で当選された方が初登院されました。
今回れいわ新選組から当選された重度の障がいをもつ二人の議員さんも大きな車椅子で
介護の方が何人か付き添って登院されました。
 
 バリアフリーと日常よく聞くことですが、現実はバリアフリーの社会になっていません。
このお寺がそうです。階段がいくつもありバリアだらけの構造で車いすの方が一人でお参りすることがかないません。
 国会もこのたび二人の方が登院できるように急きょバリアフリー化されたということですが
まだまだできていないところもたくさんあり、これを機会に改善がはかられ
障がいをもつ方がよりよく生活できる社会になるような議論が国会で活発になることが期待されます。
 
 障がい者に対して健常者という言い方があります。普通の人ととも言ったりします。
普通の人ってどんな人のことを言うんでしょうか。
 障がいをもたれた方は普通の人ではないのでしょうか。
 
 私たちのものの見方はどこまでも自分を中心にしたものです。
健常者が普通の人ならば障がい者は普通の人ではないという見方です。
 ただ障がい者から見ると障がいをもって生活することが普通なのです。
 
 今は多様性の社会と言われます。
色々なものの見方考え方の人がいて様々な生活ぶりの方がそれぞれ自分にとって普通に生きています。
障がいをもつ方も皆と一緒に会って話をしたり勉強したり食事をしたり遊んだりと普通に暮らせる社会が望まれます。
 
 仏さまは私たちをみんな凡夫と見られています。
凡夫とは普通の人です。
 親鸞聖人は煩悩具足の凡夫と阿弥陀さまが見抜かれたとご自身をいただかれています。
私が私がとどこまでも自分を中心に生きて苦しみ悩み迷っている私のことです。
 体に障がいをもつ方ももたない方も心にいくつものバリアを張って私たちはみんな生きています。
阿弥陀さまはこの私を凡夫と知らせてそのまま救うとおはたらきです。
 みんな凡夫普通の人と知らせてとは認めてということです。
大きな大きな南無阿弥陀仏のお心おはたらきでこの私をそのまま引き受け救うのです。
 
 私が私がといくつものバリアをつくって生きている私たちお互いです。
阿弥陀さまのお心とは随分かけ離れた私の心生活ぶりです。
 
 お念仏のみ教え南無阿弥陀仏のお心を聞かせていただきましょう。
仏さまのようにできることはなくても仏さまのようなお心で
周りの方々に接しお互いに認め合う社会をつくることにもつながることです。
 お念仏申して私にできることをさせていただきましょう。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.8.2)

地獄の話

 仏教浄土真宗では地獄のことをどのように説きますかという質問です。
浄土真宗はただ念仏一つのおはたらきで阿弥陀さまのお浄土に往生し救われて仏に成ると
お浄土のことは説きますが地獄のことはあまり詳しく説くことはありません。
 
 ただ以前はこのお盆の時期には地獄の釜が開くという話もありますので
地獄絵図を掲げて絵解きをし地獄のお話をしていたようです。
 仏教で地獄を説かないのではありません。
六道輪廻といって地獄餓鬼畜生修羅人間天上という六道六つの迷いの世界を経巡っているのが迷いの私たちだと説きます。
 
 他人の話ではなくこの私は今人間界に生まれて生きていますが
人間界に生まれる前があったその前もあったその前もその前もその前もあったという話です。
それが地獄だったか餓鬼の世界だったか畜生だったかは分かりませんが
六道世界を経巡りずっとずっと迷い続けて今この人間を生きているのがこの私というのです。
ということはこれからもこの人間の命を終えた後もずっと迷い続けていくということです。
 
 今人間に生まれて生きているということは一つは今までずっと罪を重ねてきたから人間に生まれたということであり
もう一つは人間に生まれていよいよ仏さまの教えに遇うご縁をいただいたということなのです。
 
 ご縁をいただいていますね皆さん、仏さまのお話を聞かせていただいています。
この私一人をこそ必ず救うとおはたらきの阿弥陀さまという仏さまのお話です。
この阿弥陀さまはどんな人もすべて等しく救うというのです。
 
 もう一つ質問がありました。
阿弥陀さまのお救いはどんな人も救うといいますが、本当にどんな人も救われるのですかということです。
近年の極悪事件の犯人も、どんな悪いことをした人でも阿弥陀さまは救うのかということです。
 
 阿弥陀さまのお救いに今生の救いと来世の救いがあります。
御文章さまにもありますがお経さまに「浄土には往き易くして人無し」というお言葉があります。
 阿弥陀さまが建立されたお浄土は十方衆生を救うと誓願成就された世界で
どんな人も等しく救われて往くというどんな人も往き易いのです。
 でも続いて人無しと説かれます。
阿弥陀さまがどんな人も救うとお浄土を用意されていてもお浄土に往生する人がいないというのです。
 
 阿弥陀さまのお浄土を疑う者がいるということです。
その疑う者こそ、この私なのだと聞かせていただきます。
 阿弥陀さまの大きなお心お手回しに背中を向ける私です。
 
 ただこの阿弥陀さまは決してあきらめません。
ありとあらゆる手立てを講じて南無阿弥陀仏とおはたらきなのです。
 この世で救われなくてもまた来世に私がどのような迷いの世界に生まれるかわからないけれども
どこまでも追っかけてくるというのです。
追っかけて追っかけて追っかけて最後の最後救い取るのです。
 これがどんな人も救われる、必ず救い取られるということなのです。
 
 では今救われているのかというと、それは私が判断することではありません。
ただ私が今お念仏申す身にさせていただいていることは
この私が人間界に生まれて来たというご縁をいただいたということです。
そしていよいよ阿弥陀さまのお浄土に生まれ六道輪廻の苦を離れてさとりの仏さまに成らせていただけるのです。
 
 そのこと一つ南無阿弥陀仏のおはたらきです。
隣の人のことではありません。私一人のことです。
その思いでどうぞこれからもご縁ご縁に遇わせていただきましょう。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.7.20)

夏休みの朝の鐘つきとラジオ体操を始めます

 雨が上がって今日は6時から鐘をついて体操をしました。
この夏休みの期間中<朝の鐘つきとラジオ体操>を今年も始めさせていただきます。
昨日はあいにく雨で体操ができませんでした。雨の時は体操はしません。
こうして皆さんにお朝事にお参りいただいて今日の一日を共々に始めさせていただける有難さを思います。
 
 今日体操をしていまして、一年ぶりですから次はどうだったか忘れて戸惑うことが何度かありました。
考えると駄目ですね。考えずにそのまま体の動きにまかせることでいいのですが
考えると次はどうだったかその次はというところまで考えて、これがはからいということですね。
 
 体操をして思い出すのが小学校の頃の体操の時間です。
全校集会で一年生から六年生まで全校生徒が校庭に集まって特に運動会の前など体操の練習をします。
 当時は今のプールのある所の旧校舎で校庭いっぱいに生徒が広がって大体学年2クラス3クラスで500人前後です。
500人いるとダラダラ体を動かす生徒もいれば500人バラバラです。
 そこで真ん中に体操の先生が立って指導するのですが、その先生の姿をいつも思い出します。
白い帽子に白いトレパントレシャツ姿で何かとても眩しかったです。
 大分前の映画「瀬戸内少年野球団」の夏目雅子さんの姿をまた重ねて思います。
その体操が本当にきれいなんです。背筋をまっすぐにして手足を大きくいっぱい伸ばして本当にきれいなんです。
体操一つでもするんだったらきれいにしましょうということを教えてくださいました。
他人のことではなく自分のことです。自分のためにということです。
 
 このお勤めもそうです。仏さまのご縁に遇わせていただきます。
ご縁に遇わせていただくときはきちっと姿勢を保って声も上げてお勤めをしましょうということです。
人が見ているからではありません。しないといけないということでもありません。
 仏さまのご縁をいただくということそのこと一つなのです。
 
 明日からもこの6時からのご縁です。
それぞれのお仕事生活ぶりは違いますし続けるということは大変ですが
私にできる精いっぱいのことをさせていただくお気持ち一つでご縁に遇っていただきたいと思います。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.7.21)

ファミリーという社会

 吉本興業のタレントの闇営業のことで一昨日当人のタレントさん二人が記者会見を開き
昨日は日曜日の生番組で吉本興業の有力タレントさんが出演して色んなことを話されていました。
 
 ずっと見ていて聞いていて吉本興業が悪いということではなく
何か昔かたぎの仲間内の組織のあり方が今の時代社会に合っていないのかなと思いました。
 ファミリーということを言っていました。
ファミリー家族って温かい言い方ですが、ファミリーということだけで今の社会はやっていけないと思うのです。
多様性の社会といいます。色んな方々がいらっしゃいます。
 今回のことでいったら反社会的勢力といわれる方々です。
この社会のつながりのなかにあってファミリーだけでは解決できない問題が吉本興業にもあったということです。
 
 日曜日の話では社長に直接話をしに行った会長もいて一緒に話をしてということだったら
記者会見をする前にじっくりお互いに話をしていたら何か展開も違ってきていたようにも思います。
ただそこは大きな組織になればなるほど思うようにコントロールできない吉本興業になっていたのかなと思ったりします。
 お笑いの芸人さんです。笑わせて何ぼという方です。
そういう方が涙ながらに会見をしなければならない事態です。
傍から見ると何とかならなかったのか、これからどうなるのかなと心配することばかりです。
 
 それこそファミリーというところで何かうまくやっていくことができなかったのかなとも思います。
しかし事が表ざたになった以上社会はもうしっかり見ています。
ここで何かうまく治めようとしたら逆にお笑いの世界が疑いの目で見られるようなことにもなりかねません。
 
 私たちです。私たちは一人では生きていけません。この社会というなかに生きています。
このお寺もそうです。お寺も一つの大きな社会のなかに生きています。
 そういうなかにあってこの私です。
それこそ右に行ったり左に行ったりと迷う私です。
その私をこの阿弥陀さまという仏さまはちゃんといつでもご覧になって見てらっしゃる知ってらっしゃるのです。
そして南無阿弥陀仏のおはたらき一つで私と共に生きてくださるのです。
お念仏申して阿弥陀さまのお心をまた聞かせていただきましょう。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.7.22)
円光寺
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