お念仏の旅の道中です
2025-03-17
今日は彼岸の入りです。
20日春分の日のお中日前後一週間を
彼岸といいます。
「暑さ寒さも彼岸まで」と言われるように
何をするにも最適な時候にあって
お寺では『彼岸会(ひがんえ)』をお勤めし
ご門徒有縁の皆さんに仏法聴聞をお勧めします。
彼岸会は<到彼岸>ということで
私たちが生きているこの迷いの岸から
仏さまのおさとりの岸に到る道をたずねていく
という意味があります。
迷いの私がさとりの仏に成る
成仏道です。
私たち浄土真宗の成仏道は
往生浄土のお念仏の道です。
阿弥陀仏の「われにまかせよ必ず救う」の
ご本願のお心おはたらきにまかせて
南無阿弥陀仏とお念仏申して歩ませていただく
私たちは今お念仏の旅の道中です。
南無阿弥陀仏のおはたらき一つにまかせ
阿弥陀さまのお慈悲の中に生かされて
お浄土参りの道往きを
あなたも私も皆共にさせていただく
お彼岸のご縁にお寺参りをご一緒しましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2025.3.16)

夢に出てくる
2025-03-16
「よく主人が夢に出てくるんですが
どういうことでしょうか?」とのお尋ねです。
3年前に死別してから何度も夢に出てきては
「寝過ごしていないか、時間だぞ!」などと
言ってくれるそうです。
私も夢をみます。
皆さんに聞いたわけではありませんが
皆さんも人それぞれに夢をみるのではないでしょうか。
夢に出てくる人もそれぞれに違い
怖い夢も楽しい夢もあると思います。
お話を聞いて
「いいですね。
大切な方が夢にでてきてくれるって
すてきなことじゃないですか」と言いました。
つながっているんですね。
人の命は終えましたから
実際この目でその人の姿を見ることはできませんが
死んだら終いのいのちではなく
つながっているんですね。
思われているんですね。
今もこれからも私のことを心配して
見てくださり守ってくださるということです。
南無阿弥陀仏の大きないのちにつながって
阿弥陀さまのお慈悲の中に共々に
生かされて生きていると
お念仏申して聞かせていただきます。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2025.3.16)

六根清浄
2025-03-15
私たち人間には
眼・耳・鼻・舌・身・意の
六根という六つの感覚器官があって
外界の対象物を認識して生きています。
視覚・聴覚・臭覚・味覚・触覚の感覚で
総元締めは私の意識ものの見方です。
自己中心のものさし自分の都合に合わせて
「よかった」「悪かった」と認識しては
苦しみ悩み迷う私がいます。
仏教は如実知見の法で
この身を苦しめ心を悩まし迷うのは
自己中心の思いはからい煩悩が原因と明かして
煩悩を滅することで迷いの私がさとりの仏に成ると
四諦八正道の教えを説きます。
私たちに具わる六根を清浄にすることで
煩悩を滅し成仏するという仏道修行の道筋ですが
理屈はそうでも自ら実践することは
難中の難と思い知らされ
親鸞さまは20年間仏道修行された比叡山を下りて
法然聖人が説かれる専修念仏の仏道に
帰依されたのです。
『正信偈』に浄土真宗のみ教えを
「不断煩悩得涅槃」と明かします。
阿弥陀仏の本願念仏のお救いは
南無阿弥陀仏のおはたらきで
自ら煩悩を断ち切らないまま
浄土でさとりを得ることができると教えます。
浄土真宗の仏道は
阿弥陀仏の本願念仏のお心を
お聴聞することを勧めます。
私から聴いてたずねていきますが
学校の勉強のように
聴いて覚えて救われるのではありません。
南無阿弥陀仏のお心おはたらきをたずねていくなかに
本願念仏のお心が聞こえてくる
本願を信じお念仏申す身にお育ていただくのです。
私がお聴聞する前から
阿弥陀さまの大きなお慈悲の中に
すでに救われていたと聞こえてきます。
「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば
ひとえに親鸞一人がためなりけり」(歎異抄)の
親鸞さまのお心です。
私がこの人間界に生まれる前から
ずっとずっと遥か昔から
私一人を救うために阿弥陀さまのおはたらきがあったと
聞かせていただくとき
これからもずっとどんなことがあっても
「いつでもどこでもあなたと共にある」と喚んで
今ここ煩悩具足のこの私をそのまま救うてくださる
阿弥陀さまのお念仏の声に安心して
往生浄土のお念仏の仏道を歩ませていただけるのです。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2025.3.15)

お寺は元々地域の皆さんの安心できる居場所
2025-03-14
地震や豪雨などで被災者が避難する避難所は
学校や公民館などの公共施設が
一般的に指定開設されますが
お寺が指定避難所になっている事例が
本山(京都西本願寺)発行の
『本願寺新報』に紹介されていました。
1982年の長崎大水害で
多くのご門徒が被災されたお寺で
広く避難者を受け入れ救援活動をされたことで
後に指定避難所になったということです。
お寺は広い境内地に大きな建物があり
大人数を収容する空間は十分あります。
ただ避難所となるとプライバシーの保護など
諸々の課題があります。
記事には、過去の経験からお寺の方が
「『仏さまに守られているような安心感がある』と
お内仏に手を合わせる方もおられて
お寺ならではの温かさがあるのでは」と言われ
「地域の皆さんの安心できる居場所であることが
元々のお寺の役割であり
特別なことではなく大変な時にこそ
『仏さまに守られているようで安心』という
関わりができたら」と述べられています。
地域に開かれたこれからのお寺のあり方を
考えさせられることです。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2025.3.14)

「おかえりと 言ってくれる 人がいるところ それがふるさと」※転載
2025-03-13
今から10年ほど前
私が京都の私立高校で宗教科の
非常勤講師をしていたときのことです。
その高校に通うため
故郷の鹿児島から出てきて
一人暮らしをしている生徒がいました。
その生徒が授業の発表で
こんな話をしてくれました。
「僕の地元では同年代の子どもが少なく
友達といっても本当に限られた人数でした。
それが京都に来てから一気に
たくさんの友達ができました。
その友達は、高校を卒業した後も
僕が京都に帰ってきたときには
きっと『おかえり』と迎えてくれます。
僕は『おかえり』と言ってくれる人が
いるところが<ふるさと>なのだと思います。
だから京都は僕にとっての
大切な<ふるさと>です」と。
「ふるさと」は必ずしも
「生まれ育った土地」のことだけではない
ということですね。
懐かしい人たちが私を「おかえり」と言って
温かく迎えてくれる「ふるさと」があるという実感は
私たちが生きていくために
とても重要なものだと思います。
そのような「ふるさと」があると実感できたとき
私たちはどこにいても、何をしていても
安心して生きることができるのでしょう。
※『本願寺インスタ倶楽部』
(芝原弘記 本願寺派総合研究所研究員)より転載
ー本願寺新報2025年3月10日号ー
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2025.3.13)
