今を大切に生きてまいりましょう
2020-11-25
昨日11月24日は母の95歳の誕生日でした。
今は施設にお世話になっています。
体調が悪いということではなく
コロナ禍もあり用心してということです。
昨日少し話をしながら改めて思ったことです。
私もその歳になってわかることだと思いますが
常に精神的な不安があるようです。
体調がいい時はすごくにこやかに振る舞っていても
ちょっと気にかかることがあると
急に落ち込むことが増えてきました。
皆さんは「元気やね。歳より若いね」と言われたら
何か嬉しく思いませんか。
母も周囲の人からそのように言われて嬉しそうで
私たちはそんな言い方をついついしてしまっています。
その声かけは嬉しいし励みにもなるのですが
高齢になって元気ね若いねと言われても
歳には勝てないことがこの身に出てきます。
励ましのつもりで頑張ってるねと言ってくれることが
身に重く感じることってありませんか。
「そうじゃないんだよ。ちょっとつらくなってきたよ」
というところが次第に出てくるのかなと思います。
生きるということは当たり前ではありません。
実に大変なことです。
何もしなくて生きてきたのではありません。
頑張って生きてきたんですね。
そのことをお互いに認め合うことって
本当に大事なことだと思います。
ただこれからも頑張ってと言うことは
歳を重ねるなかではばかられます。
年老いた人も若い人も今なんです。
今を生きることに変わりありません。
今を大切に生きることが
仏さまの思し召しといただきます。
どんな人もと敢えて言います。
どんな人も生きていることに意味がある価値があるのです。
何か私たちは他人と比較して
こう生きることがよいことで
こんな生き方では駄目だという見方をしていませんか。
あの人のようになりたいと自分が思うこと
しっかり目標をもって生きることは尊いことです。
ただその人のものさしで親しい人から自分を見られると
辛い以上にしんどいですね。
仏さまは今のまんまでいいんだよと
ありのままの私をそのまま受けとめてくださいます。
今のまんまといって
ずっとこのまんまの私ではありません。
刻一刻と変わり行くなかに
思い通りにならないことがたくさん出てまいります。
今のまんまでいいんだよというのは
今のままのあなたをそのまま引き受けて
一緒に生きて往こうという
南無阿弥陀仏のおはたらきにおまかせすることなのです。
仏さまといって私たちのご本尊の阿弥陀さまですが
先に往かれたご先祖有縁の仏さま方といただきます。
私を心底から支えてくださる
南無阿弥陀仏のお喚び声を聞かせていただいて
今日一日も大切に生かされて生きてまいりましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2020.11.25)
浄土のお荘厳が整いました
2020-11-24
昨日はご門徒皆さんに仏具のおみがきから
お内陣のお荘厳外の幕はりまでお手伝いいただいて
御正忌報恩講の準備が整いました。
コロナ禍でいつものお飾りつきやお菓子作りは
今年は取り止めにしましたが
今できる精いっぱいのことをさせていただいたことです。
御正忌報恩講は一年一度の親鸞聖人の御法事を
ご門徒皆さんが施主になってお勤めするという
浄土真宗門徒の最も大切なおつとめです。
何よりご門徒衆のご加勢お手伝いをいただかなければ
こんなに見事なお荘厳はできないわけですが
こうして浄土の荘厳を前にして
阿弥陀さまのお救いの法南無阿弥陀仏のおはたらきの
確かさを本当に有り難くいただくことです。
私にできるお手伝いをさせていただく布施行です。
誰にもできる無財の七施のなかの身施です。
皆さんのお気持ちいっぱいが
阿弥陀さまのお浄土をお荘厳してくださるのです。
もちろん浄土の荘厳は阿弥陀さまの仕業ですから
南無阿弥陀仏一つのおはたらきです。
どうか阿弥陀さまの本願念仏の法に遇ってほしい
お念仏を申す身になってこの人間界を生き抜いて
阿弥陀さまのお浄土に往いて
仏のいのちに生まれてほしいという
大きな願い南無阿弥陀仏のおはたらきのなかに
明後日26日から三日間御正忌報恩講法要を
お勤めさせていただきます。
どうぞ有縁の方お誘い合わせお参りしてください。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2020.11.24)
「こもりびと」って誰のこと?
2020-11-23
昨日の夜NHKのドラマ「こもりびと」を観ました。
衝撃的なタイトルです。
8050問題といって
50歳前後の家に引きこもる子どもを
80歳前後の親が面倒をみるという現代の社会問題です。
引きこもりは家庭環境だけではなく
様々な要因があり個々それぞれにケースが異なって
一概に原因を決めつけ解決策を講じることはできません。
引きこもる子どもをもつ親の苦悩に同情することも
子どもの苦悩に共感することもあります。
私たちが一般的にいだく幸福感です。
幸せな生き方人生の価値観です。
人間に生まれた幸せは良い学校を出て良い会社に就職して
結婚して家庭をもって子どもに恵まれてという
一つの価値観です。
そうしたものの見方で私たちは
他の人の幸せを推し量るところがどこかにありませんか。
それが自分の身内には押し付けになるのです。
親子の関係でいったら子どもの幸せを願わない親はいません。
幸せになってほしいという願いで
小さい頃からしつけや教育ということで
厳しいことを言ったりしたりという行動にもなります。
親の思うような子どもになるのはしんどいですね。
まず親の思う通りには子どもは育ちません。
親の思いが期待が強ければ強いほど
子どもとの心がかけ離れていってしまい
親子の関係がすさんで引きこもりの要因になるといわれます。
ドラマを観て「こもりびと」って誰のことかなと思いました。
社会的な定職に就かず家に引きこもっている人でしょうが
こもりびとって誰のことかというと
自己中心の価値観に固執する私のことだと思うのです。
仏さまの智慧の光に照らされた私のありのままの姿です。
自分を中心に私が私がと一生懸命頑張って生きている私です。
自己中心のものの見方考え方にとらわれ
我執という小さな世界に閉じこもって本当のことが見えなくなり
悩み苦しみ迷いの中にあると仏さまは教えてくださるのです。
ドラマで印象的に残ったシーンが
お父さんが毎晩食事を作ってテーブルに置いておくんですが
夜遅くなって子どもが二階から下りてきて食べるシーンです。
40代の引きこもりの子どもが合掌して食べるのです。
そして食べ終わって食器を洗うのです。
子どもは子どもなりに親のことを思って
精いっぱい生きているんだなと思いました。
新聞のコラムに料理研究家の方が
料理をする人は孤独で苦しみを伴うと書いていました。
家庭料理がなぜいいかというと一緒に食べる人がいて
「おいしいね」と言ってくれたり手伝ってくれたりすると
それだけで救われるといいます。
どんな美味しい料理を作っても当たり前と食べられたら
これほど苦しいことはないというのです。
私たちの日々日常の生活です。
みんながみんな会社の社長になれるわけではありません。
みんながみんな学校の先生になったら
どんな社会になるのでしょうか。
それぞれの生き方があるのです。
その生きざまを仏さまはあたたかく見守って
よう頑張ってるねと声をかけてくださるのです。
よう頑張ってるね。
そうです。みんな頑張って生きてきたのです。
世間からどのように見られているか
自分自身こんなことではいけないと働き口を見つけて
自活したいと思っても体が動かないというのです。
すぐ近くにいる家族からも心の悩みをわかってもらえず
頑張って生きていることが見えなくて
また頑張れ頑張れってついつい言ってしまうのです。
自分なりに頑張って生きている人に頑張れと言うのは
これほどつらい過酷なことはありません。
ドラマは9時に始まって10時13分に終わりました。
中途半端な時間です。
途中で臨時ニュースが入ったのかなと思って
改めて新聞をみたらやはり73分のドラマでした。
私たちの価値観ものの見方でいったら
特にNHKは時間きっかりの15分30分45分60分の番組です。
それが何で73分なのかということです。
作者の意図がここにあると思いました。
みんなが同じようなものの見方ではなくて
73分という時間に
作者が言いたかったことがあったと思うのです。
編集すれば60分のドラマになるのです。
でもこのプラス13分に作者からの発信が聞こえてきます。
生きる価値観です。
いろんなものの見方があって
生活ぶりはみんなそれぞれ違うけれども
いのちは違ってもみんな生きているのです。
それぞれのいのちを生きることは
みんないっしょなのです。
世界中を探しても私と同じいのちはない
かけがえのないいのちを生きている私たちを
阿弥陀さまはそれぞれご覧になって
お念仏申して生きてくれよ私がいつも一緒だからねと
南無阿弥陀仏と喚び続けているのです。
お念仏を申して私たちが生きて往くところを
お浄土と決めてくださっていることを
聞いてくれよというのです。
みんなそれぞれ生活ぶりは違うけれども
みんないっしょに往ける世界があるのです。
私が私がと私の小さなカプセルに閉じこもった人間に
大きな広い世界に生まれて来いよと
南無阿弥陀仏のおはたらきです。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2020.11.23)
怖くても一人じゃないよと誰かに言ってもらっているような気持ちになります
2020-11-22
昨日の新聞のコラムに
自分の力ではどうしようもないことがあったとき
むかしの人たちは、おまじないをとなえてきました
と書かれてありました。
小さな子どもが悪さをしてケガをしたときお父さんは
「そんな無茶をするからケガをするんだ」と叱ります。
痛くて泣きじゃくる子どもに追い打ちをかけるように
「もう泣くな。男だろう」と言い放ちます。
それを見ていたお母さんは子どもに駆け寄り
抱きかかえるように痛いところに手をかけて
「チチンプイプイ痛いの痛いの飛んでけ」と言います。
それで傷が治るのかというとそうではありません。
でも「チチンプイプイ痛いの痛いの飛んでけ」という
お母さんの言葉で何か痛みが和らぎ安心できるのです。
子どもの頃お念仏をおまじないのように
となえていたというお話です。
ちょっと昔のことです。
トイレ便所は家の外にありました。
今みたいに電気があったわけではありません。
暗い中を我慢できなくて便所に行きたい。でも怖い。
その時お母さんが
「お母さんが見てるから大丈夫
ナンマンダブツとお念仏となえて行きなさい」
と言ったことを思い出します。
ナンマンダブツとお念仏申すところ
一人じゃないから大丈夫だからというのです。
暗い夜道を歩くとき不安ななかに
ナンマンダブツの声に安心できるといいます。
南無阿弥陀仏はおまじないのお念仏ではありません。
ただこの口にナンマンダブツと
お念仏の声が出てくださることの安心です。
お念仏の大本は阿弥陀さまの願いです。
苦悩の中で不安な私に寄り添って
ご一緒くださる仏さまの「まかせよ救う」の
南無阿弥陀仏のおはたらきです。
このお念仏の声を伝え届けてくださったのが
皆さんのご先祖有縁の仏さま方なのです。
皆さんのお父さんお母さんであり
おじいちゃんおばあちゃん有縁の方々です。
南無阿弥陀仏の大きな願いがおはたらきとなり
この口からナンマンダブツとお念仏が出てくださって
今日も一日「一人じゃないよ 大丈夫だよ
どんなことがあってもあなたを見捨てないから」という
仏さまとご一緒に日暮らしさせていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2020.11.22)
「大きないのちに 貫かれた 私たちのいのち」
2020-11-21
歎異抄を現代の言葉で味わう『日めぐり歎異抄』を
毎日お朝事のご縁にめくっていただいています。
昨日20日の言葉は
「大きないのちに 貫かれた 私たちのいのち」です。
貫かれたという言葉に目が留まりました。
もう大分前ですがお同行の方から頂いた年賀状に
「去年今年 貫く 棒の如きもの」
と俳人高浜虚子の句がありました。
お念仏を喜び申し生き抜かれたお念仏の先人が
この俳句をどのようにいただいていたのかなと思います。
去年から今年と新たな年に変わるけれども
私を貫く棒のようなものは変わらないということでしょうか。
私を貫く棒のようなものを
お念仏といただかれたのではないかと思うのです。
私たちの日々の日暮らしです。
去年今年と月日は過ぎて行きます。
昨日今日そして明日ということですが
明日の命はわかりません。
ただお念仏のみ教えを聞かせていただくと
私たちはいつでもどこでも南無阿弥陀仏の
おはたらきのなかにあるというのです。
この私を必ず救うという大きなおはたらきが
私のいのちを貫いてくださっているといただきます。
歎異抄第五条
「一切の有情は みなもつて 世々生々の 父母兄弟なり」
のお心を味わって
「大きないのちに 貫かれた 私たちのいのち」
と書かれたのです。
解説に
「いのちあるものはすべてみな、大きないのちの流れの中で
父母であり兄弟姉妹であったのである」とある。
「わたしのいのち」という小さないのちではなく
もっと大きないのちの世界に目覚めた時
本当のいのちのあり方が見えてくる。
とあります。
大きないのちとは南無阿弥陀仏のいのちです。
南無阿弥陀仏のいのちに貫かれつながった私たちのいのちです。
仏法を聞かせていただくと
私たちは生まれ変わり死に変わりを繰り返して
今はこの人間界という迷いの世界に生きているというのです。
何度も何度も生まれ変わる中で
親子であったり兄弟姉妹であったりといういのちにつながって
同じ南無阿弥陀仏のいのちに貫かれてあるというのです。
南無阿弥陀仏の大きないのちのつながりのなかに
生かされて生きている私たちのいのちなのです。
小さな小さな私の世界に閉じこもって生きている私に
本当のいのちのあり方を教え
南無阿弥陀仏の大きないのちの世界に生まれてこいよと
お念仏がはたらいてくださっているのです。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2020.11.21)