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お念仏を申す生活法話

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日々の生活のなかに仏法を聞かせていただきましょう

 今日20日拝読の御文章さまは「八万の法蔵章」です。
「八万の法蔵をしるというとも後世をしらざる人を愚者とす」とあり
「一文不知の尼入道なりというとも後世をしるを智者といえり」と続きます。
 
 八万四千の法門といわれる多くの仏法を知っていても自らの後生の一大事を知らない人は
愚者といわねばならないというのです。
 仏法を学ぶということは学問を積み重ねて救われるのではなく
大事なことはこの私が阿弥陀さまの真実信心をいただいて救われることだよといわれるのです。
 
 学問を積み重ねて救われるのなら学問ができる勉強ができる人知識が豊富な人が一番に救われるはずですが
逆に積み重ねた知識が仏法の邪魔をすることもあるのです。
 
 私たちの小賢しい知恵で仏法を理解しようとするところに疑いが生じるのです。
仏法聴聞の場に身を置き仏さまの智慧をそのまま聞かせていただくことが肝要です。
 
 お念仏をよろこんで生きていかれた妙好人と讃えられる方がいらっしゃいます。
その人生は決して順風満帆なものではないものの南無阿弥陀仏の救いの法に出遇うなかで
「あなたの命そのまんま引き受けた。必ずあなたをお浄土に生まれさせる」と
ご一緒くださる阿弥陀さまに安心してナンマンダブツとお念仏申して生きて往かれたのです。
 
 日々の生活のなかにお念仏申して仏法を聞かせていただきましょう。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2020.1.20)

「困った時は俺の名前を呼ぶんだぞ すぐすっ飛んでいくからな」

 昨日久しぶりに映画を観に行きました。「男はつらいよ お帰り寅さん」です。
シリーズ第50作目ということですが渥美清さんは亡くなっていません。
 渥美さん主演の最後の第48作から約25年が経っています。
さすが山田洋次監督すごいですね。
以前の映画の場面を散りばめた思い出だけの作品ではありませんでした。
 テーマとストーリーがあって山田監督が今私たちに伝えたいことが随所にみられました。
過去の作品の名場面を織り交ぜながら脚色された秀作です。
 
 寅さんがずっといつも心配していた甥っ子の満男との関係が柱になっています。
満男も寅さんと同じように初恋の人に失恋します。
その相手がヨーロッパに行きそこで結婚家庭をもって今回は仕事で日本に帰って来たというストーリーです。
 
 満男はこれまでの人生で進学就職そして恋愛と大きな節目に迷うなかで
寅さんに苦しみ悩みを打ち明け寅さんからアドバイスをもらうわけですが
ある時は寅さんに反発することもありある時は救われることもあって
25年経った今寅さんの言っていたことがあらためて思い返されるというのです。
 
 親の25回忌33回忌のご法事を子どもが施主でつとめるご縁を重ねて思います。
子どもがほぼ親の年齢になるのです。
 親が何度も口うるさく言っていたことがその時はわからなくて背中を向けて聞いていたことが
ああそうだったんだと聞こえてくる受け入れられるということではないでしょうか。
 
 寅さんの言葉のなかに私たちへのメッセージが込められています。
映画の中で寅さんのあこがれのマドンナとともにこれまでの名場面が何度もでてきました。
 こんなこともあったなこんなこともと懐かしく観るなかに
現在の満男の生活です。妻に先立たれ高校生の娘と暮らすなかで昔の恋人に再会します。
新進作家ですが安定したこれからの生活が保証されているわけではありません。
 今も満男は苦悩の中にあるのです。
誰かにこの悩みを聞いてほしいと思うとき寅さんの言っていた言葉が聞こえてくるのです。
「満男 困った時は風に向かって俺の名前を呼ぶんだぞ すぐすっ飛んでいくからな」と。
 
 阿弥陀さまのお慈悲のおはたらきです。
「困った時にゃお念仏に相談しなされや」とお念仏をよろこばれて生きた妙好人の言葉です。
困った時だけではありません。この阿弥陀さまはいつでもどこでも嬉しい時も楽しい時もです。
 阿弥陀さまはいつも私に寄り添ってご一緒くださる南無阿弥陀仏のおはたらきの仏さまになってくださったのです。
私が阿弥陀さまのことが忘れても阿弥陀さまは私のことを忘れることはありません。
 
 「困った時は風に向かって俺の名前を呼べよ」と
風に向かってと方角を示してくれてここに俺がいるよというのです。
 方角を決めてくださっている安心です。
 
 お念仏のご法義に重ねて風が吹き出すところがお浄土といただきます。
お浄土からのお念仏の風「必ず救うまかせよ」の南無阿弥陀仏のおはたらきです。
いつでもどこでも今こここの私におはたらきです。
 自己中心に生きる私はそのことに気づこうともしませんが
阿弥陀さまは飽くことなく必ず救うとおはたらきなのです。
 
 南無阿弥陀仏のお心おはたらきが聞こえてきます。
「いつでもどこでもどんなことがあってもあなたと一緒だからね」という南無阿弥陀仏のお心おはたらきです。
 何か自分一人で頑張って頑張って生きてきて結果苦しみ悩み迷いから離れられない私に
いつも寄り添ってくださっているのです。
 その心おはたらきが南無阿弥陀仏と聞こえてきます。
 
 ナンマンダブツナンマンダブツとお念仏申しましょう。
ナンマンダブツと呼ぶなかに皆さんの先に往かれた大切なお方
お父さんでありお母さんでありおじいちゃんでありおばあちゃんであり隣のおじちゃんおばちゃんであり
そういう方々が今はお浄土の仏さまとなって南無阿弥陀仏のおはたらきひとつで
私のところにいつでもどこでも還って来てご一緒に生きてくださってあると聞かせていただきます。
 
 「困った時は俺の名前を呼ぶんだぞ」と喚んでくださる仏さまです。
今日一日もいろんなことがあるでしょうがナンマンダブツとお念仏申して日暮しさせていただきましょう。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2020.1.19)

南無阿弥陀仏におまかせしてお念仏申して今を生きる

 お医者さんから癌の診断を受けてお念仏のお同行が今までお聴聞され書き留めたノートをずっと読み返したといいます。
これからどう癌に向き合い自分に向き合って生きていくのかということです。
 読み返してみてここはもうおまかせするしかないと思ったそうです。
私のところでどうしようこうしたいという思いはあってもできることはあっても
もうあとはおまかせというのです。
 
 病気のことはお医者さんにまかせるということでしょう。
その根底にあるのは日頃お聴聞させていただいている南無阿弥陀仏のおはたらきにまかせるということだと聞きました。
 
 まかせるといって難しいです。
どこまでも自分を中心に私が私がという思いが次から次ぎと出てくるのが私たちです。
 
 ただ最後の最期はどうでしょうか。
歎異抄に「力なくして終わる時に彼の土へは参るべきなり」とあります。
 最後の最期は私が私がという力がなくなるのです。
今私たちは力をもって生きているようですが本来その生きる力というのは当て頼りになるものではないということです。
 私は一人で単独で生きているのではありません。
周りの皆さんをはじめこの目には見えない多くの人々あらゆる命に支えられ生かされている私なのです。
大きないのちのつながりのなかに生かされて生きている命と聞かせていただきます。
 
 昨日は阪神淡路大震災から25年経った日でテレビ新聞等々で関連の報道がありました。
被災された方々の25年の歩みです。
 家族を友人を亡くし生き残ったことに何か後ろめたい気持ちがあったといいます。
でもどのように悔やんでも亡くなった人はもう帰って来ない
だったらこの私が亡くなった人の分を精いっぱい生きていこうと思い返して今まで生きてきたと
そして今亡くなっていった人たちに生かされてあったということを有難く思えるようになったというのです。
 避難所でおにぎりをみんなで分け合って食べた思い出にふれ
多くのいのちに支えられ生かされて生きているということを本当に思うといいます。
 
 南無阿弥陀仏の大きないのちのつながりのなかに生かされて生きていることを聞かせていただきます。
「どんなことがあっても私が一緒だから大丈夫だよ あなたの命そのまんま私が引き受けたからまかせなさい」と
喚んでくださる阿弥陀仏さまがいらっしゃることを今聞かせていただくのです。
 南無阿弥陀仏のお心おはたらきを聞かせていただくなかに
私ができる精いっぱいのことをさせていただきましょう。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2020.1.18)

ご本山の通夜布教をネットでお聴聞させていただきました

 昨日お話しましたが
ご本山の通夜布教をインターネットでお聴聞させていただきました。
 一人40分の持ち時間で15人の布教使さんが代わる代わる
昨夜の7時から今朝5時半までご法話お取り次ぎされます。
 
 布教使さんそれぞれ違います。
お念仏の声が違います。声の高さも大きさもそれぞれ特徴あるものです。
話しぶりも違います。
 
 ただ同じことがあります。
ご本尊の阿弥陀さまを中心としたご縁です。
 ご法話の前に布教使さんも阿弥陀さまの方を向いて座りお同行の皆さんとご一緒にお念仏を申します。
そしてご法話の後でまた皆さんご一緒に阿弥陀さまの方を向いてナマンダブツと
それぞれお念仏の声は違いますがお念仏申すのです。
 
 それぞれ違う声それぞれ違う生活ぶりの皆さんが一堂にナンマンダブツとお念仏を申し
南無阿弥陀仏の声を聞かせていただくのです。
 
 私たちの浄土真宗のご法義は南無阿弥陀仏の声になってくださった阿弥陀さまの大悲のお救いのご法義です。
南無阿弥陀仏の大きなおはたらきのなか共々に生かされてあることを聞かせていただきます。
 
 今ここに生きてるこの私を目当てに「必ず救うまかせよ」と力強い南無阿弥陀仏のおはたらきとなって
私のところに至り届いてくださってあるのです。
 そのおはたらきが今日もこうして皆さんそれぞれの声ですが
南無阿弥陀仏とお念仏となって出てくださったということです。
 
 今日一日それぞれ生活ぶりは違いますがお念仏申すなかに生きて往けるのです。
そしてこの命終わりますが死んだら終いではなくて同じ阿弥陀さまのお浄土に生まれさせていただき
阿弥陀さまと同じ南無阿弥陀仏の仏さまとなってこの世に還り来て
人々を救うという阿弥陀さまのおはたらきのお手伝いをさせていただけるのです。
 
 遠い京都のご本山にネットでつながってご一緒にお念仏のご縁に遇わせていただいたことを
本当に有難く思いました。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2020.1.16)

阪神淡路大震災から25年が経ちました

 今日1月17日は阪神淡路大震災が起こった日で25年が経ちました。
もう25年かと年月の経つ早さを思うとともに1月17日という日が私たちの記憶から遠くなるようなことをまた思います。
 
 被災され大切なお方とお別れをして25年です。26回忌のご縁です。
四半世紀と言われ25年は一つの大きな節目です。
 私たちは何か5年周期10年周期でものごとを考え区切りをつけていくようなところがあります。
ただ被災された方にとっていつまでも区切りということはなく忘れることのできない人生の一大事だと思います。
 
 大切なお方とお別れして24年で25回忌32年で33回忌のご法事のご縁をいただきます。
こんなお話をします。
 親子でいうと親が先に往って子が後というのが想定される順番です。
親の25回忌33回忌のご法事はその子が親の歳に近づくご縁ということです。
 子が親の歳になって親の言葉が生きざまが少しわかるようになる
今まで気づかなかったことに気づかされるのもこのご法事のご縁ではないですかというお話です。
 
 阪神淡路震災で6434人の方がお亡くなりになりました。
家族であったり友人であったりですが年齢の高い順に亡くなったかというと違います。
 子に先立たれた親がたくさんいます。
年老いた親が働き盛りの子を亡くすのです。順番でいったら自分が代わってあげたいと思ってもままなりません。
結婚して初めて恵まれた子に先立たれるのです。
 親が子のご法事を勤めるのです。どんな気持ちでお勤めされるのでしょうか。
もし生きていたらと子どもの成長を思い描き25年経って震災当時の自分の歳になってまた涙にくれるのでしょうか。
 
 1月17日にいつもかえるのでしょうね。
いや1月16日にかえりたいですね。
 でもままなりません。
何年経ってもいろんな思いはあってもままなりません。
 そういうなかにも私たちは日暮しをしています。生きていかねばなりません。
 
 阪神淡路大震災に遭遇したかしなかったかの違いはあっても
私たちが生きるということはまさにままならない思い通りにならない人生であり日々を送っているということです。
 やるせない私たちの悩み苦しみを見抜かれて必ず救うと私のところに来てくださり私と共に生きてくださる
仏さまがいらっしゃると聞かせていただくのが浄土真宗阿弥陀さまのお救いの教えです。
 ナンマンダブツとお念仏を申すところ「私がいるよ大丈夫だよ」と阿弥陀さまがご一緒です。
その阿弥陀さまの南無阿弥陀仏のおはたらきのお手伝いをしてくださるのが
先に往かれた皆さんのご先祖有縁の仏さまなのです。
 
 先に往かれた大切なお方を仏さまと仰いでいけるのがご法事のご縁です。
もう25年過ぎたからご法事は勤めなくてもいいのではありません。
 時間が経って悲しみは薄くなる無くなるのではありません。
いよいよ悲しみのなかに私たちは日々暮らしていかなければんりません。
 
 今日1月17日阪神淡路大震災関連の報道ニュースに接することが多いと思いますが
仏法を心に入れてお念仏申すなかにまた過ごさせていただきましょう。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2020.1.17)
円光寺
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