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お念仏を申す生活法話

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阿弥陀さまの御用心

 今朝本堂の鍵を開け忘れて大変失礼しました。
お朝事のいつも準備することが順番に決まっているんですが
そのなかで今日は違う事を一つして案の定というか次のことができていませんでした。
 梵鐘を撞いた後で確かめればよかったんですが本当に迷惑をかけました。
 
 私たちの日々の生活です。
特に朝起きてすることは決まって身に付いていることが多いのですが
何かいつもと違うことをすると次のことを忘れることにもなります。
 
 用心しなさいということです。
物事に慣れてくればくるほど心してさせていただくことが大切です。
 つとめてできることを丁寧に精いっぱいさせていただくように心得たいものです。
 
 阿弥陀さまの御用心です。
阿弥陀さまは私たちを必ず救うと心してあらゆる手立てといろんな工夫を施されて
私たちを今こうしてここ阿弥陀さまの御尊前に座らせてくださり
この口からナンマンダブツとお念仏申す身にしてくださったのです。
 
 阿弥陀さまの御用心をいただいて大安心のなかに今日一日も日暮しさせていただきましょう。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2020.1.11)

[道徳いくつになるぞ 道徳念仏申さるべし」

 毎朝御文章さまを拝読させていただきます。
本願寺第8代宗主の蓮如上人が私たちにくだされたお手紙です。
 このお手紙には親鸞聖人が開かれた浄土真宗のみ教えの肝要が書かれてあります。
 
 このお正月に因んだ蓮如上人のエピソードに
新年の挨拶に来られた勧修寺村の道徳さんに「道徳いくつになるぞ 道徳念仏申さるべし」と言われたお話があります。
 お正月で一つ年を重ねる習わしのなかであらためてお念仏を勧められたのです。
 
 念仏一つで救われるというと
何か私が称える念仏に力が入って数多く称えてその功徳で救われると聞かれる方が多いのではないでしょうか。
 私が申す念仏も皆さんが申す念仏も阿弥陀さまが私たちを必ず救うという南無阿弥陀仏のおはたらきなのです。
南無阿弥陀仏のおはたらき一つでどんな人も等しく救われるという浄土真宗のご宗旨です。
 
 阿弥陀さまの本願念仏のお心を聞かせて信心いただいて救われるのです。
信心一つで救われると蓮如上人は御文章「聖人一流の章」で
「聖人一流のご勧化のおもむきは信心をもって本とせられ候」といわれ
親鸞聖人が私たちにお勧めくださった浄土真宗のみ教えの根本は信心だとお示しです。
 
 今日の御文章さまにも御和讃にも他力という言葉が何度もでてきました。
念仏といい信心といい他力の念仏他力の信心なのです。
 私たちは自分のところに引き寄せて念仏や信心を語りますが
少しでも自力が混じるところに阿弥陀さまのご本願を疑う心が起こるのです。
 
 この私一人を目当てに必ず救うとご本願をたてられ成就して
南無阿弥陀仏の仏さまに成ってくださったことをそのまま聞かせていただきましょう。
 南無阿弥陀仏の大きな大きなおはたらきのなかにもうすでに救われてあることに安心しまかせて
お念仏申す生活をさせていただきましょう。
 
 御恩報謝の念仏といいます。
今日もお朝事のご縁で阿弥陀さまに共々にお礼を申させていただき一日を始めさせていただきます。
 
 「道徳いくつになるぞ 道徳念仏申さるべし」と
道徳を皆さんのお名前に置き換えて聞かせていただきましょう。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2020.1.10)

ペットの猫ちゃんのお葬式

 昨日ペットのお葬式をお勤めしました。
ご門徒の方から電話があってお家にお参りしましたらお仏壇の横の布団に猫ちゃんが横になっていました。
ご家族ご縁の方が4人黒い服装でいらっしゃいました。
 お仏壇の前で短いお勤めをさせていただき皆さんにお焼香していただきました。
ご臨終のようすを聞き少しご法話をさせていただきました。
 
 近くで拾ってきた猫で14歳といいます。人間でいうと75歳ぐらいという高齢です。
子猫の頃から他の猫と共に家族同然に同じマンションで生活していたそうです。
 今日も朝いつものように元気で食事をしたといいますが
急なことで病院に連れていったもののそのまま命終えたということです。
 本当に急だったということで涙いっぱいに悲しみのようすでした。
 
 猫も犬も人もみんな命を生きているんですね。
この命いつか必ず終えていかねばなりません。別れが来ます。
 悲しみのご縁ですが御仏前でお勤めをさせていただき仏さまのご縁をいただくという仏さまのお話です。
 
 仏さまのご縁につながって私たちはお互いに命をいただき人と生き猫と生き犬と生きているということです。
このたびは私たちは人の命を生きていますが猫の命犬の命をいただいてこの世に生まれ生きているということです。 
 それぞれ違う命のあり方ですが仏さまから見ればみんな同じいのちなのです。
南無阿弥陀仏の大きな大きないのちのつながりのなかに私たちはお互いに生かされて生きてあるのです。
 
 愛別離苦の悲しいご縁です。
「猫ちゃん幸せですね」と口に出ました。
そして猫ちゃんがつくってくれた仏さまのご縁といただきましょうとお話して
ご一緒にナンマンダブツとお念仏申しました。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2020.1.9)

「がんばって」

 阿弥陀さまは南無阿弥陀仏の言葉になった仏さまといいます。
昨日の新聞のコラムに「同じ言葉でも、使われ方によっては全く違うものに変わる。
突き放すように言われる「がんばって」があるかと思えば
抱きしめて言ってもらえる「がんばって」もある」とありました。
 
 日常生活のなかで私たちは「がんばって」とよく使いますが
使い方によっては受け止め方が違うということです。
 例えば病気見舞いに行って「がんばって」と言いますが
言われた方にとっては「がんばって」と言われるほどつらいことはないと言われます。
 頑張って思うようにできるなら早く退院して元通りの生活がしたいのです。
元気な人から「がんばって」と言われても素直に受け止められないということでしょう。
一緒に頑張っていきましょうということではないですからね。
 
 頑張るということについて
我を張るということで我とは我執のこと私が私がと自分にとらわれ自己中心の見方考え方になって
私たちの苦しみ悩み迷いの原因であると聞き私もそのようなお話をします。
 
 頑張るとは生きる励みになる言葉だと思います。
精いっぱい今私にできることをさせていただくということではないでしょうか。
 できることしかできないけれども精いっぱいです。
できないから駄目ではないのです。
 
 南無阿弥陀仏のお心を
「私がいるよ大丈夫だよ。あなたはあなたの命を精いっぱい輝かせて一緒に頑張って生きていこうね」といただきます。
 ナンマンダブツとお念仏申すところに阿弥陀さまがご一緒です。
私がどんな状況にあっても阿弥陀さまは私について離れずご一緒してくださる仏さまに成ってくださったのです。
 そのこと一つ心に入れて今日も一日頑張って生きてまいりましょう。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2020.1.8)

円光寺の鐘の音

 今朝6時の梵鐘をつこうと鐘楼に向かっていたらゴーンと鐘の音が聞こえてきました。
今までも聞くことはありましたが本当に久しぶりのことで耳を澄ませました。
 冬のこの時期は空気が澄んで法学や風の具合にもよりますがよく音が伝わってくるのです。
多分毎朝6時についているお寺の鐘だと思います。
 円光寺も同じ6時の鐘ですから他のお寺の鐘の音が聞こえないということかもしれませんが
あらためて梵鐘の音を聞くっていいものだと思います。
 
 私が若い頃京都のご本山に電車で行く用事があって
鶴崎駅のプラットホームで6時半頃に喚鐘の音が聞こえてきたんです。
 ああこれは円光寺の喚鐘だとすぐ思いました。
梵鐘をつくお寺はあっても朝から喚鐘をつくお寺はこの辺では滅多にありません。
 ちょうど今の自分まだうす暗く寒い朝でしたが
あたたかいほっとした気持ちになりました。
 
 お朝事の喚鐘です。
いつものように住職の父がたたいて本堂にはたくさんの常朝事のお同行が集まって
これからお正信偈さまのお勤めが始まるんだなという光景がスーッと浮かびました。
 人が生きている光景です。
それぞれのお役目をしてお念仏のおつとめです。
 
 私たちの日々の生活です。
梵鐘にしても喚鐘にしても阿弥陀さまの思いが願いがいっぱいつまったものなのです。
 「お寺にお参りなさい」と仏法を聞いてくれよお念仏申す身になってくれよとの阿弥陀さまのお喚び声です。
梵鐘や喚鐘の音となって私の耳に届けられてあるのです。
 「必ず救うまかせよ」の南無阿弥陀仏の大きな大きないのちのつながりのなかに
生かされて生きるお念仏申す生活です。
 今日の一日もナンマンダブツとお念仏申して共々に生かされて生きてまいりましょう。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2020.1.7)
円光寺
〒870-0108
大分県大分市三佐3丁目15番18号
TEL.097-527-6916
FAX.097-527-6949
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