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お念仏を申す生活法話

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何かおかしい、嫌な社会の事件です

 常磐自動車道であおり運転をして暴行をはたらき指名手配されていた容疑者男女が逮捕された事件が
トップニュースとなって大きく報道されています。
 
 ドライブレコーダーの映像が何度も放映されるたびに本当に嫌な思いがします。
高速道路に車を止め行く手をふさいで「殺すぞ」と叫び駆け寄り無抵抗の人を何度も殴打するものです。
高速道路で運転することがある私が何か一方的にやられている感じがして恐怖さえ覚えます。
 
 逮捕状が出て顔が映し出されその怒り狂った剣幕をみて
また逮捕された時の二人の言動をみても、とても常軌の沙汰とは思えません。
 
 自己中心の極まり自分勝手な行為で周囲に嫌な思いをさせることで本当に情けなく悲しい気持ちになります。
容疑者の男性の供述では前に行く車がのろのろしていたからといいますが
そういうことって私にも経験があります。
すーっと横を追い越して行ったから腹が立ったということもあります。
 でもそれでもって相手の車を止めて暴行に及ぶことには中々ならないと思うのですが
同乗の女性も同じく逮捕されました。
 
 こんな凶行に及んだら普通は友だちだったら止めますよね。
しかしこの女性、今回の映像からはまさに助勢しているように
はやし立てるというか、この女性も自己中心の極みです。
 
 子どもを虐待して死亡させた事件を思い出します。
虐待したのはお父さんですがお母さんもそこにいました。
言うことを聞かなかったら自分がやられると、言われるままに虐待に加担し見て見ぬふりをしたというのです。
我が子を守ることより自分のことです。どこまでも自己中心です。
 
 何かおかしいですね。
自分のすることは何でも正しくて他人のすることは間違っているという自己中心のものの見方考え方です。
 そのおかしさが自分ではわからないのでしょうが
だからこそ周りの者が諌め止めるんですよね。
 それが賛同者になり小さな小さな自分たちの世界に閉じこもって自己中心の妄想を一層ふくらまして
それが重大な事件取り返しのつかない事件になるのではないでしょうか。
 
 社会が病んでいるようにも思います。
そして私もこの社会の一員なのです。
 この社会は私一人では生きてはいけません。
それぞれ生き方生活ぶりの異なる者同士が一緒に生きているのが私たちの社会です。
お互いが自分勝手な言動で自分中心に振る舞って自分さえよければと生きていたら
どこかしこで衝突が起こって社会そのものが成り立っていきません。
 だからこそお互いに認め合い支え合って生きようと知恵を出し合って生きるのではないでしょうか。
人間の知恵の限界さえ思います。
 
 仏さまの智慧にみ教えに聞かせていただきましょう。
御仏前阿弥陀仏の御前に身を置きましょう。
南無阿弥陀仏の救いの法を聞かせていただきましょう。
自己中心煩悩いっぱいのありのままのこの身の真実を知らせていただきその上で救うてくださるのです。
 阿弥陀仏に手を合わせナンマンダブツとお念仏申してお礼をさせていただきましょう。
私一人ではなくてあなたも私も共々にお礼のお念仏ができるのです。
 南無阿弥陀仏のおはたらきに遇わせていただき
「そのまま救う我にまかせよ」のおよび声に支えられ励まされて生かされて生きていけるのです。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.8.20)

私たちそれぞれの日常いつものことの有難さ

 京都アニメーション社の放火殺人事件から1か月が経ちます。
新聞等の報道で亡くなられた方のことが取り上げられています。
 
 35人の方それぞれの日常に思いをはせます。
朝目が覚めて一日の生活が始まり食事をし仕事をして友だちと語らい遊んで過ごすいつもの日常です。
 一人一人それぞれの日常があってそれぞれの人生を夢をもって生きる日暮しです。
生きよう生きようと精いっぱい生きる日常です。
 
 終戦の日を機縁にこの時期戦時中のことが取り上げられます。
特攻隊志願兵の方々の人生です。国のため家族のためにと死を覚悟し亡くなっていかれた方々です。
 その人人のそれぞれの日常です。
手紙などの遺品が出てきて、その日常にふれます。
 その日常はどこにでもあるような普段の日常です。
その日常にふれることでご遺族関係者の方々の気持ちが揺れます。
 
 誰しも生きよう生きようという思いをもって生きています。
それがどんな生き方生きざまであっても誰彼から批評されたりするものではなく
その人人なりに精いっぱい生きている日常です。
 
 その日常を容赦なく一方的に奪ってしまう無くしてしまったのが京都アニメの事件です。
誰一人犯人と面識ある人はなく恨みつらみの感情もない事件です。
 
 今日もこうしてお朝事という私たちの日常です。
このお朝事から私たちそれぞれの日常が始まります。
 お念仏申して始まる日常です。
それぞれの日常ですが、大きな大きな阿弥陀さまの南無阿弥陀仏のおはたらきのなかに
共々に生かされてあることを尊く有難く思います
 南無阿弥陀仏の大きないのちのつながりのなかに皆さんご一緒に生かされて往くという尊さ有難さです。
 
 今日の一日、いつものような日常の繰り返しかもしれませんが
ナンマンダブツとお念仏申すなかにこのいのち精いっぱい輝かせて生きてまいりましょう。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.8.19)

お念仏の声となって私のことを思うてくださる

 お念仏申す生活をさせていただきます。
念仏は仏を念じると書きます。
 念の字は今の心、今こころする今思うということです。
仏さまを思います。
 
 お念仏の心は、これまでもそしてこれからも今の私に寄り添ってくださる南無阿弥陀仏のお心おはたらきです。
これまでもずっと私が仏さまを思う前から仏さまから思われていたということです。
 そしてこれからもずっとです。
それは今の私にずっと寄り添ってくださることなのです。
 
 今の私を思うてくださる
「どんなことがあってもいつも私が一緒だから安心して、あなたの命を精いっぱい輝かせて生きて往こうね」と
私が思う前に仏さまの方が私のことを思うてくださるのです。
 
 「あなたを必ずお浄土に生まれさせて仏にさせるよ」という思い一つです。
その思いが私のところに至り届いてナンマンダブツと私の口から出てくださるお念仏はお礼のお念仏といいます。
 ナンマンダブツ、聞こえてきますね阿弥陀さまのおよび声が。
南無阿弥陀仏のおよび声に励まされて支えられて生かされてこれからも生かされて生きてまいりましょう。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.8.18)

三願転入のお救いの道

 今日拝読のご和讃は「大経讃」といって大無量寿経のお心を讃嘆されたものです。
親鸞聖人は浄土三部経のなかで大無量寿経を真実の教とお示しです。
 
 この大無量寿経には阿弥陀さまのご本願が説かれてあります。
阿弥陀如来の四十八願です。
 このご本願の中の第18願に私たち凡夫が救われていく道が説かれてあるといただきます。
 
 今日拝読のご和讃には第18願のお心そして第19願のお心、明日は第20願のお心がでてまいります。
この第18願,19願,20願を三願とよび、三願転入の道を示されます。
 阿弥陀さまの浄土往生を願う三願です。
三願ともに浄土往生を願う心は同じですが、その往生の手立て道すがらは異なります。
 
 第19願は自力修行、自ら善行を積んで浄土往生を願うのです。
第20願は自力の念仏を積み重ねる功徳によって浄土往生を願うのです。
ただ19願も20願も方便化土の願といって真実報土の浄土には往生できないといわれます。
浄土は浄土でもお浄土の片隅に生まれるといいます。
 
 ただこの方便ということ、方便と聞くと皆さん嘘も方便ということで方便イコール嘘と聞かれますが
方便とは真実に至る道すがら真実に導くための手立てというのです。
 
 真実の本願こそ第18願です。
他力回向の願といいます。
 阿弥陀さまの本願力回向の南無阿弥陀仏のおはたらき一つで私たちの往生が定まり
私たちは阿弥陀さまの本願力を信じおまかせするばかりだと聞かせていただきます。
 
 第19願20願が方便の願といわれるのは自力で浄土往生を願う心がおこるということで
阿弥陀さまの他力におまかせする心が欠けているということなのです。
 
 この三願転入の道すがらは親鸞聖人の歩まれた道でもあります。
比叡山での厳しい学問修行です。自力の念仏修行もありました。
そして法然聖人にお出遇いされて「雑行を捨てて本願に帰す」と他力の念仏に帰入されたのです。
 
 私たちも親鸞聖人と同じように三願転入の道すがらを歩まなければ真実報土の浄土往生ができないのではありません。
要は阿弥陀さまのご本願のお心南無阿弥陀仏のお心を聴けよとお聴聞をおすすめなのです。
 聴いて聴いて聴きぬけといわれます。
仏さまの前に身を置いてお念仏申す身にさせていただくことです。
 
 これも自力といえば自力のようですが
お念仏申す身にさせていただいた上はすべてが阿弥陀さまのお手回しであったといただけるのが
阿弥陀さまの本願念仏のお救いのお心なのです。
 
 私の救いの大本は南無阿弥陀仏の仏さま阿弥陀如来さまですが
皆さんのご先祖有縁の仏さまです。
 皆さんのご先祖有縁の仏さまのおはからいがあってお手回しがあって
この私が今こうして御仏前に座ることができているこの口からナンマンダブツとお念仏申すことができているのです。
そのことをそのまま喜ばせていただきましょう。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.8.17)

お盆の行事を終えて

 昨日でお寺のお盆の行事が終わりました。
今年のお盆は最後に台風が来て昨日の「戦没者追悼法要・平和を願い鐘つき・還暦を祝う会」は取りやめにしました。
前の日から交通機関や各種催し、商業施設の休止が決定するなどしてそんなに混乱はなかったようですが
お盆休みで色々と楽しみに計画していたことができなかった方もたくさんいらっしゃったと思います。
 
 私たちの日々の生活は大自然の営みのなかにあることを思います。
いつもは当たり前のように享受している自然の恩恵ですが
自然の脅威には人間はなす術もないことを改めて思い知らされます。
 
 さて盆参りは5日から始まりましたが、風邪を引きこんで翌日6日には全く声がでなくなり
新院に私の分も代わってお参りしてもらったことです。
 ただ15日までしっかり盆参りの分担をしていますので休んでばかりいられず
病院で薬をもらいガラガラ声で15日まで持つのか不安を抱えながら過ごした辛いお盆になりました。
 
 昨日は終戦記念日で東京では全国の戦没者追悼式が行われ令和になって初めて天皇がお言葉を述べられました。
平成の天皇のお心を受け継いで不戦を誓い平和を祈るというお言葉でした。
 戦後生まれが今国民の8割を超すといいます。今日お参りの皆さんも戦後生まれの方です。
戦後生まれで戦争を知らないといっても、私たちの先祖父母祖父母が戦争という苦しい時代を生き抜いてきて
今この私の命があるということに思いを致します。
 
 戦没者追悼法要は私たちが毎年お勤めする戦没者お一人お一人のご法事です。
追悼です。追って悼むといいます。
 追うということが大事なのです。
近年戦争の風化が言われ最近は戦争の風化そのものが言われなくなったように思います。
もう74年前の私が生まれていなかった頃のことで知らないから関係ない忘れてもいいということではありません。
 
 追って行くんです。
あの戦争のなかを生きてそして死んでいった先人のことに思いをはせ考えるのです。
 追って来られるんです。
ご先祖の方々が追って来られる、追って来ているということです。
「戦争という愚かなことはもう二度としてはいけないよ」と言い続けているのではないでしょうか。
 
 戦争は人間が行う最も愚かな行為です。
国と国同士が敵味方に別れ互いに正義という大義名分を振りかざして武器を駆使して戦う戦争ですが
所詮戦争は人と人との殺し合いです。
 これまで一度も会ったことがない者同士恨みつらみのない者同士が敵味方に別たれ
殺さなければ殺されるといった異常事態のなかで殺し合うのです。
人を殺すことが何人殺すことが英雄の証となることで、これほど理不尽なことはありません。
 
 人は人を殺すために人から殺されるために生まれて来たのでしょうか。
こう言うと、何か大義名分の声が聞こえてきそうですが
 この命誰からも殺されたくないし誰をも一人として殺したくありません。
みんなお互いに精いっぱい生きよう生きようと生きている命なのです。
 戦争に勝者も敗者もありません。みんなが傷つきいつまでも癒されないのが戦争です。
私たち人間はそのような愚かな戦争を有史以来続けてきています。
 
 仏教徒が修める戒律の最初に不殺生戒が説かれます。
「殺すなかれ殺さしむるなかれ」と仏法の世界には争いごとはないと言われます。
 先の大戦では僧侶をはじめ仏教徒が争いごとの中心にありました。
戦争当時このお寺でどのようなことが行われご門徒を戦地に送り出し戦死者の遺骨を迎えたのでしょうか。
 
 戦争の記憶を訪ねていき真摯に振り返って戦争のない世界になるように心がけ
私にできることを精いっぱいさせていただきたいと思います。
 
 今日は台風一過ということですが小雨模様になりました。
さきほどのラジオ体操の時には霧雨のような感じで何か心地よかったです。
 自然の恵みといい脅威といい、大自然の営みのなかに生かされてあることを深く味わわせていただきます。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.8.16)
円光寺
〒870-0108
大分県大分市三佐3丁目15番18号
TEL.097-527-6916
FAX.097-527-6949
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