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お念仏を申す生活法話

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浄土真宗のお寺はお念仏の道場です

 浄土真宗のお寺は念仏の道場とか聞法の道場と言われます。
道場とは道を求める道を聞くところということです。
 お念仏のみ教えに私が歩ませていただく道を聞かせていただくということです。
 
 道を聞くとは行く道の方向を聞くことであり、私の人生の行く先が決まるということです。
その行く先を阿弥陀さまのお浄土だよと教えてくださるのが浄土真宗、浄土を真実の依りどころとする教えなのです。
 
 この念仏の道場といってお寺に来ないとお念仏の道を聞くことができないのかというと
本願寺8代目の宗主蓮如上人は「南無阿弥陀仏」のお名号を何幅も書かれて全国各地に送られ
お名号をいただいた門徒同行がお家の中心に懸けてご本尊として仰いでいかれました。
 阿弥陀さまが在しますところを念仏の道場として人々がお念仏のみ教えを聞き
お念仏のみ教えが日本全国津々浦々に伝わって
800年の時空を超えて今こここの私のところにお念仏のみ教えが届けられているのです。
 
 皆さん私たちの最たるお念仏の道場は皆さんのお家のお仏壇お仏間です。
その度お名号をかけるどころではなくて常設です。
お寺のお内陣のように常にそこに阿弥陀さまが在しますところなのです。
 
 お寺には中々お参りできなくてもお家のお仏壇にお参りすることはどうでしょうか。
毎日私たちが生活しているお部屋のすぐ隣の間です。
 阿弥陀さまが私のお家まで来てくださってあるのです。
お仏壇にお参りしましょう。
 まず私から、お灯明をあげて線香を炊いて手を合わせてナンマンダブツの一声です。
その姿が家族の方子や孫に伝わっていく私に伝わってきたということではないでしょうか。
 
 もっというならば皆さんが居ますところがお念仏の道場なのです。
皆さんが日々生活するなかでお仕事をしてても遊んでいても
ナンマンダブツとお念仏申すところが確かに確かにお念仏の道場になるのです。
 
 人にああだこうだよということではなく
ナンマンダブツとお念仏を申すところそのままに
お念仏の声が隣の人周りの人に聞こえ伝わっていくということです。
 
 南無阿弥陀仏と私たちの生活のなかにお念仏の道場を開いてくださり
あなたのいのちの往く先はお浄土だともうすでに用意をしてくださって
私と共に生きてくださる仏さま、そのお心おはたらきを南無阿弥陀仏と聞かせていただきます。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.9.7)

一周忌のご縁です

 昨日はR寺さんの前住職の一周忌のご法事にお参りしました。
急なご往生で働き盛りの方が亡くなると、その人に代わる人はいませんがお役は残ります。
 お寺でいったら住職という大きなお役です。
どなたかが住職を後継代わってつとめなければならないということです。
 
 大切な方が日々の生活のなかからいなくなるということは本当に大変なことで
その存在が大きなお役の人ほど周囲の方にとってはぽっかり大きな穴が開いたような現実を余儀なくされます。
 この一年色んなことがあったと思いますが皆さんで色々とご相談されてこの日を迎えられたことだと思います。
 
 まさに思い通りにならないこの苦悩の人生です。
そして私たちはこの苦悩の人生を待ったなしに生きていかねばばりません。
 不安になります。迷うこともあります。
そうした苦悩の中にある私たちのど真ん中に阿弥陀さまの南無阿弥陀仏のご法義がおはたらきだということです。
 この阿弥陀さまはこうしなさいいああしなさいと言ってその通りにできる私たちを相手にしているのではありません。
こうしなさいと言ってそのこと一つでしない
頑張って頑張ってつとめても思い通りにならず苦しみ悩み迷いのなかにある私たちのど真ん中に
南無阿弥陀仏と飛び込んできてくださって私と共に生きてくださる仏さまに成ってくださったのです。
 
 先に往かれた方はこの阿弥陀さまと同じ南無阿弥陀仏のおはたらきの仏さまに成ってくださったと聞かせていただきます。一年が経ちました。一周忌です。
この間にも何度も何度もこの御仏前阿弥陀さまの御前に座ることができました。
 昨日の一周忌には30人ほどお寺関係のご親族が多くお集まりでした。
普段は導師というお役でお勤めし仏さまのお話をするということですが
皆さん私も含めて一堂に阿弥陀さまの御前に座らせていただきお念仏申させていただきました。
 
 私の生活のど真ん中にも隣の方隣の方の生活のど真ん中にも
同じ南無阿弥陀仏の大きな慈悲が至り届いてあるということを喜ばせていただきます。
 
 来年は三回忌です。
この一年もいろんなことがありますがナンマンダブツとお念仏を申して
一日一日を大切に生き抜かせていただきましょうと
お取り次ぎさせていただきました。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.9.6)

「恩送り」ということ

 災害が各地で発生しています。
災害の報道を観てボランティアの方が土曜日曜の休みを利用して活動する姿は本当に尊いことです。
 
 ただ思いがあっても活動できない方もたくさんいらっしゃいます。
私にできるボランティア活動という新聞記事を読みました。
 
 貧困ということが今社会問題になり7人に1人の子どもが貧困状況にあって今日の食事にも事欠くということです。
 そんななかで奈良県のカレー屋さんの取り組みです。
1杯500円のカレーを食べた人が1000円払って1枚500円の「みらいチケット」を購入するそうです。
そのチケットは店頭に置かれ子どもたちが自由に使ってカレーを食べるそうです。
 19世紀のイタリアで始まった保留コーヒーということも同紙に紹介させていました。
同じシステムで自分が飲んだコーヒー代以外のもう1杯分の代金を置いて他の人に施すということです。
 
 小さな善意です。
私がしますしてあげますということではなく、私にできることをさせていただくということです。
 私にできること500円です、300円です。
お金の問題ではありません。
 気持ちを送るということです。
それも知らない人にですしそれを受けた人も負担に思うのではなく今度は自分が他の人におくるということです。
「恩送り」というそうです。
 
 「恩返し」ということはよく聞きます。
あの人に恩があるからあの人に恩を返すということです。
これは特定のあの人と私の関係です。
 
 「親孝行したい時には親はなし」といううたがありますが
恩返ししたいと思ってもその人がいなくなったらしなくてもいいということではないでしょう。
 
 そこで「恩送り」です。
自分が受けた恩を今度は次の人に送っていくということです。
知らない人でもいいのです。
 自分がお世話になったそのことを社会に還元するといいますが
他の人に送るのです。
 
 送られた人も誰から送られたか分からなくても誰かと確かにつながってあるということに安心でき
今度は私ができるようになったときに他の人に受けた恩を送っていくということにつながるのです。
 
 布施の精神そのものです。
布施の行はまさにそのことを教えてくれます。
 自分一人の幸せではなく他の人にもその幸せを喜びを送っていくということです。
 
 何か布施と聞くとどのくらいという金額の問題になったりしますが、布施は対価ではありません。
私にできる精いっぱいのことをさせていただくことが大事なのです。
 そのことが仏さまのお心おはたらきのお手伝いになるということをまた聞かせていただき
皆さんにお伝えしていきたいと思います。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.9.5)

南無阿弥陀仏のいのちと光の仏さまに成ってくださいました。

 私たちの浄土真宗のご本尊の阿弥陀さまはどんな仏さまかというと
摂取不捨の仏さま、無量寿無量光の仏さま、智慧と慈悲の仏さま
いつでもどこでもの仏さまと色んな言い方がありますが
南無阿弥陀仏の仏さまといただきます。
 
 南無阿弥陀仏のお名号になってくださった仏さまです。
私のこの口からナンマンダブツと声になって出てくださる仏さまです。
 南無阿弥陀仏と無量のいのちとなり光となって私のところに至り届き
摂取の光明のおはたらきで私たちを摂め取って決して捨てない仏さまになってくださいました。
 
 阿弥陀さまのおはたらきはお浄土からのおはたらきです。
お浄土から光を放ち私たちをそのまま摂め取って必ず救うとおはたらきです。
 
 五濁悪世に生きる私たちです。
私が私がとどこまでも自分を中心に欲の心怒りの心愚かな心の煩悩を絶えずおこし
生きているお互いです。
 
 そういうなかにあって阿弥陀さまはどんな人も必ず救うとおはたらきです。
極端な言い方をするとどんな悪いことをした人もということです。
 それは他人のことを言っているのではありません。
この私のことです。
この私一人を南無阿弥陀仏のおはたらき一つで救うてくださる
南無阿弥陀仏のいのちになってくださった仏さまといただきます。
 
 ナンマンダブツナンマンダブツとお念仏を申すところに
「私がいるよ大丈夫だよ」といつでもどこでもこの私のところに来てくださり寄り添ってくださっています。
そのおはたらきはそのままこの私をお浄土に生まれさせていただくおはたらきなのです。
 
 お念仏一つのお救いのおはたらきです。
すえ通った修行の一つもできない私をもうすでに見抜かれて
これこれこういうことをしなければ救わないという仏さまではありません。
 
 お念仏一つで救うてくださるのです。
南無阿弥陀仏のおはたらき一つでと阿弥陀さまのひとりばたらきで
この私がそのまま救われて往くのです。
 
 お念仏申してくれよとおはたらきです。
ナンマンダブツナンマンダブツとお念仏を申すなかに
今日の一日もお浄土への人生を歩ませていただく一日といただいて
それぞれの生業に生きてまいりましょう。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.9.4)

一年365日お寺はいつも生きています

 昨日大分合同新聞から子ども新聞という一年一回夏休み明けのこの時期に発行される新聞が届きました。
県内の小学生5,6年生が夏休みを利用して自分の興味のある所や仕事、社会のことについて
直接取材をして記事にするという企画です。
 
 その新聞に円光寺のことが大きく載っていました。
「みんながおまいりお寺の一日」というタイトルでした。
水曜学校の子ども会に来ている5年生の男の子の記事です。
 
 お寺のすぐ近くのお家ですからお寺の6時の梵鐘と6時半の喚鐘の音が聞こえるんでしょうね。
そのことがまず書かれてありました。
 お寺の一日です。どんな生活をしているのか興味があったんでしょうね。
 
 毎朝定時に鳴る梵鐘や喚鐘は機械が自動的についているのではなく、そこに人がいるということです。
6時半に朝のおつとめをして近所の方が来られるとありました。
 皆さんのことです。
記事にはありませんでしたが、ご一緒にお勤めをしてナンマンダブツとお念仏申し
仏さまにお礼をして皆さん私たちの一日が始まるということです。
 
 お寺が生きているということです。
生きているというのはそこに人がいるということです。
毎日何人もの人がお寺に出入りしてそれぞれのおつとめをしているということです。
 
 最後にお寺はどんな人も来れるところですというコメントがありました。
どんな人もです。それはお寺にいらっしゃる阿弥陀さまのお心そのものなのです。
 ただご縁がないと中々お参りするのは難しいことです。
だから鐘が鳴るんですね。
 阿弥陀さまの南無阿弥陀仏のお呼び声です。
どんな人にも聞こえてきます。
うるさいなと思われる人もいるかもしれません。でも聞こえるんです。
 
 その仏さまの声が聞こえて聞こえてご縁になって今日の皆さん私たちになるんです。
お寺の一日、そこには人がいます。お念仏申す人がいます。
南無阿弥陀仏のおはたらきは朝だけではなくずっとずっと
いつでもどこでも誰にでも一年365日毎日止むことなく続いてあるのです。
 
 どうぞ皆さんこれからもお誘い合わせお参りさせていただきましょう。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.9.3)
円光寺
〒870-0108
大分県大分市三佐3丁目15番18号
TEL.097-527-6916
FAX.097-527-6949
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