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お念仏を申す生活法話

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今の私をそのまま救う南無阿弥陀仏のおはたらきです

 高校野球をテレビ観戦するなかで、地元チームの試合とそうでない試合とでは見方が違うことに気づきます。
地元チームにはひいき目に勝ってほしいという思いについつい力が入って
何でここで打てないのか守れないのかバントをしないのかなどと
思い通りにならない展開に選手個々の力量や監督の采配にもストレスがたまります。
 炎天下頑張って試合をしている当事者はそっちのけで自分勝手な思いばかりをつのらせ
勝ち負けにこだわって純粋に野球を楽しめない私がいます。
 
 昨日たまたまテレビをつけて観た試合でしたが
高校野球の面白さを純粋に思いました。
 野球の解説でゲームの流れということがよく言われます。
今どちらのチームに流れがあるのかということです。
 
 昨日の試合では1点負けていたチームのリリーフピッチャーが7回8回と連続で三振を取り
それで一気にチームの士気が高まるというか
次の攻撃で同点にし延長戦で決勝点を奪い勝つという展開でした。
 
 試合の流れというのが見事にわかるようなゲーム展開でした。
スポーツは選手が体で行う競技ですが人間がするということで精神面心理面の影響が大きく左右します。
チームプレーではそれが選手全体に反映することにもなります。
 まだまだ経験の浅い高校生がすることです。
初めて経験することで日頃の力が出せないこともあれば普段の力以上のものが出せるのも高校野球の大きな魅力です。
 
 勝負の世界ですから勝者と敗者があります。
勝っていくことにこしたことはありませんが、高校野球の勝者は一校だけです。
その他のチームは最後はみんな敗者になります。
 色んな悔いも残ると思います。ただそれもこれからの人生の大きな糧になるものだと思います。
敗者があって勝者があるということです。
同じ舞台で互いに力の限りを尽くした経験を大きな宝ものにしてほしいと思います。
 
 私たちの人生にも後悔があります。
あの時ああすればよかったのに何であんな事をしたんやろ言ったんやろと思い返すことがたくさんあります。
過去のことを悔いるのです。
 
 ただ過去のことは反省することはできてもやり直すことはできません。
生きているのは今なのです。
過去のいろんな経験失敗といったことを積み重ねて今の私があるということです。
 
 その私のことを全て知り尽くしそのまんま引き受けてくださるのが私たちの阿弥陀さまのお救いのご法義なのです。
そのまま私を救うてくださるのです。
 今の私をそのまんましっかり受け止め引き受けていくから
「我にまかせよ必ず救う」と南無阿弥陀仏のおはたらきになって私のところにいつでもどこでも来てくださってあるのです。
 
 私が私がと頑張って生きようと思って生きるのではなく
南無阿弥陀仏の大きなおはたらきにおまかせして生かされて支えられて励まされて
お浄土への人生を生きて往きお念仏申す生活をさせていただきましょう。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.8.11)

素の私を阿弥陀さまはそのまま引き受けてくださいます

 お盆参りもまだ今日で4日目ですが風邪で声が出なくてこんな調子です。
この先8日間が大変思いやられます。
 
 昨日は小泉進次郎さんと滝川クリステルさんの結婚発表があって日本中が大騒ぎになりました。
二人の会見のなかで「結婚の決め手は?」との質問に
政治家小泉進次郎から素の人間小泉進次郎にクリステルさんがしてくれるというような返答が印象的でした。
 
 政治家さんって本当に大変だなと改めて思います。
何時夜討ちに遭ってもいいように鎧を着けて寝ていると言われます。
 鎧ということで煩悩具足といわれる具足とは鎧を着けるということだと聞いたことを思い出しました。
 
 煩悩具足の凡夫とは阿弥陀さまが見抜かれたこの私の素のすがたです。
煩悩がいつもこの身に具わっているということで、私が時どきに着けたり外したりということではなく
人間この身を生きていること自体が煩悩具足常に鎧を着けているということなのです。
 
 私のはからいです。私がというとらわれです。他人に良い格好を見せたいという心もちです。
素の私といいますが、元々私たちはみんな素なんです。
 素でしかないけれども何か私はこういう立場だからこういうことだから
このようにしなければならないと力が入るんですね。
 その力こそが私たちの苦しみ悩み迷いの元なのです。
 
 今の素のこの私です。
 声が出ないままに精いっぱいお勤めさせていただきます。
どんなに頑張ってもきれいな声には程遠い聞きにくいガラガラ声です。
 ただご門徒さんのお家に参って有難いと思うのは
お家お家の阿弥陀さまの御前に座らせてもらえるということです。
 
 阿弥陀さまはもうすっかり私のことをご存知の上でそのまま救ってくださるのです。
私にこうしなさいああしなさいと一つの注文も告げることなく
「我にまかせよ必ず救う」と南無阿弥陀仏のみ名となっていつでもどこでもおはたらきになってくださっているのです。
だったらそのまま阿弥陀さまにまかせるしかありません。
 
 まだ体力はあり声も全く出ないということではありませんから
素の私ということでこれからの盆参りの日々私にできることを精いっぱいさせていただきたいと思います。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.8.8)

お念仏申す身にお育ていただいた御礼のお念仏です

 お盆参りで一年一度のご縁をいただくご門徒さんのお家があります。
昨日大分の町中にお参りしお勤めの後で「三点ほどお聞きしたいことがありますがよろしいですか」と言われました。
三佐地区外のご門徒には隔月にお寺からの通信を郵送していますが、よく読んでくださっていることを有難く思います。
 
 一つはお葬式のことそしてお墓のことそれから過去帳のことでした。
お盆のお参りは次から次と時間設定しているので長いお話はできませんでしたが
ご相談の趣旨を承り具体的には電話なりお寺にみえて直接お話しましょうということで失礼しました。
 
 お家お家のご事情もありこれからのことが不安なのです。
今は何でも気軽にインターネットで相談事をすることもよく聞きますが
仏事のことはやはりお手次ぎ寺のご院家さんに聞くのが一番ということでしょう。
 
 お寺への信頼と安心ということを思います。
自分の都合に合わせてネットで検索してどこでもいいから納骨したらいいということではありません。
お葬式もお坊さんだったら誰でもいいということでもありません。
 
 ここは日頃からご縁のあるお寺さんに相談することが大事です。
ただお寺との関係つながりが以前に比べて薄くなっているのも今の現状です。
相談しようにもお寺の住職を知らない顔も見たことがないということでは
身近なプライベートなことまで率直に話せることは難しいです。
 お寺からいえば日頃門徒さんから信頼されるような住職でありたいと思います。
 
 私たちのお寺とご門徒さんのつながりはお念仏のご縁つながりです。
お念仏の先人ご先祖有縁の方々が私たちに大切なお念仏の法を伝えてくださったということです。
 ナンマンダブツとこの私の口から出てくださるお念仏ですが
この私の口からお念仏が出てくださるまでに何人ものご先祖有縁の方々のご苦労とお育てがあったということです。
 
 そして間に合いましたね。
人間に生まれてこの人生を生き多くの人とのつながりのなかで
こうしてお念仏を申す身に仏法を聞かせていただく身にさせていただいたということです。 
 このお盆のご縁にまたご先祖有縁の仏さまに御礼のお念仏を申させていただきましょう。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.8.9)

色んなご縁つながりのなかにお念仏申させていただきます

 昨日親子連れの方が二人お遺骨をもってお参りされました。
数日前に電話があって、お父さんを亡くしたがお葬式をしていないのでお経をあげてほしいということでした。
 電話ではよくわからないこともありましたが、お寺でお勤めしますのでお遺骨をもたれてお参りしてくださいとお話し
昨日本堂でお勤めをしご法話して今後のことについてご相談というか色々とお話をさせていただきました。
 
 今現にお葬式をしないで直接火葬する直葬ということが大分でも増えているということです。
そしてお遺骨の行く先です。
どなたかに相談したら家に置いていてもいいと聞いて当分家に置いておきますということです。
 
 ただ納骨といいます。お遺骨を納めるということです。
然るべきところに納める。それは墓地であったり納骨堂であったりということですが
お墓がなくお墓を建てることも経済的に難しいということもあって
とりあえず家に置いておくということが多くなっているとのことです。
 
 お遺骨をもたれてお寺にお参りされたお気持ちが大事ですねというお話をしました。
とても大切なご縁のある方です。
 お話を聞きますと家庭的にもこれまでに色んなことがあったようです。
ただ今生に別れても死別してもご縁つながりはこれからもずっと続きます。
親子の縁です。夫婦の縁です。深い深いご縁つながりです。
 
 この人間界に生まれて生きて、この人の命は終わりますが死んだらお終いのいのちではありません。
この命は「必ず救うまかせよ」の南無阿弥陀仏のおはたらき一つで
阿弥陀さまのお浄土に往生して仏さまのいのちにさせていただくとお聞かせいただきます。
 先に往かれた方もお浄土の仏さまならば後に遺った私たちも必ず仏さまのいのちにさせていただくのです。
 
 先に往かれた方を後に遺った人が仏さまと敬い
先に往かれた方はお浄土の仏さまとなって後に遺った有縁の人たちをずっとずっと護ってくださるのです。
 
 お経をあげて供養しないと先祖が浮かばれないと言われる方がいらっしゃいます。
大切なご先祖は仏さまに成ることなく今もずっと迷いの世界にうごめいているのでしょうか。
 お経は先祖供養のための手段道具ではありません。
私たち浄土真宗の所依の経典を浄土三部経といい親鸞さまは『大無量寿経』を真実の教と明かされます。
阿弥陀さまの本願念仏の救いの法南無阿弥陀仏が説かれたお経さまです。
 お念仏の法は先に往かれた方も後に遺った人も同じお浄土の仏さまに成らせていただくという教えです。
 
 先ほど拝読したご和讃の最後に
「安楽浄土にいたるひと 五濁悪世にかへりては 釈迦牟尼仏のごとくにて 利益衆生はきはもなし」とありました。
お浄土に往かれた者はお釈迦さまのようにこの世に還って来て人々を救うおはたらきをするというのです。
 南無阿弥陀仏のおはたらき、大きないのちのつながりのなかに私たちは共々に生かされて生きてあるということを
お家お家のご事情人人の人生それぞれ色々ありますが
同じお念仏の法南無阿弥陀仏のみ教えを聞かせていただきたいと思います。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.8.5)

ご門徒皆さんのおかげでお盆前の大掃除ができました

 昨日はご門徒皆さんで盆前の大掃除をしていただきました。
暑い中に掃除を終えて皆さん車座になりキャンデーをほおばりながら隣の人とお話になりました。
 「円光寺はすごいな。こんなにたくさん人が集まってくれて」と言われます。
お寺をあずかる住職としてこれほど有難い心強いことはありません。
 このお寺は一人二人でできることは本当に限られています。
まさにご門徒さんが支えてくださるお寺なのです。
 
 昨日は50人ばかりの方がご加勢してくださいました。境内の駐車場に車がたくさんでした。
皆さんをお見送りする時にちょっと気をつけて見ていましたら、沖地区の方が車三台に分乗して来られていました。
10人以上の人だったと思います。
 
 今沖地区は本当に寂しい状況です。
環境整備で道は広くきれいになりましたが、家は少なくなり円光寺のご門徒はどんどん減ってきています。
そして住んでいる方も高齢者が殆どで一人暮らしの方も多くいらっしゃいます。
 
 三佐には4か寺のお寺がありその中でも檀家門徒の数でいうと円光寺が一番多いといわれます。
それは漁業を生業とする特に沖地区の方が近年三佐以外の方々から移り住み門徒になって分家して
門徒が増えてきたことに由来します。
 
 そうした多くのご門徒さんに円光寺は支えられてきたという歴史があるのです。
ただ現実は会社勤めの方が多くなり海を離れて三佐地区外に移り住みこれからも地区内のご門徒は増々減少していきます。
 
 こうした現実にしっかり向き合い今後のお寺の護持運営を考えるとき
その基本は私たちのご法義お念仏の声かけだと思うのです。
 日頃から「いっしょにいこうえ~」とお念仏の声かけをしましょうと言っています。
もちろん私の方からお寺からも声かけをさせていただきますが、やはりご門徒皆さんの声かけです。
 皆さんのすぐ隣の人に「いっしょにいこうえ~」と声かけをしましょう。
ただ沖地区の場合、お年寄りです、歩いて来るってこんな暑い中ではとんでもないことでバスもありません。
それで車です。車に乗り合わせてお寺に行こうと声かけをしてご一緒してほしいと思います。
 
 他地区の方もそうだと思います。私一人の寺参りと言うけれどもやはり二人三人一緒に参る方が心強いし楽しいです。
南無阿弥陀仏のご縁つながりのなかに私たちのお寺があるのです。
 お念仏の声かけの元々の発信地は阿弥陀さまのお浄土南無阿弥陀仏のおはたらきですが
私たちのお念仏の先人ご先祖有縁の方々のお念仏の声かけがあって
皆さんも私も今こうして阿弥陀さまの御仏前に座らせていただいているということです。
 
 私たちの阿弥陀さまは背中を向けてる私にも常に声をかけてくださっています。
すーっとお立ちの阿弥陀さまのおすがたはいつでもどこでも私のことを思い取り
私が振り向くまで飽くことなく立ち詰めに立って喚び詰めに喚んでくださってあるのです。
 
 私の口からナンマンダブツとお念仏が出てくださいます。
南無阿弥陀仏の声となりいつでもどこでも私と共にいてくださる阿弥陀さまの心強いおはたらきです。
 お念仏のご縁をいただき今ここにお参りできている喜びをすぐ隣の人に伝えてまいりましょう。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.8.4)
円光寺
〒870-0108
大分県大分市三佐3丁目15番18号
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