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お念仏を申す生活法話

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大雨の中をようこそのお参りです

2020-06-19
梅雨に入って今日は大雨になりました。
この時期6月中旬から7月中旬にかけて毎年集中豪雨が各地で起こり大きな被害がでます。
 
 大変な大雨の中を皆さんようこそお参りでした。
本堂のチャイムがピンポーンピンポーンとなります。
お朝事のお参りの支度をしながらチャイムの音が心地よく聞こえてきます。
 
 私たちは日々それぞれの生活をしていますが
南無阿弥陀仏のお念仏のつながりのなかに共々に生かされてあることを有難く思います。
 この二か月三か月ほどお寺のいつもの行事をお休みしていましたが
6月に入ってぼちぼち行事を再開するなかで
久しぶりに会う方ばかりですが何か昨日もあったような感じさえします。
 常朝事の皆さんは実際に毎日毎朝お会いしていますからそうなのですが
ご一緒にお念仏申させていただき大きな大きないのちのつながりのなかに生かされて生きていることを思います。
 
 お念仏に生かされる救いお念仏に生きる安心です。
お浄土に生まれさせていただき仏に成るいのちを今こここの私が生きているのです。
 お念仏のご縁つながりです。
ナンマンダブツとお念仏申すなかに今日もそれぞれの生活をさせていただき
共々にお浄土への人生を歩ませていただきたいと思います。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2020.6.19)

49年前のお葬式のご縁を思い出します

2020-06-18
 昨日50回忌のご法事のご縁がありました。
昭和46年にご往生された方で49年前のお葬式の話になりました。
 私たちが暮らす三佐は昭和50年代以降の区画整理事業ですっかり昔の町並みが変わりました。
あの辺に昔の家があったとか隣が前がどこどこの家だったという話です。
 当時のお葬式はどこのお家も自宅でしていました。
そんなに広くないお家でお葬式は一軒のお家だけではできません。
 お膳所といってお斎をいただくお家がありました。
お寺のお坊さんが着替えをしたりする控えのお家も要ります。
 
 そうした近所のお家を借りないといけません。
今でいったら近所に迷惑をかけることで本当に大変なことですが
以前はそれが当たり前でした。
 
 村八分ということをいいます。
昔村落の中で掟や秩序を破った者を住民が結束して交際を断つことですが
村八分ということで二分は共同ですることを残しているのです。
 それが火事とお葬式なのです。
火事に遭って共同で消火活動をしないことには自分の家に飛び火してしまいます。
 そしてお葬式です。
色んなことがあったけれども最後は村のみんなで送りましょうという人情です。
 
 地域の隣保班の皆さんでお葬式をつとめるのです。
今は葬儀社に頼んだら何でもサービスしてくれます。
 当時は近所の方がお寺に夜中でも知らせに来ていました。
役場への届も近所の方がしていたのではないでしょうか。
お葬式の準備も炊き出しもです。
 ご遺族にとっては大切な方との最後のお別れです。
ご遺族がしなくてもできることを近所の方が代わってするということで
自分の仕事を休んでまでも大変だけれどもそれがお互いさまだったのです。
 今は隣のお家の人が亡くなっても後からそのことを聞くようなことです。
 
 私たちの日々の生活です。
今は村八分という以上に人と人とのつながりがバラバラです。
 私たちは南無阿弥陀仏のお念仏のつながりのなかにお寺とご門徒という関係をいただいています。
ナンマンダブツとお念仏を申しお念仏の心を聞かせていただくなかに
私たちが今できることでお葬式のあり方も考えていきたいと思ったことです。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2020.6.18)

煩悩の身をそのまま救うお念仏申す身にしてくださるのです

2020-06-17
観無量寿経に「光明遍照十方世界念仏衆生摂取不捨」とあります。
ありとあらゆる世界に阿弥陀さまの光明が遍く照らし行き渡って
念仏の衆生を摂め取って捨てない救うというおはたらきを摂取不捨のご利益といただきます。
 
 一方ご和讃に「煩悩に眼さえられて摂取の光明見ざれども大悲ものうきことなくて常にわが身を照らすなり」とあります。阿弥陀さまの必ず救うというおはたらきが光明となってもうすでに私のところに届けられているのだけれども
煩悩に眼がさえぎられて光明が見えないといいますが
大悲のおはたらきは煩悩の身の私をそのまま光明の中に摂め取ってくださるというお救いなのです。
 
 この身です。
本願を信じお念仏申す身にさせていただくと聞かせていただきます。
 今日もこの私の口からお念仏申せました。
お念仏を申す身にさせていただくということは
もうすでに南無阿弥陀仏のおはたらきが私に至り届いて摂取の光明の中にあるということなのです。
 
 煩悩具足の凡夫です。このわが身のことです。
煩悩が身について離れないのです。
 どんな善行修行を積んでもこの身から片時も離れることなく煩悩がしっかりこの身についた私です。
 
 阿弥陀さまは煩悩の身を生きるこの私を目あてにすっとお立ちになって南無阿弥陀仏とおはたらきです。
煩悩のままに救うて往くというのです。
 親鸞聖人はそのお心を「不断煩悩得涅槃」とお正信偈さまに述べられています。
阿弥陀さまの摂取の光明に抱かれて煩悩の身を生きていけるのです。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2020.6.17)

お念仏申す身にしてくださる南無阿弥陀仏のおはたらきです

2020-06-16
常例法座にようこそのお参りでした。
2月のご縁以来4か月ぶりの常例法座です。
 お彼岸のお中日法要はお勤めさせていただきましたが
4月5月と通常のお寺の法要行事はお休みさせていただきました。
 
 本当に久しぶりのご縁で皆さんと長らくお会いしていませんでしたが
あらためてそんなに久しぶりという感じがしません。
つい最近何か昨日もお会いしたようにも思います。
 今日もご一緒に何度も何度もお念仏申させていただきました。
お念仏のご縁南無阿弥陀仏のおはたらきにつながっていることを本当に有り難く尊く思います。
 
 コロナ感染防止のためにお寺のお参りもマスク着用でお願いしますとご門徒皆さんにご案内しています。
私もつとめてマスクをして法務をさせていただいていますがこれが中々身につきません。
 先日もマスクを忘れてご法事のお参りに出た後で気がついて取りに帰ることもなく
マスクをして待っておられた皆さんに申し訳ありませんでした。
 
 携帯電話も身につきません。
昨日もスマホを忘れて外出してこの間に急な連絡が入ったらそれこそ一大事です。
携帯が携帯になっていません。
 
 浄土真宗のご法義は阿弥陀仏の本願を信じお念仏申す身にさせていただくお救いの法です。
南無阿弥陀仏のおはたらきがいつでもどこでもこの身についてくださるということです。
 生死の迷いの身を生きる私をそのまま大悲の光明の中に摂め取ってお浄土に生まれさせさとりの仏にしてくださいます。
煩悩具足の凡夫を目当てに「まかせよ救う」と南無阿弥陀仏のおはたらきです。
 
 お念仏申して日々生活させていただきお浄土への人生を共々に歩ませていただきましょう。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2020.6.16/常例法座)

「信をとれ信をとれ」と蓮如上人のお勧めです

2020-06-16
 今日16日は親鸞聖人の月命日で10時から常例法座を四か月ぶりに開きます。
16日の御文章は「信心獲得章」です。
 1日の「聖人一流章」とともによく拝読させていただくもので
蓮如上人は御文章さまに一貫して他力の信心を獲得せよと「信をとれ信をとれ」とお勧めです。
 
 今から500年以上も前から蓮如さまが私に毎日くだされるお手紙です。
ご開山親鸞聖人のお心をわかりやすくお手紙にして届けてくださってあるのです。
 阿弥陀仏の本願を信じ念仏申さば仏に成るという浄土真宗南無阿弥陀仏のお救いの法です。
信心は阿弥陀さまの真のお心です。
 すべてのものを必ず救うと南無阿弥陀仏のおはたらきとなって
いつでもどこでも私のところに至り届いてくださっているのです。
 私一人だけではありません。
阿弥陀さまの智慧と慈悲の大きなおはたらきのなかに
私も隣の人も生きとし生けるすべてのいのちを摂め取って捨てないというお心おはたらきなのです。
 
 南無阿弥陀仏のお心を聞かせて信心いただいて
この私の口からナンマンダブツとお念仏が出てくださいます。
 本願を信じ念仏申す身にさせていただいてこの人生を生き抜き
命終わってそのままお浄土に生まれさせてもらってさとりの仏に成らせていただくという
南無阿弥陀仏のおはたらき一つで救われるみ教えです。
 
 仏に成らせていただくいのちを今こここの私が生きていると聞かせていただくとき
仏さまの大きな願いにかなった生き方ができているか問われます。
 お念仏を申す身にさせていただきますが
この生身は縁が整えば何をしでかすかわからない罪悪深重の凡夫の身そのものです。
 ありのままの私を明らかに照らし出してそのまま救うてくださる
この私こそが阿弥陀さまの大きな大きなお慈悲の目当てなのです。
 
 南無阿弥陀仏の大きないのちのつながりのなかに
今日今こここの私を生かさせていただける有難さ尊さを思います。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2020.6.16)
円光寺
〒870-0108
大分県大分市三佐3丁目15番18号
TEL.097-527-6916
FAX.097-527-6949
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