南無阿弥陀仏のご本尊の阿弥陀さまのお家のあんのん館でお念仏のお話です
2020-10-10
昨日あんのん館で円光寺通信でご案内の
<仏事なんでも相談室>をしました。
月に2回金曜日の午後開いていますが
これまでいらっしゃった方は殆どいません。
昨日の会はその前日にホームページのお知らせ欄に
「明日仏事なんでも相談室をします」と載せました。
午後2時前からあんのん館で待っていましたら
2時過ぎに一人のご門徒さんが来てくださいました。
「ホームページをみられましたか?」と聞くと
「ホームページをいつも見ています」と言われて
すごく嬉しく有難かったです。
毎月<円光寺通信>でお寺の法要行事のご案内をしますが
一か月の予定で何日か先のことですので
すっと見過ごすことも多いのではないでしょうか。
特別な用事でもない限り何日か先の予定まで立ちません。
そうしたなかで重ねて明日のご案内です。
親鸞聖人の御廟所大谷本廟の墓地にお参りしましょうとの
キャッチフレーズが「明日、会いに行こう」です。
明日です。
今日の日程は皆さんほぼ決まっていると思います。
明日です。
明日の日程も決まっている方もいらっしゃると思いますが
少し時間の猶予があります。
お寺はみんなのフラットホームという話です。
ふらっとお寺に来ませんかというお誘いします。
阿弥陀さまがいつもお待ちです。
あんのん館も南無阿弥陀仏のご本尊の
阿弥陀さまのお家です。
御仏前でお話をします。
仏事に関することですが
お家のことこれからのお寺のことなど
日頃思ってらっしゃることに話が広がりました。
お寺のことをこんなに思ってくださっているのだと
有難くそして頼もしくお話をお聞きしました。
御仏前でお話ができるというお寺の強みです。
お朝事にお参りの皆さんにこうして私がお話していますが
皆さんもお話しているのです。
仏さまと南無阿弥陀仏のお話です。
「仏と話をするときは称名念仏これが話よ」と
先人の言葉をいただきます。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2020.10.10)
お坊さんはお経の配達人でしょうか?
2020-10-09
昨日昼前にご門徒さんから電話があって
「お参りを待っているんですがまだですか?」
ということです。
通常ご門徒さんのお家には申し込みで日を決めて
月参りというお参りをしています。
月参りをしていないお家で
祥月のお命日にお参りしてほしいというのです。
祥月のお参りはご法事と同じように
その都度ご門徒さんから申し込んでもらいます。
ご法事は事前に電話で日時を打ち合わせ
後日ご法事の通知と一緒に配布した申込書に記入して
お寺にお持ちいただくか郵送してもらうようにしてます。
二度手間になりますが過去に電話で聞いていたのに
予定帳につけ忘れてご迷惑をかけたことがあって
確認の意味でもそうさせていただいています。
ただ祥月のお参りまで文書で申し込んでください
ということではありません。
聞きますとお盆参りの時に伝えていたというのです。
それだったらこちらの不手際で申し訳ありません。
お坊さんはお経の配達人と言われたことがあります。
確かにお経をあげるのがお坊さんの仕事ですから
出前持ちさんのように
「お経を一つお願いします」と電話がかかってきて
「はい」と二つ返事でお家にあがるということです。
御用聞きもします。
お参りしたついでに次のお経の注文をいただくのです。
私の方に非があるのですが
先方もちょっと心当たりがあるみたいで
お盆でお願いした時にお寺に改めて連絡してくださいと
言われたと思うのです。
その連絡がなかったということです。
お互いにあまり気持ちがいいものではありません。
ご法事だけではなくお家のお参りは
全てご門徒さんからお寺への申し込みです。
昔電話がない時にはどうしていたのでしょうかね。
皆さんがお寺にお参りして申し込まれていたのです。
玄関口ではありません。
本堂にあがって阿弥陀さまにお礼をして
御仏前で申し込まれていたのです。
御仏前に仏さまにお供えをしてということで
御仏前のおつつみの意味です。
今は電話一本です。
昨日はネットの話でしたが本当に便利です。
事務的にはこれで十分です。
ただお互いに顔を合わせることも近況を聞くこともなく
人と人との関係つながりが本当に薄くなりました。
仏さまのご縁はやっぱり日頃です。
日頃から仏事の話を門徒さんにしているつもりですが
本当に聞いてほしい人がいつもお参りされていないのです。
同じことの繰り返しのようですが
それでも縁にふれて仏さまのお話をさせていただきます。
仏さまのご縁に遇わせていただきましょう。
お念仏申す身にさせていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2020.10.9)
阿弥陀さまに相談しましょう
2020-10-08
昨日仏事のことでご相談にみえた方がいらっしゃいます。
ご家庭の事情などそれぞれ色々あるなかでのご相談です。
今はコロナ禍で多くの人が集まる会は敬遠されます。
ネット社会が進み人が集まらなくても
情報を共有できる仕組みがあって
オンラインで相談することもできますが
相談はやっぱり顔と顔を合わせて話すなかに
色んなご事情を知ることもあり
個々のご相談に具体的に対応することができます。
それこそネットで検索すれば
問いに対する答えがすぐ返ってきますので
答えだけを求めればネットで十分済むことです。
ただ相談というのはその背景に悩みがあるのです。
相談したいことを話すなかで
自分の思いを聞いてもらうのです。
話せば話すほど聞けば聞くほどに
いろんなご事情がわかりお互いに共有することになります。
相談者は自分の思いを聞いてもらい答えがほしいのです。
その時私たちお坊さんは
ついつい「浄土真宗では」という言い方をしてしまいます。
確かに浄土真宗の仏事についての答えですが
「それを言っちゃあおしまい」
ということにもなりかねません。
中々話しづらいことまで言って相談しているのです。
もちろん浄土真宗の教義に基づくことですが
それは内に秘めてと気をつけないといけません。
私たちは悩み苦しみ迷う生身を生きています。
まさに日常気にかかる心配事でいっぱいです。
私もその一人であり
そうした方々と一緒に会い話し考えていくことです。
昨日も本堂の阿弥陀さまの前でご相談しました。
阿弥陀さまにご相談です。
阿弥陀さまに悩み苦しみ迷う私を投げ出して
聞いてもらっているのです。
お念仏の先人は
「困ったときにゃお念仏に相談しなされや」と
煩悩具足の身を生きるこの私をそのまま丸ごと引き受けて
南無阿弥陀仏のおはたらきで
ナンマンダブツとお念仏申す身にしてくださると
聞かせていただきます。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2020.10.8)
日本学術会議を巡る騒動が話題になっています
2020-10-07
日本学術会議を巡る騒動が話題になっています。
今までは推薦された全員がそのまま学術会員になれたのに
今回は6名の方が除外されたということです。
説明を求められた菅首相官房長官の発言を聞いていると
何か歯がゆいというか悲しいです。
官僚という事務方が文章を作ります。
前例との整合性をはかることが肝要です。
どこでそんな文章になるのか本当に頭がいいと思います。
結論ありきの文章を頭をひねってひねって作るのです。
皆さんが聞きたい事はただ一つ
どうして6名の方が任命されなかったのかその1点です。
その理由が聞きたいだけなのに正面から答えず
何やかんや言いながら結局は問題をすり替えて
肝心なことをはぐらかす手法です。
前の安倍政権でも度々ありましたが
菅政権も見事にその前例の踏襲です。
そんな不誠実な発言のなかで菅首相が
「学術会議には10億円の税金を使っており
政府の機関で公務員であれば任命権は政府にあり
学術会員は学術会議からの推薦であって
選挙で国民から選ばれた人ではない」
と言われたことに本当のことですが
嫌な感じが残りました。
学術会議の設立は政府が認めたもので
会員一人一人色んな意見があることも承知で
政府にとって耳の痛い意見もふくめて
各学会から多方面の意見を聞くなかで
政策立案の法律は最終的には国会で決めることです。
国を治めるリーダーは
度量の大きなお方まさに大人であってほしいです。
自分の意見に沿わないものを排除していくようでは
自分の意見に沿う者だけが周囲に集り忖度がまかり通って
結果大きな方向性を見失うことにもなりかねません。
リーダーの資質が問われるところです。
リーダーたる者は賛成も反対もあらゆる意見を聞いて
それらを全て飲み込んでといいますか
最終的にこうしましょうと責任をもって決断する
リーダーシップを発揮すればいいのです。
同じレベルでいったらどうかと思いますが
阿弥陀さまの大きなお慈悲のお心を思います。
すべてのものを分け隔てなく救うというおはたらきです。
世間の見方考え方からしたら
何であんな悪いことをした者が救われるのか
そんなに悪いことをしていない私と同じように
救われるのかということです。
阿弥陀さまは善悪賢愚貧富といった人それぞれの違いを
すべて受け入れ必ず救うと引き受けるのです。
すべてのものをそのまま丸ごと救うてくださる
阿弥陀さまのお慈悲だからこそ
凡夫の身を生きる私が救われていく道があるのです。
善い悪いという判断で選別されたら
私たちは一体どうなるのかなと思います。
今の政府にとって
こんなことを言っていたらアウトでしょう。
私たちが生きる世間は窮屈でせちがらく
自分の思い通りに生きようとして
本当に難しくややこしいです。
私たちはどこまでも自己中心に生きています。
自分のことで精いっぱい生きることで精いっぱいです。
人それぞれの思いに生きる私たちを
阿弥陀さまはやさしく見まもって
生き方を告げることなくそれぞれの生きざまに寄り添って
全てを引き受け共に生きてくださるのです。
真っ暗闇の迷いの世界に
阿弥陀さまの智慧の光明が闇を破り光り輝くのです。
阿弥陀さまの教えを聞いて今の現実の問題が
すべて解決するということではありません。
さまざまな問題に悩み苦しむ私たちを
受け止め受け入れてそのまま救うとおはたらきくださる
阿弥陀さまがいらっしゃると聞かせていただくなかに
私たちはこの人生を生きて往けるのです。
前言をひっくり返したら問題だと
頑なに自分の意見を押し通すことではなく
他の意見を聞いて間違っていたら
ごめんなさいと謝ればいいのです。
そしてそこからまた始めればいいのです。
阿弥陀さまのお浄土から開かれたお念仏の道を
今日も共々にお念仏申して歩いでまいりましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2020.10.7)
急なお葬儀のご縁ですがまずお寺に相談しましょう
2020-10-06
このコロナ禍で想定外のことが身近に起こります。
遠方にいらっしゃるご門徒のご家族が急死され
大分に連れて帰ることが難しくて
亡くなった所でお葬儀をしたという連絡です。
若い方でコロナでもあり急なことでバタバタして
連絡が遅くなりましたと先日お寺に相談にみえました。
葬儀をされて法名をもらっているようです。
「どちらのお寺さんですか」とお聞きしましたが
その方はお葬式に行ってないので分からないといいます。
分からないことが多く後日詳しく聞かせていただいて
これからのお勤めをしましょうとお話しました。
もう一件昨日電話でのことで
ご門徒ではなく1か月前に亡くなった方のことです。
親族がご門徒で今度法事をする時に
四十九日のお経をあげてもらいたいとのご相談です。
いろんなご事情で今でいう直葬という葬儀で
お坊さんにお勤めしてもらわず法名もないといいます。
詳しくはお寺に来られてご相談しましょうと
お話しました。
二件ともお亡くなりになってしばらく経っています。
葬儀のご縁は急なこととはわかりますが
まずお寺に連絡して相談してほしいのです。
皆さんからいったらお経だけあげてもらいたい
お経をあげてもらわないと故人の霊魂が浮かばれないと
思っているのではないでしょうか。
そして法名は要らないと言われます。
法名を戴いて仏教徒としてお葬儀をさせていただくのです。
法名はお寺の過去帳に記載しずっとお寺であずかります。
過去帳に記載することで
以後のご法事の案内をさせていただきます。
死んだらおしまいではありません。
死を縁にお寺とのつながりができるのです。
私たちがこの世で生きている証が戸籍です。
生まれて戸籍に記載され亡くなると戸籍にバツがつきます。
浄土真宗のご法義でいうと
人の命は終わりますが南無阿弥陀仏のおはたらき一つで
阿弥陀さまのお浄土に生まれて仏さまに成らせていただく
そのお名前が法名なのです。
戴いた法名をどこに記載するかが大事なことで
お寺が法名をあずかりこれからもつながっていくのです。
過去帳は先に往かれた方の大切ないのちの記録であり
後に遺った方とのいのちのつながりの証なのです。
今はお葬儀の時だけのお坊さんがいて
法名をつけてお経をあげてくれますが
お寺がないお坊さんが結構いるのです。
法名はどこに記載されるのでしょうか。
これからのご法事はどうするのでしょうか。
お寺は仏教を説くところであり聞くところです。
仏教は迷いの私がさとりの仏に成る教えであり
仏さまの教えに基づいてお葬儀があり
お葬儀のご縁に仏さまの教えを
聞かせていただくことが肝要なのです。
お寺だったらどこでもいいお坊さんだったら誰でもいい
お経だったら何でもいいということではありません。
お寺も僧侶もお経も全て仏教の意味あるところです。
平素から仏教に親しんでほしいと思います。
そのご縁の場がお寺なのです。
お念仏のつながりのなかにご縁をいただきます。
それは死んでから後ではなく今ご縁をいただくなかに
死んだらおしまいではなくてずっとずっと
南無阿弥陀仏のいのちにつながっていくという安心です。
南無阿弥陀仏のいのちのおはたらきにつながって
大きな安心をいただき
今日の一日も日暮らしさせていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2020.10.6)