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お念仏を申す生活法話

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マスク越しのお念仏の声が聞こえます

 中国の武漢を中心に新型肺炎が猛威をふるい警戒感が日に日に強まっています。
武漢は大分市と友好都市という深い関係にありますが
一千万人の大都市の道路空路鉄道を封鎖して人と人との交流を断つという感染防止のための隔離政策にでました。
 
 とはいえ人の動きを完全に止めることはできません。
今中国は春節という旧正月の大型連休の最中で
国内外で人の大移動があり日本にも多くの中国人観光客がいらっしゃっています。
 
 東京のデパートでは店員にマスクの着用をすすめているということです。
接客業の方がマスクをつけることは甚だ失礼なことですが
今の状況下ではマスクをつけることで安心感を与えるということでしょうね。
 
 今日は皆さんマスクをしていませんが
風邪の症状がある人がマスクをしないで咳をするってちょっと非常識ですね。
 マスクは内外からの感染の防御に役立つものです。
どうぞ気になるときはマスクをつけることをこころがけましょう。
 
 さてマスクをつけてのお勤めです。
仏さまに無礼なことだと言うなかれ
重い症状があればゆっくり安静にすることをおすすめしますが
マスクをつけてのお勤めもあるのかなと思います。
 マスクをつけてもお勤めはできます。
 
 マスク越しのお念仏です。
マスク越しのお念仏の声が聞こえます。
 必ず救うまかせよの阿弥陀さまの南無阿弥陀仏のお喚び声です。
お念仏は無碍光のおはたらきでさえぎるものは一つもないといいます。
 
 お念仏のおはたらきに感染して今この私の口からナンマンダブツとお念仏が出てくださいました。
お念仏のかぜを見事に引きこんだ私です。
 
 「かぜをひけばせきがでる/才市はご法義のかぜをひいた/念仏のせきがでるでる」と
浅原才市さんのお念仏のうたです。
 阿弥陀さまの真実信心のおはたらきがこの身に届いて
お念仏となって出てくださる有難さを思います。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2020.1.25)

お墓選びの条件は?

 昨日テレビの番組でお墓選びについて老夫婦の方がインタビューに応えていました。
どういう基準でお墓を選びますかということです。
 自宅から近い1時間範囲のところで何といってもできるだけ安い方がいいということです。
いろんな希望があるなかで今は屋外のお墓より納骨堂が人気があるといわれます。
 
 お墓選びの条件ではっと思ったのは檀家にはなりたくないということでした。
浄土真宗でいう門徒です。
 お墓はもちたいがお寺とのつながり関係はもちたくないというのです。
お寺に対する先入観があるように思えて残念です。
 
 一般の人からいうとお寺の檀家門徒になると
大きな寄付であったり分からない納め金があったりお寺での務め事があって大変だということです。
 お寺は法事や葬式の時だけ用事のあるところで
お坊さんはお経をあげてもらう人でその対価としてお布施を包むことはわかるということなのでしょう。
 お寺は日頃は関係ないところで今は葬式や法事の時だけお願いできる
便利なお坊さんがいるということなのでしょうか。
 
 もういいお歳の方です。
年輩の方がそうですから若い世代になると増々お寺離れの傾向が強くなるのではと思ってしまいます。
 お寺の側からいうとそれではお寺が成り立っていかないのです。
お寺の護持ができなくなり、お寺がなくなりお坊さんもいなくなってしまうことになります。
 お葬式やご法事は誰がどのようにお勤めするのでしょうか。
お寺が管理するお墓はどうなってしまうのでしょうか。
 
 私たちは当面する目先のことについて自分を中心に損得で物事を考えがちです。
仏さまの教えを聞いて広い視野で私たちのあり方を見つめ直すことも大事だと思うのですが
仏さまのご縁に遇うことが本当に難しくなりました。
 
 その番組でいつも斬新な発想で発言される若いコメンテーターの方の見解です。
私は昔から伝わる古里の先祖代々の墓に入りたいと言ったのです。ちょっと意外でした。
 私がどうしようかと迷うのではなく既に決めてくれてあることが素直に有難いと言うのです。
決めてくれているお墓に入ることで安心できると。
 
 次に付け加えて言われたことに注目しました。
昔からのお墓はそれぞれのお家の墓だがこれからはお墓の形態が大きく変わるというのです。
 遠く地方から東京大阪の都会に出てきて就職し家庭をもって生活し定年を迎えた方が
古里のお家の墓をどうするのか大きな問題になっています。
 子や孫にお墓のお守りを任せることを負担に思い
自分の代で墓終いを考え自分または夫婦の墓を近くに求めるということです。
 
 代々のお墓から個人墓へということですが
現在のお墓事情では中々思うようにいかないというのが現状です。
 そこで先のコメンテーターの意見です。
他家に嫁いだ妹が実家のお墓に入りたいと言ったらそれもいいのではないかと思うと言われたのです。
 
 これは今から実際に起こり得る事例だと思います。
代々のお墓をお守りする人がいなくなり墓終いをしてもお遺骨は残るのです。
 そのお遺骨をどこにご安置するかということです。
お家のご先祖のお遺骨にこだわらずお遺骨をご安置できる場所です。
 有縁のお家のお墓ということもあると思いますし
今は友だち同士の共同墓もあると聞きます。
 
 もっと発想を広げてこのお寺です。
浄土真宗のお寺は私たちが救われる阿弥陀さまのお浄土への道行きを聞かせていただくお念仏の道場です。
 お浄土はお念仏の人がみんな等しく往き生まれることのできる俱会一処の世界と聞かせていただきます。
お家のお墓という発想を超えてお浄土参りのお寺でご門徒の方々を広く預かるということです。
 
 日頃からお寺がより身近なところになり仏さまのご縁につながります。
仏さまのご縁に遇えてお寺の門徒でよかったと喜んでもらえる方に一人でも多くあえることが
このお寺をあずかる住職の楽しみです。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2020.1.24)

大丈夫じゃない私に寄り添って「大丈夫だよ」とご一緒くださる仏さま

 歳を重ねると物忘れが多くなると言われます。
私自身のことで先日お参りを忘れていました。
先方から電話があり坊守がすぐ私に連絡をしようと私の携帯に電話したのですが私が携帯を忘れていたのです。
携帯が携帯になっていません。
 
 そして昨日そこのお家にお参りしたことです。
準備怠りなく忘れ物のないようにと携帯は第一に持っていきました。
 これで大丈夫と車に乗って途中で気がついたのです。
このご縁にお届けしようと思って準備していたものをそのまま忘れてきたのです。
 
 これで大丈夫と思っていても忘れることがあるのです。
注意が足りないと言われればそうですが準備万端と思って何か一つ忘れることがあります。
 
 私が準備をしてこれで大丈夫と思って私が忘れるのです。誰のせいでもありません。
大丈夫と思い込んでいる私ですが実は大丈夫ではないのです。
 
 この生死の身のことです。
私は大丈夫とこの身を当て頼りに生きていますがちっとも大丈夫じゃないのです。
 いつ何時どんな事態が待ち受けているのかもわからないなかに私たちは生きているのです。
 
 大丈夫じゃない私に寄り添って「大丈夫だよ」とおはたらきくださる南無阿弥陀仏のお心を聞かせていただきます。
お念仏申すところに阿弥陀さまが私に付いて離れずご一緒してくださっているのです。
 
 南無阿弥陀仏のおはたらき一つで救われるご法義です。
阿弥陀さまの本願念仏のお心を聞かせていただきお念仏申す身にさせていただきます。
 お浄土参りにお金が要るとか善いことをしないといけないとかの条件は一切ありません。
お念仏申す身そのまんまのお救いと聞かせていただきます。
 
 南無阿弥陀仏とわが名を称えてくれよと申されます。
はいっとお念仏申すところに今こここの私にご一緒してくださる阿弥陀さまがいらっしゃいます。
 私が忘れようが忘れまいが阿弥陀さまはいつでもどこでも私とご一緒です。
決してあなたを忘れない決してあなたを見捨てることはないとおはたらきの仏さまになってくださったと有難く思います。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2020.1.23)

どの方角が良いんですか?

 納骨堂に新しい納骨壇が入って昨日から申し込みをされた順番に場所決めをしていただいています。
26基とたくさんありますから迷うんでしょうね。
 「どれが一番いいんですか」と言われ「どの方角がいいんですか」とも尋ねられました。
墓相ということを言われているようでお墓の姿かたちや方角とかも言われるんでしょうね。
 
 納骨堂に行ってもらうとわかることですが
墓相といって納骨壇は古い新しいの違いはあってもみんな同じ形態のものです。
方角も一つの方角ではなく東西南北四方に向いています。
 
 お家お家それぞれの納骨壇にご先祖有縁の方々のお遺骨をご安置していることですが
納骨堂というみんな一緒のところにご安置させていただいているということです。
 
 みんな一緒のところとは阿弥陀さまが中心のところです。
この本堂もそうです。
阿弥陀さまが中心のところに私たちはご一緒させていただき阿弥陀さまの方を向いて座っています。
 
 日々の生活のなかでいつも阿弥陀さまの方を向いているわけではありませんが
阿弥陀さまからいうと私たちがそれぞれどんな方向を向いていても
阿弥陀さまの方がご一緒してくださるという南無阿弥陀仏のご法義なのです。
 納骨壇にはそれぞれ阿弥陀さまが中心にご安置されています。
 
 私たちは私が私がと自分を中心に思いはからい生きています。
我執といって私の思いはからいにとらわれてこれがいいあれがいいと迷っているというのです。
 我に執着して私たちは苦しみ悩み迷いからのがれることができないというのが仏さまの見立てです。
 
 そんな私に「我にまかせよ必ず救う」と阿弥陀さまはおはたらきです。
南無阿弥陀仏のおはたらきにまかせて納骨壇が東西南北どっちを向いていても
阿弥陀さまがご一緒のところに私たちはみんな生まれ往くことができるのです。
 
 南無阿弥陀仏のお心おはたらきを日頃から聞かせていただきましょう。
その時になったらまたまた私のはからいが出てくるのが私たちのようですが
お念仏を申すなかに阿弥陀さまのお心おはたらきを今日も一日聞かせていただきましょう。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2020.1.22)

泥田に咲く蓮の花のようにお念仏の人を讃えます

 お念仏をよろこんで生きられた方を妙好人と讃えられます。
お正信偈さまのなかで「是人名分陀利華」という言葉があります。
分陀利華という蓮の花の中でも最も高貴とされる白蓮華のことで信心の人を讃嘆していうのです。
 
 蓮の花は泥田に咲く白い清らかな花です。
まさに仏さまのお姿といただきます。
 泥田とは五濁悪世といわれるこの現実世界のことです。
煩悩うごめく泥のように濁り汚れた世界に白い清らかな花をポーンと咲かせるのです。
 阿弥陀さまからいただいた信心は清浄なお念仏の花となって私の汚れた心に咲いてくださるというのです。
 
 お念仏の花を咲かせましょう。
この口から出てくださるお念仏です。
 愚痴がこぼれ人の悪口が出るこの口です。
毎日かかさず多くの命をいただく欲の口です。
 この口からナンマンダブツとお念仏が出てくださるのです。
 
 まさに煩悩いっぱいのこの身にお念仏の花を咲かせていただくのです。
私が咲かせた花ではありません。
 阿弥陀さまがこの私を必ず救うという大きな願いをもって
何度も何度もあきることなくこの私を喚び続け喚び覚ましてくださった
南無阿弥陀仏のお喚び声のおはたらきなのです。
 
 お念仏を申すそのまんま阿弥陀さまのお心おはたらきを聞かせていただくお念仏申す生活です。
今日の一日もナンマンダブツとお念仏申してお浄土への人生を共々に歩ませていただきましょう。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2020.1.21)
円光寺
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